おはようと、さようなら。そして…②
「むすめ…」
「ええ、そうでしょう?」
呼んでいいのだろうか。
かつて、愛されたいと願っていた本当の母や父、そして『家族』という枠組みからはいとも簡単にはじき出されてしまった。だが、カレアム帝国へとこうして招かれ、少しずつ色々なことができるようになってきた。ナーサディア自身が、人を愛する、好きになるということも、ようやくできるようになった。
そして、心の中にしまい込んだ、一番の願い。
母と、父に、愛されたい。『大好きだよ』と、言ってもらいたい。
ナーサディアの大切なティミスは皇族だからこそ、こういうことは言わない方が良いのでは、と思っていた。自分に姉や妹が出来たことだけでも満足出来たが心の奥底では、親からの愛を渇望していた。
祖父であるレイノルドからも勿論たっぷりの愛を注いでもらっているのだが、身内とはいえ父母とは何かが違う。我儘を言ってはいけないからと心の奥底にしまい込んで、鍵をかけて絶対に開かないようにと決めていたのだが、ナーサディアを見つめるファルルスの目は、温かなもので満ち溢れている。
「あ、の」
「本当は、もっと早くこう言いたかったの。でも、きっと決別してからの方が良いんじゃないかしら…って、そう思ったから、今言わせていただいたわ。ナーサディア」
「皇妃、様」
「そうね、今は皇族会議の場。貴女の言葉は正しいわ、ナーサディア。ならば、早く済ませてしまいましょうか」
『お母様、と呼べるように』と付け加えて、ファルルスは『皇妃』としての顔に戻る。
何事もなかったかのように会議は進行し、議題が全て終了してからナーサディアとティミスはファルルスに呼ばれた。静かにゆっくり話がしたい、そう言われて三人は各々の護衛騎士を連れ立って皇宮の中庭にある四阿へと向かう。
侍女に申し付けてティーセットを用意してもらう間、ふとファルルスが口を開いた。
「ごめんなさいね、ナーサディア。驚いたでしょう?」
「あ、あの、はい…」
「母上、あの場でいきなりは良くなかったんじゃないですか?」
「でも、頑張った子を褒めてあげたくなるのが母というものなのよ」
『母』という単語にナーサディアが思わず体を硬直させた。
思い出されるのはハミル侯爵家での地獄のような日々。だが、ここにはあの悪魔のような母も、父も、居ない。
ファルルスが言ってくれたことを思い出して、ナーサディアは遠慮がちに手を挙げる。
「どうしたの?」
「私…あ、じゃなくて、わたくし…」
「いいのよ。ここは、公の場ではないのだから気楽になさい」
「…っ、私は…皇妃様の…娘として、汚点になり得ませんか…?」
「どうして?」
「……」
「汚点なんて…どうしてそんな思いになってしまったの?」
言い終わってからファルルスは立ち上がり、ナーサディアの頬を両の手のひらで優しく包み込んだ。
「貴女は、どこに出しても立派に役目を果たしている。ティミスの婚約者としても、宝石姫としても、一人の令嬢としても」
あやすような優しい声音が、ふんわりとナーサディアの心に染み渡っていく。
「それは貴女の努力の結果として、こうしてきちんと現れている。辛い思いをした分、たくさん幸せにならなければいけないの。それは、わたくし達がそうしてあげたいからよ」
ぽた、とナーサディアの目から泪が零れる。
「貴女は近いうち、わたくしの息子のティミスの妻となります。そんな貴女をどうして娘と呼んではいけないの?」
「……っ」
「ナーサディア、貴女はきっと『もうたくさん愛された』と思っているかもしれない。でもね、まだまだ足りないのよ」
「…ぁ」
「わたくし達、皆、貴女を想っている。貴女が大好きだから」
涙が零れるのを止められない。
ぼろぼろと溢れ、ドレスにもファルルスの手にもどんどん伝っていってしまう。
ただしゃくり上げることしか出来ていないナーサディアの背に、温かな手が触れた。
振り返るとティミスが優しく微笑みかけてくれている。
「ティミス…っ」
「うん。大丈夫、君の思うように」
「…………」
呼んでもいいのだろうか。
呼びたい。
だから、ナーサディアは決意してファルルスへと向き直った。
「おかあ、さま…」
「なぁに、わたくしのナーサディア」
