ばいばい
ベアトリーチェが目覚め、数日後。
起き上がることも、体を動かすことも、ようやく通常通り出来るようになった。
あまりここに居すぎてはいけない。アルシャークはベアトリーチェに『本来の目的であった、自分達の結婚の報告。これを早々に済ませ、ベアトリーチェが倒れたが看病でき、付き添いをし続ける場所を用意してくれたお礼を伝えなければ』と言った。
するとベアトリーチェも『勿論です』と真っ直ぐな目で頷いた。彼女からこんなにも真っ直ぐな眼差しを向けられるのは何年ぶりなのだろう、そう思いながらも表には出さずにアルシャークは謁見の時間を貰いたい旨を伝えてもらった。
そうすると、すぐに使いの者がやって来て『明朝、お時間を頂けました』と皇帝からの返答を持ってきてくれた。良かった、と安堵しながらもアルシャークは一つだけ懸念があった。それが、ナーサディアとのことだ。
もしかして、自分達が帰る日に彼女とベアトリーチェに会ってしまったら、折角消してもらった記憶が蘇ったりはしないだろうか…そういう不安が膨れ上がる。決して、失敗などしてはならない。ナーサディアとベアトリーチェ、双方の心に傷をつけてはいけない。
だが、それは彼の杞憂に終わることとなる。
翌日、言われた時間に身支度をきちんと済ませ、アルシャークとベアトリーチェは揃って謁見の間へとやって来た。
ずらりと並ぶ帝国の皇族達、そして、ファリミエを始めとした宝石姫も各々の番の隣に立ち、並んでいた。
「カレアム帝国皇帝陛下、並びに皇族の皆様方におかれましては此度の場を設けて下さいましたこと、深く御礼申し上げます。ウォーレン王国王太子、アルシャーク・フォン・ウォーレン。そして、こちらは王太子妃ベアトリーチェにございます」
並び、二人で帝国式の礼をする。今ここで失敗してはならない、その思いがアルシャークに重く伸し掛る。
「顔を上げられよ、アルシャーク殿下、ベアトリーチェ妃」
重い声で、皇帝は二人に顔を上げるように告げた。
声がかかり、そこで二人は揃って顔を上げる。改めて皇族が勢ぞろいしている光景は圧巻としか言いようがなかった。そして、彼らが守り、大切にしている宝石姫達もこの場にやってきていた、のだが。
「あ……」
思わず、アルシャークから小さな声が出た。
ナーサディアも、ファリミエも、ティティールも、顔を出してはいなかった。髪型も見えないよう、ヴェールで覆われている。頭頂部から、次第に透明に近い白から顔の部分にかけてグラデーションのように色が変わっているヴェール。
それを留めているのは彼女らの属性に応じた宝石がはめ込まれた、三人それぞれデザインが異なっているティアラ。
見送りをするならば、顔が見えないように。一人だけ見えないようにすると違和感があるだろうから、三人揃ってヴェールを付けることで違和感を無くしてしまえば良い。更には三人とも揃いのドレスにする。これで、僅かに見える髪色以外で印象に残るようなものは無い。
髪の色もほぼ見えないようなものだから、宝石姫に会ったという記憶は残ったとしてもどういった外見であったかは記憶にはほぼ残らないだろう。
記憶を消したといってもベアトリーチェはナーサディアのたった一人の姉妹。ここから先、二人が再び会うことはないからこそ最後の見送りはしたい、迷うことなくナーサディアは主張したのだ。
「如何されたかな、アルシャーク殿下」
皇帝イシュグリアから声を掛けられ、はっとしてアルシャークは頭を振る。
「いえ、何でもございません。帝国の宝である宝石姫様方にまでお会い出来たこと、王国への大変良き土産話になります」
平静を装い、微笑んでアルシャークは言う。
ちらりと横目でベアトリーチェを見ると、ほんの少し頬を赤らめ三人の姫達に見惚れていた。
「…ベアトリーチェ」
小声で呼ばれ、こちらも我に返ったのか慌てて笑みを浮かべ、帝国式の礼をするベアトリーチェ。
