これからはあなたと一緒【前編】
「…ティミス」
嬉しそうに、ヴェールの向こうからナーサディアが微笑みかけてくる。
とても綺麗で、どこか儚げなナーサディア。
カレアム帝国にやってきたばかりの彼女とは比較にならないくらい、幸せいっぱいに光り輝いていた。
ここにやってきて、早四年。いや、もうすぐ五年になるだろうか。
ナーサディアは、『ナーサディア・フォン・ハミル』という名を捨てた。
自分をいらないといった家名を名乗ることなど、とてもではないけれど出来ない。単なる『ナーサディア』で良い。家族なんか自分にはいなかった、とはっきり言い切るナーサディアの姿を、ティミスは未だに覚えている。
そしてティミス自身は、皇族として生きていくことはやめることを改めて告げた。
兄二人が極めて優秀であり、特に皇太子にはもう素晴らしい皇太子妃がいること。皇太子には宝石姫もおり、血は繋がっていなくとも彼らの子である。
第二皇子も婚約者がおり、後々皇子妃となるのだから、正妃の血を引くとはいえ自分が居ては余計な争いの火種になりかねない。
だから、ナーサディアとの婚姻前に継承権を永久放棄し、家臣へと降下するつもりだった…のだが、宝石姫との婚姻は帝国にとってあるかないかの祝い事。これを国で祝わずして何になるというのか、と家臣一同、更には二人の宝石姫、兄や姉、更には弟や妹達から烈火の如く迫られてしまい、これについては順序を変えた。
その騒ぎをナーサディア本人は見ていないけれど、ゲッソリしてティミスが邸宅に帰ってきたものだからナーサディアは大層慌てたのであった。
「お待たせ、ナーサディア」
これまでを思い出しながら、一歩一歩、愛しい妻の元へと歩んでいくティミス。
ヴェール越しに見える顔はとても晴れやかで、相変わらず美しい。何も無ければこのまましっかりと抱き締め、髪を撫で、飽きるまでべったりくっつきたいという思いがあるが、これからが二人にとってのある意味本番なのだから、そうするわけにはいかない。
邸宅に帰れば思う存分できるから、と己を戒めた。
「私こそ、待たせちゃってごめんなさい。…変じゃないかな?」
「綺麗だよ、すごく」
「えへへ…」
ふにゃりと表情を崩して笑うナーサディアが可愛くて、あと一歩、近付いたら触れられるその距離までやって来た。
ティミスが彼女に触れようかと思っていると、不意にナーサディアから手が伸ばされ、小さな手がティミスの手をきゅう、と握る。どうしたのだろう、とティミスが思っていると、次第に握る手に力が込められていく。
か弱いとはいえ、ぎぎぎ、と込められていく手の力にティミスはどうしたのだと問いかけた。
「あ、あの、ナーサディア?」
「ティミス、いくらかけたの?」
「へ?」
「お飾りとか、色々。確かに式をあげる前からもう用意してあるとは聞いてた。でも!」
ばっと勢いよく顔を上げたナーサディアは、どうやら怒っているらしいのだが、ティミスは魂の番であり己の宝石姫であり、更には妻になるナーサディアがどんな顔をしていても愛すると豪語した男だ。
怒っている顔を見ても少しキョトン、としただけで、すぐにナーサディアにだけ向ける柔らかな微笑みを浮かべた。
「でも?」
優しく続きを促すと、思っていたような反応ではなかったせいか、ナーサディアもつられてキョトンとしてしまうが、即座にハッと我に返りまた軽く目尻を釣り上げる。
「いくらかけたの!! ウォーレン王国を出る時にも色々貰ったし、あの時のティアラ気に入ってたから付けようと思ってカリナとチェルシーに用意してもらってたのに!」
「え、駄目だった?」
「そうじゃなくて! あ、いや違わない! ティアラは形がほぼ同じだけど新しいのに変わってるし、イヤリングとか、ダイヤは小粒だったのも明らかに大粒になってリメイクされてるし! しかもどうして装飾品増えてるの!」
「似合うと思ったから」
「えぇ…」
躊躇することなくはっきりと、それはもう真剣な顔で言い切るものだから、ナーサディアの怒りもどこかに家出してしまう。
「だからって…お金、かけすぎ…」
あわあわとした様子でナーサディアも負けじと反論するが、お金のことを出されるとティミスはにっこりと満面の笑顔でこう返した。
「大丈夫! 個人資産からだから!」
「ティミスの個人資産は、きっと私が思ってるより桁が多い」
「そう?」
「そうなの! …絶対…お金、すごくかかってる…」
「んー…。でもね、ナーサディア。僕が、君のためにしてあげたかったんだ」
「で、でも!」
「これでも遠慮したんだよ? 父上や母上に全力で止められちゃってね」
「うそぉ…」
心の中で、義父と義母にナーサディアはそっと謝罪した。金銭感覚が普段はかっちりしているティミスなのに、ナーサディアに関することだと財布の紐が緩むどころではなく、そもそも紐が無くなってガバガバになるらしい。
