おはようと、さようなら。そして…①
ベアトリーチェの目が覚めたことを報告されたティミスとナーサディアは、互いに顔を見合わせる。
良かった、という思いと『これで終わり』という思いが交差する。
一先ず、目が覚めたことは安心しないといけないな、とナーサディアは思う。記憶消去の魔法はうまくいったようだ。報告を聞く限り、人格に影響があったようには感じられない。
「…ひとまず、よかった」
ほ、と安心して微笑むナーサディアの頬を、優しくティミスは撫でる。
突き放し、縁を完全に切ると決めてはいたものの、ベアトリーチェの今後までナーサディアは考えていたらしく、『ああ、やはり優しい子だな』とティミスはぼんやり考えた。
正直なところ、あれだけナーサディアを苛め抜いてきた人のことなど、ティミスは放っておいても良かったし、何かしてこようものならサルフィリのように命を奪うことまでも考えていたが、そうせずに済んだのはナーサディアが必死に頑張ったから。
「…あの、ティミス」
「ん?」
「くすぐったい」
目を細めてティミスに撫でられるがままになっていたナーサディアは、ほんの少しだけ声を出して笑っている。
このカレアム帝国にやってきたばかりの頃には決して見ることの出来なかった、気を抜ききっている姿。それも、ティミスに対しては特に気を許している。
婚約者となったから、というのもあるかもしれないが、彼がナーサディアを助けてくれた人であること。そして、何があろうとも寄り添い続けたこと。婚約が決まってからも、宝石姫であるナーサディアに対して嫌がらせのようなことをしてくる、何とも命知らずな令嬢もいたのだが、それら全てからも守り切ったこと。様々なことが理由として挙げられるのだが、ナーサディアが初めて自分の意思で選んだ人だから、ということが最も大きいだろう。
「ごめん、ナーサディアの頬、気持ちよくてつい」
「良いよ、ティミスなら。でもね」
「んー?」
「…ごほん」
わざとらしい咳ばらいをした主は、ナーサディアの祖父レイノルド。『あ』と思ったが時すでに遅し。
「殿下、公の場ですぞ」
「…はーい」
二十二歳となったティミスは四年前にナーサディアを助けてくれた時と変わらずだが、こうして注意されて茶化すような雰囲気で肩をすくめるところは変わっていない。
だが、ティミスは皇族として公私はきちんと区別して行動してできているのだが、今回はどうしてだろう?とナーサディアは首を傾げる。
十八歳になった自分があまりに頼りなく、もしや何かしらうっかりをやらかしてしまったのでは…!と、昔の癖で悪い方向に考えたナーサディアだったが、思い当たる節はない。ちょっとだけ、記憶消去の魔術で無茶はしたけれど。
皇帝夫妻に報告をしてくれたのはティミス、そしてアルシャークからも併せて報告が上がっていると、ナーサディアは聞いている。双方の報告に差異が無いかどうかの確認も既に完了しており、ナーサディアはすることがなかったが、あの眠りから起きた直後は皇族直属の医師の診察を受けることになってしまった。
というのも、カレアム帝国でこの術を使った人が今までほとんどおらず、また、成功させた人も片手の指で足りるほどしかいなかったそうなのだ。
ナーサディアが成功した、という報告を受け、医師が慌ててすっ飛んできたらしい。そして、ナーサディアが今持っている魔力値の測定や、術の使用後の体の不調、普段はどのようにして魔法を使っているのか、等など。
細かいところまで聴取が行われ、終了後は『貴重な報告をありがとうございます』と、深々と腰を折り礼を言われた。今後の参考例として文書に残すらしい。
「では、続けます」
ぴりり、とした空気が戻ってくる。
今この場は、ベアトリーチェについての事のあらましを報告するための皇族会議。
ちょうどナーサディアとティミスから詳細の報告が終わった頃、ベアトリーチェの目覚めの報告があった、というわけなのだ。
加えて、レイノルドが対応したサルフィリの件についても、報告が成された。
サルフィリについては、大体が予想通りであった。淡々と、あの場で何があったのか記された報告書をレイノルドが読み上げ、最後に『アレについては処分しました』という言葉で締め括られた。
『処分』という単語にナーサディアは思わず体を硬くしたが、あのまま放置していて良いことなど、ありはしない。最後まで見せた、狂気じみたレイノルドへの執着。そして、自分は間違っていないという根拠に欠ける無駄な自信の大きさ。
生きていれば、何があるか分かったものではない。仕方ないとは思っていても何となく心の中でもやが残ってしまった。
「…サルフィリに関しては処理完了。ベアトリーチェについても目が覚めたとのことであれば、近いうちに帰国を命じられた方がよろしいかと思われます」
淡々と、レイノルドが報告・提案する。
帰国についてはナーサディアも同意だが、見送りはどうしたら良いのだろう、と思う。
アルシャークに最後の別れの挨拶はしたいと思うけれど、万が一を考えてベアトリーチェとは顔を合わせず、且つ、声も聞かせない方が良いのではと考えていると、それを読み取ったかのようにティミスが口を開いた。
「ベアトリーチェの見送りはどうしますか? 一国の王太子と王太子妃の帰国ともなれば、皇帝陛下までとはいかずとも最低限の見送りなど必要かと思いますが」
「ふむ…」
ティミスの提案に、イシュグリアはちらりとナーサディアに視線をやった。
「ナーサディア、そなたはどう思う」
「わたくしも…ティミス殿下と同じ意見です。ですが、もしも…」
「もしも?」
「わたくしが見送りの場に行くのであれば、万が一の事を考えて顔を見せず、声も発しない方が良いのかと、思い、ます」
ベアトリーチェを最後に見送りたい。
だが、姿を認識させてはいけない。行くならば、細心の注意を払わねばならないだろう。
「ナーサディア…」
「大丈夫。きちんとお見送りをして、最後のけじめをつけないといけないから」
微笑んで言うと、皇帝夫妻、そして皇太子ウィリアムと皇太子妃ディアーナ、第二皇子アトルシャンと地の宝石姫ファリミエ、彼らはそれぞれ頷き合う。ナーサディアの覚悟や思いをしっかりと受け止めてくれたようだ。
この場にティティールがいないのは、ウィリアムの配慮である。これから色々な思いをすることになるとはいえ、サルフィリの件の最期は聞かせられない。情操教育によろしくない、というウィリアムとディアーナの意見が合致したためだ。
だが、いずれは知ることになる。その時はきちんとウィリアムとディアーナが説明をするのだろう、と予想された。
「ナーサディア」
不意に、ファルルスがナーサディアを呼んだ。
「はい、何でしょうか」
「本当に、強くなったわね。…わたくしの、自慢の娘」
「……え」
ぱちくり、と目を丸くするナーサディアと、微笑んでいるファルルス。
「あ、の」
「貴女はティミスの婚約者で、近いうちに挙式の予定もあるでしょう?」
「…、はい」
「なら、わたくしの娘じゃないの」
ふふ、と笑いかけてくるファルルスの目はどこまでも優しく、愛に溢れていた。
きっと、これまでのナーサディアならば、この優しさや好意も素直に受け入れることなどできなかった。『自分なんかが』と卑下してしまっていただろうから。
そんなナーサディアの心を読んだように、ファルルスは言葉を続けた。
「胸を張りなさい。貴女は、どこに出しても恥ずかしくない、…わたくしの大切な娘よ」