「皇帝陛下、ご挨拶が遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます。また…わたくしの不作法を寛大な御心でお許しいただけたこと…深く御礼申し上げます。皆様方のおかげで、体調も戻り、こうして謁見が許されましたこと、重ね重ねありがとうございます…」
「良い。我が国までやって来る旅路そのものが緊張の連続であったのだろう。…あぁ、加えて我が帝国に張り巡らせている防護壁をくぐった時に魔力酔いをしてしまったやもしれんな」
「いいえ、わたくしが未熟であり自己管理が出来ていなかったことによる醜態。…何とお詫び申し上げれば良いのか…」
「気にするでない、若き妃よ。そなたらの道に、幸あらんことを」
「ありがとう存じます。カレアム帝国に光が満ち、大地が潤い、そして枯れることなき美しき水に満ち溢れる素晴らしき世が続きますように」
光、土、そして水属性。
それぞれの姫がもたらすであろう祝福を喜び、称える。そうして、ティティールやファリミエ、ナーサディアが胸の辺りまで手を上げ、祈りを捧げることで彼女らの掌の上にぽとり、とトパーズ、アクアマリン、ダイヤモンドがそれぞれ落ちた。
各々の番にそれを手渡すと、姫らは揃って皇族の後ろへと下がり姿を隠すようにしている。何だろう、とベアトリーチェが不思議そうにしていると、ファルルスがその宝石達を持ってベアトリーチェの元に歩んできた。
「ベアトリーチェ妃、こちらを」
「これ、は」
「姫らが、貴女に…と」
「え…」
「御守りとして、そして貴女へのお土産としてお持ちください。貴女に幸せが訪れますように。加工してアクセサリーとして手元に置いておくと、いつでも身に付けられるわ」
「ありがとう、…ござい、ます」
無機質な宝石なのに、受け取った時どこか温かさを感じた。熱を発している訳では無い。
どうしてこんなことを思うんだろう、そう思った時にベアトリーチェの瞳からひと粒、涙が零れた。
「あれ」
「ベアトリーチェ?」
「…す、すみません…!あ、あの、あまりに、嬉しくて…!」
慌ててお礼を言ってがばりと頭を下げるベアトリーチェを、ファルルスはどこか慈しむような眼差しで見ていた。それはアルシャークも同じ。
きっと、本当の君はこうなんだろうね…と心の中だけでアルシャークは呟き、寄り添うようにベアトリーチェの隣に立ち、彼女を支えるように肩に手を回した。
「姫様方の祝福、謹んでいただきます。我らの国にも、どうかカレアム帝国のような発展があることを」
「ありがとう…ございます…!」
掌に乗っている宝石をぎゅっと抱き締めるように両手で包み込んで、ベアトリーチェは何度も何度もお礼を繰り返し口にする。
礼を失したにも関わらず優しくしてくれるだなんて、と大泣しそうになるのを必死に堪える。そして、改めて帝国式の礼をし、アルシャークと並び謁見の間を後にする。
「…ばいばい」
「…………………え?」
不意に、誰かに声を掛けられた。それが誰からだったのか、どこからだったのか確認しようと振り向こうとしたのだが、何故かベアトリーチェは振り向けなかった。それどころか、早く行こうと急かされるようにそのまま歩みは止まらない。
おかしい、何でだろう。そう思う暇もなく、謁見の間からあっという間に出てきてしまった。
「…ベアトリーチェ?」
「ねぇ…アル様。わたくしに誰か声を掛けたかしら?」
「…いいや、誰も」
アルシャークにも聞こえていた。
だが、それが誰の声だったのかは決して教えない。声が掛けられたことも、聞こえなかったフリをする。それを、貫き通す。
「きっと、精霊たちが君を見送ってくれたんじゃないかな」
「そう、かしら…」
「そうだよ。この国には彼女たちがいる。そして、彼女たちを愛している精霊たちもいるからね」
「…そっか」
ほんの少しだけ砕けた口調で納得したように言ってから、ベアトリーチェは微笑んだ。
出てきた謁見の間への扉は閉められ、そちらの方を向いても扉を守る騎士と視線が合ってアルシャークとベアトリーチェに対して軽く会釈があるのみ。
「…さぁ、帰ろうかベアトリーチェ」
「ええ」
少しだけ名残惜しそうにしていたが、もうベアトリーチェは振り返ることはしなかった。