一緒に過ごしてきた年月の中で、一応ナーサディアも理解はしていたのだが、予想を超えられてしまった。いや、いつも彼はナーサディアの予想を軽く超えてくれる。
「ナーサディア、リメイクしたり新調したりしたのには理由もあるんだよ?」
「理由…?」
「そう。宝石姫たる君の結婚式だ。…諸外国の重鎮も参加しているし、我が国の貴族も全て参加している」
「う、うん」
「舐められるわけにはいかないんだ。ちなみに」
「ちなみに?」
「精霊達も全力でナーサディアを祝福するって言うから、色々グレードアップするしかないだろう?」
当然だ、と言わんばかりのティミスの答えに思わず頭を抱えたくはなるが、ナーサディアの現状を考えるとそれもいた仕方ないのだろうと思う。
帝国の宝であり、世界にほいほい居るわけではない『宝石姫』なのだ。
精霊にも愛されている稀有な存在たる彼女らの結婚式ともなれば、生半可なものを行うわけにはいかない。
「それ、は…、そうだけど」
「僕はね、ナーサディア」
すい、とティミスの手が伸ばされた。
ヴェール越しに優しく頬に触れられ、指先がするりとナーサディアの頬を撫でていく。
「君を、全ての人に自慢したいんだ。どうだ、僕の宝物はとても綺麗だろう?ってね」
不敵な笑みを浮かべ、ティミスは言葉を続ける。
「こんなにも可愛くて、綺麗で、優しくて…僕の自慢の宝物なんだよ、君は」
いつでも、ティミスはナーサディアに対して優しいし、全てをかけて肯定してくれる。味方でいてくれる。
あの国から出る時も、全てをかけて守ってくれた。
帝国に来て間もなく、ティミスに対して皇子妃の座を狙い、我が娘を差し出そうとしている心無い貴族からナーサディアが暴言を浴びせられた時も、そうだ。
後々、ナーサディアも『やられっぱなしでいてやるものか』と思うこともあり、きっちりやられた分はお返ししてやったりもしたのだが、ティミスが隣に立っていてくれているからこそ頑張ろうと思えたのだ。
「…ティミスは、私馬鹿だ」
「そうだよ。あれ? 知らなかった?」
「…知ってた」
繊細なレースの手袋越しに、頬を撫でるティミスの手に触れ、軽く擦り寄った後に指を絡めて互いの手を握り合う。
心地いい温かさに、ナーサディアの表情もようやく再び綻んでいく。
「私は、そんなティミスが…大好き」
迷うことなく言い切り、遠慮がちに自らティミスの腕の中に収まるナーサディア。
ヘアセットや装飾品、色々なものを崩してしまわないよう、今は優しい力で抱き締めてからティミスは微笑んだ。
「僕もだよ、ナーサディア。君を見つけるために、僕は生きてきたんだ」
だからね、と続ける。
「今も、これからも、君は僕に大切に愛されて?」
「ティミス…」
ウォーレン王国を出てから、いつだってナーサディアのためだけにかけられる、ティミスからの嘘偽りのない言葉の数々。
『愛』というものは、きっと自分には縁遠いものであった。あの国にいて、あの塔の中に閉じ込められている状態であれば尚更。
両親だった人たちの愛は全て、己の片割れのためだけに存在し、そして注ぎ込まれていた。利用価値があると分かった途端に愛そうとしてきた親など、いらない。価値がなくなれば、壊れた玩具を捨てるように、いとも簡単にまた見捨てられるのは分かっていたから。
けれど、ティミスを始めとしたこの国の人々からもらったのは嘘偽りのない、『本物の愛情』。
宝石姫として帝国をまわりながら孤児院などに視察に行った時も、惜しむことなく自分という存在を受け入れてくれた。
宝石姫であるから、というのが大きな理由なのかもしれない。だが、ナーサディアの過去を知った皇族達は揃って怒った。ナーサディアのために怒ってくれたのだ。
そんなこと、されたことはない。今までナーサディアに寄り添ってくれていたのは、塔の使用人たちだけ。
これからは、そうじゃないんだ。改めてティミスの言葉にナーサディアは頷いてみせた。
「うん…。ティミス、私を…見つけてくれて、ありがとう。…人を好きになることを、あたたかい心を、いっぱい、いっぱい…与えてくれて…ありがとう…」
ぽろ、と一筋の涙がナーサディアの頬を伝う。
「泣いちゃ駄目だよ、僕のナーサディア。さ、笑って。今日は僕と君が、一日の主役だ」
抱き締めていた腕を緩め、一歩分だけ後ろに下がって膝まづき、恭しく手を差し出した。
「我が妃、我が宝、ナーサディア。さぁ、行こう」
「…はい…!」
差し出された手を取らない選択肢はない。ナーサディアは、遠慮することもなくティミスの手を取り、並んで歩き出した。
わぁわぁと、広場には歓声が広がっていく。