言い終わると同時に広げられたファルルスの両腕に飛び込んだ。抱き着いて、わんわんと泣いてしまった。
大丈夫よ、いいこね、と優しい声がずっと聞こえる。
バートランドも、カリナもチェルシーも、ドミニクも、皆優しかった。
人に触れられることが怖くて、怯えてばかりいたナーサディアの傍に寄り添い続けてくれた皆だったけれど、それでもやはり罵倒されることが怖くて、泣けもしなかったことさえある、あの過去の日々。
地獄でしかなかったけれど、ティミスが助け出してくれたから今はこうして笑っていられる。
まさか、望んだものが本当に手に入るだなんて思ってもみなかった。
「おかあ、さま…、おかあさま…っ!」
「大丈夫よ。わたくしはちゃんとここにいますからね」
大丈夫、大丈夫と、そう言いながら優しくナーサディアの背を撫で続けるファルルス。
十八歳にもなって情けない。と言われてしまうかもしれないが、こうやって『親』から抱き締められたことなんて数える程しかない。いや、そんな記憶があるのかさえもう既に分からない。あの人達がナーサディアに与えたのは主に絶望だったのだから。
少しの間泣き続けたナーサディアは、涙が止まり落ち着いたのかおずおずとファルルスから体を離した。
「申し訳…ございません…」
「気にすることないのよ、ナーサディア」
「はい、ファルルス様……っ、あ、えと…」
「なぁに?」
「……おかあ、さま」
慣れない呼び方に、思うように口が動いてくれず、いつものような呼び方になるがファルルスは決して叱らなかった。ナーサディアがこの呼び方に慣れてくれるまでは、いつまでも根気よく待とうと、彼女はそう決めていたのだから。
「今の今で、そんなにすぐに完璧にならなくていいの。それにこれは、ある意味わたくしの我儘でもあるのだから」
「そ、そんなことないです!」
ナーサディアにしては珍しく食い気味にファルルスの言葉を否定した。
「あら、そう?」
「…嬉しくて─本当に」
血は繋がっていなくとも、家族になれる。
確かそう言ってくれたのは誰より幼いティティールだった。それが本当に叶ってしまうだなんて思っていなくて、実際まだ夢見心地の中にいるけれど、紛れもない現実。
「…お母様」
ふにゃ、と嬉しそうに、くすぐったそうに微笑んでからナーサディアが小さく呟く。少しずつ呼び方に馴染んできたのか、数回、ようやく聞き取れるかどうか、くらいの小さな声で『お母様、お母様』と呼んでみている。
本来の母親を『母』と呼ぶことをやめたとき、もう自分には包み込んでくれるような暖かな存在は得られないと思っていた。だから、尚更嬉しくて、何度も何度も繰り返す。
一方で、ナーサディアが思っていたよりも母という存在をすんなりと受け入れてくれたことが嬉しいやら、くすぐったいやら、恥ずかしいやら。ファルルスは顔を赤くして、しみじみと呟く。
「ナーサディア、これからは遠慮しなくて良いんですからね」
「……はい」
もう一度頷いたナーサディアと、ナーサディアの頬を優しく撫でるファルルス。
ナーサディアは、後でティティールにお礼を言わなければ、と思う。彼女が一番最初にナーサディアの心の壁をぶち破り、手を引いてくれたから馴染めた。『血が繋がっていなくても家族になれる』という大切なことを教えてくれたのは他でもないティティールなのだ。
カレアム帝国の人たちには感謝しかできない。だからこそ、精一杯頑張っていこうと思えて、前向きに歩いて来れた。
ベアトリーチェとはこれで『さようなら』になってしまうけれど、ナーサディアはずっとずっと先の未来を、この国で生きていく。ティミスを始めとした、優しい人たちに寄り添ってもらい、真っ直ぐ前を向いて歩いていくんだ。
今日はきっと気持ちを新たにする、ある意味でその一歩目だな。そう思って穏やかな昼下がりを過ごした。お茶会をしていると聞きつけたティティールや他の皇族達も交ざり、夕刻まで明るい笑い声が響いていたという。
本当にもう、大丈夫。
ティミスは笑うナーサディアの横顔を、心から愛しそうに見つめる。ナーサディアも視線に応えるようにティミスへと微笑みかけた。
それは、最初にティミスが見たぎこちない笑みではなく、ナーサディアの心からの微笑みだった。
次は、お見送り。