謁見の間から出て、ここまで案内してくれていた騎士がずっと待機をしてくれていたようで、こちらへと歩いてくる。
「お済みになられましたか?」
「はい、ありがとうございました」
「では、こちらへ。お二人に付き添ってきていたウォーレン王国の方々は帰り支度を済ませてくれておりますので、馬車までご案内いたします」
「はい」
もう、これでナーサディアとベアトリーチェの道は交わらない。
自国に戻れば、ベアトリーチェと自分はナーサディアを連れて帰ってこれなかったことを貴族たちに糾弾されるだろう。
だが、連れて帰ってきてほしいと願っていたのは、かつてナーサディアを傷つけた貴族ばかり。そしてベアトリーチェ自身。
以前のベアトリーチェは、もうナーサディアによって消されてしまった。失敗したとして責められてもベアトリーチェは何のことだか分からないだろうし理解もできない。そんな状況から彼女を守るのは、夫であり将来の国王となるアルシャークだ。
「ここは…本当に綺麗ね。お世話になっていた宮も、すごく美しかった…」
「あそこは、光の加護を持つ宝石姫様の宮でございます。倒れられた後、宝石姫様が自分の宮で休んでほしいと、そう仰ってくださったんですよ」
「そうだったんですね…」
騎士も、徹底されておりナーサディアの名前を出すようなことはしない。何が切っ掛けで記憶のフラッシュバックがあるか分からないからだ。それをきっちりと周知徹底されている。
皇宮内を進み、外に出ると帰国するための馬車が待機していた。こちらに気付いたウォーレン王国の従者達はほっとしたような顔つきになる。
「王太子殿下、妃殿下!」
「すまない、待たせてしまった」
「あれ…?お二人のみですか?」
「そうよ、わたくし達の他に誰がいるというの?」
彼らも、この国への入国の際に何があったかは知っているはずだ。だが、ベアトリーチェがナーサディアを連れて帰ってくると何故か確信していたようで問いかけてくる。どうして、という失望に似た色が従者の顔に滲んでいるのを見て取れたアルシャークは、ため息を吐いた。
「あまりに失礼極まりない発言だな、そなたらの物言いは」
「殿下!ですが…」
「ベアトリーチェ、先に馬車の中に」
「え?…あ、ええと…はい」
ベアトリーチェが馬車に乗り込んだのを確認し、こちらの声が聞こえないようにと消音魔法で馬車全体を覆いつくしたアルシャーク。そして、困惑している従者に向き直った。
「いいか、もう宝石姫…もとい、ナーサディア様の話は我が国ではできない」
「何故ですか!王太子妃様ご自身が連れ戻すと豪語していらっしゃったではありませんか!」
「…もう、ベアトリーチェの中にナーサディア様の記憶はない。一切の関係が絶たれた」
「どうして…」
「我が国、そして唯一の姉妹であったベアトリーチェとも、今後一切合切の付き合いをするつもりはない。それが、彼の方のお答えだ」
「え…」
呆然とする従者達。
まさかそこまで、と甘い考えを持っていたのだろう。ナーサディアならば、許してくれると、そう思っていたに違いない。ベアトリーチェもそうだったから。
淡く抱いていた希望は、潰えた。これからは現実をしっかりと見て歩いていかなければいけない。
「…恐らく、我が国は荒れる。だが、我らがしてきたことが、そのまま返ってくるだけの話。わたしはそれを受け入れ、対応せねばならない。だが、ベアトリーチェにはそれをさせない。『理由』を付けて少しの間静養させる。この国で、ナーサディア様に拒否されたことで心が壊れた、とでもしておこう。ベアトリーチェも罰を受けた。わたしは彼女のために少しでもできることをする、それだけだ」
これからの未来を、しっかりと受け止め、ナーサディアに関することはベアトリーチェから一切取り除いていく。
そうして、人々の記憶から『ナーサディア』という少女の影が薄くなってきたころには、人々の興味は別に移ることだろう。そういう、単純なものだ。
やってきたことの報いは受ける。そう決めたアルシャークの眼差しはどこまでもまっすぐで、強かった。