まだかな、もうすぐかな、という子どもたちの声。口々に祝辞を述べている大人たち。
早く、式の様子が投影されますようにと、魔術師団が用意してくれている投影装置が映す先の光景を皆が揃って見ていた。
「始まったぞ!」
わぁ!と更に大きな歓声が上がる。
映し出されているのは、皇宮で執り行われているティミスとナーサディアの結婚式の様子。
色々な貴族や諸外国の重鎮が招待され、一斉に注目を浴び続ける中で、二人は堂々とした様子で式に臨んでいる。
「すごいね!おひめさま、きれいだね!」
興奮した小さな女の子が、隣にいる母親に話しかけた。
「えぇ。姫様も、ティミス様も嬉しそうでいらっしゃるわ…」
「すごい、すごーい! きらきらしてる!」
ナーサディアの周りを、光の精霊たちもくるくると回る。
おめでとう、と口々に言いながら、とても楽しそうに。ついでに、ナーサディアに対する敵対心を見つけたら、軽く睨むことも忘れない精霊たち。愛し子への嫌な感情など排除する。この場には相応しくないと言わんばかりの牽制。
人々には精霊の姿は見えていないけれど、きらきらした光の粒のようなものが、ナーサディアの周りを飛んでいるのは見えている。
「ナーサディアさま、きれい!」
「すごーい!」
式は進み、ティミスがナーサディアのヴェールを上げる。
元々綺麗な顔立ちをしていたのだが、この日のためにカリナとチェルシーを筆頭としたメイドたちに、しっかり磨き上げられたナーサディアは、比喩表現無しで宝石のような美しさだった。
肌色をよく見せるためのうっすらピンクの頬紅、控えめな淡い色合いの口紅。長い睫毛は別に何もしなくとも上を向いているから、あれやこれやする必要はない。
髪はひと纏めにされているが、単にまとめてアップにされているのではなく、編み込みもされているし、あちらこちらにダイヤモンドをあしらったヘアピンがささっている。
今日という日だけは、露出を好まないナーサディアも鎖骨が見えるデザインのウエディングドレスを着ている。選んだのは勿論ティミスと共に。
ドレスにも、ヴェールにも、きらきらと光を反射するようにと小粒のダイヤモンドがあしらわれている。
二人を隔てるヴェールがなくなり、互いに微笑みあってからそっと唇が重なった。
その瞬間、ひと際大きな歓声が上がり、国中が二人の結婚を祝福したのである。
唇が離れ、くすぐったそうに見つめあってから笑う二人を、ばっちり投影機は映していた。
勿論のことながら民たちにも見えている。
「まぁ、お二人とも本当に嬉しそう…!」
「それはそうよ! ティミス殿下はひたすらにナーサディア様という存在を探していたのよ?」
「運命のお二人、っていうことね!」
見ているこちらが嬉しくなるばかりだ、と女性陣は夢物語のような二人の話と今日という日の光景にうっとりとしている。
ティミスとナーサディアの場合は立場や環境が特殊なものではあるが、愛する人としっかり結ばれるということがこんなにも輝いて見えるものなのか、としみじみ思っている人もいるらしい。
「ねぇ見て、バルコニーに出ていらっしゃったようよ!」
「何かしら!」
「殿下ー!姫様ー!」
向こうから見えないかもしれないが、民たちはぶんぶんとナーサディア達に手を振った。
それが見えているかのように、ナーサディアとティミスも大きく、ゆったりとした動きで手を振っている。
「皆様、こうして祝っていただきましたこと…本当に、……本当に嬉しく思います!」
「皆、ありがとう! 改めてわたしは誓おう! 我が妻、ナーサディアに対して心から愛を注ぐと、何があろうと離れたりはしないと!」
レイノルドが『思う存分色々宣言してやれ』と言ったので、ティミスは何も遠慮せず、ナーサディアの声と自分の声に魔力をのせて、出来うる限り広く遠く、声が届くようにしたのだ。
「皆様に、光が満ち、あふれますように…!」
ナーサディアが両腕をかかげると、精霊たちがここぞとばかりに空中でくるくると踊り始める。
精霊の姿が見えないものにも分かるように、精霊たちはわざと光の粒子をあちらこちらに散りばめた。
そして、ナーサディアとティミスの後ろにいたティティールとファリミエは、こっそりと目で合図をしてからにんまりと微笑んだ。
「これは私からの、プレゼント!」
「ナーサディア、ティミス、おめでとう!」
え?と背後を振り返ったナーサディアだったが、ティティールのそばに居る水の精霊が出した細かな水の粒が、ぶわりと舞い上がる。
何となく意図を察した光の精霊たちは、更に楽しそうにしながら水の粒の中を飛び回る。
「え、え?」
「…すごいな、虹だ」
一体何が、と見上げていると空に大きくかかった虹の橋。
更に大きな歓声が上がり、結婚式の招待客達からもどよめきや歓声が上がっている。
「……きれい……」