残酷だったのかもしれないけれど
ううん、と小さな声が聞こえ、アルシャークは読んでいた本からはっとした様子で顔を上げる。
ナーサディアがベアトリーチェの記憶消去、ならびに記憶整理までしてしまってかれこれ一週間。連れてきていた侍女にも手伝ってもらいながら、時折ベアトリーチェに寝返りをしてやったり、固形物は食べられないために栄養のある流動食を作ってもらいどうにか食べさせたりと、甲斐甲斐しく看護をしていた。
同行していた侍女は『人手を貸してくれても良いのに』とボヤくことはあったが、『ベアトリーチェがこの国にいる方々に無礼を働いたためにこうなっている』という言葉ですぐに黙った。
気にかけてくれていたのはナーサディアで、ナーサディアの指示があったからこそ、針の筵とはいえこうして困らないように生活できているのだ。
アルシャークにも衣食住は保証されているし、一緒にやって来た自分の部下たちにも、だ。それにまで文句を言うのであれば今すぐ帰国しろ、とアルシャークにしてはかなり強めの口調で叱ると、更に何も言えずに大人しくなった。
これまで自分がいかに怠慢だったのか、周りに対して関心がないままに過ごしてきてしまったのかがよく分かってしまう。
「…目を覚ましたと思ったけれど…違ったかな」
先ほどの声は、ほんの少しだけベアトリーチェが身じろぎをしただけだったらしい。だが、もぞもぞと寝返りを自分自身で行えるようになったのはかなり回復したと思っていいだろう。
「…ベアトリーチェ、君はこれから、とても酷な世界で生きることになる。だがそれは…我らへの罰、だ」
『ナーサディア嬢をこれまで雑に扱い、心へ取り返しのつかない傷をつけてしまったことに対しての』と、長く付け加えた。
これまでを悔いる暇があるのならば、これからの未来をどうしていくのかを考える必要がある。何せベアトリーチェは、ナーサディアの記憶を丸ごと消し去られている。
ナーサディアをウォーレン王国に引き戻しに行ったはずが、記憶を消されて帰国することになるとは、アルシャーク自身も思っていなかった。だが、ナーサディアはもう祖国と関わりたくなかったようで、そもそも最初からかなりの拒絶を示していた。ショックを受けるベアトリーチェだったが、これまで行ってきたことへの代償でしかないのだから、仕方ない。
前向きになっているナーサディアを見ると、あの国を出ることが出来て本当に良かった、と心の底から安堵する。
ウォーレン王国から出ていったあの日、ナーサディアの顔は強ばり、怒りに満ちていた。原因を作ったのは己の国の貴族たち、それから自分たちも。
逆恨みにも似た感情は何度も持ったし、隙あらば膨れ上がったのだが、国王にこう言われ、全員の怒りは霧散した。
『ならば、同じ扱いを同じ期間だけ、そなたらも受けるが良い』
静かに紡がれたそれを聞いて、言われた側は顔色を真っ青にした。
嫌だ、そんな思いしてたまるか!と反論したら更に国王は続けたのだ。
『ナーサディア嬢は、閉じ込められ虐待をされ続けながら、我らからは嘲笑われていたぞ?』
今度こそ、何も言えなくなる。
どこまでも都合のいい感情しか持てず、一人の少女を蔑ろにし続け、馬鹿にして、利用しようとしたのは他でもない自分達だ。まるで幼子に言い聞かせるようにして、それを説く国王は、あの数日で一気に老け込んでしまったようにも見えた。
「本当に…馬鹿だったんだな…。今更、だけど」
そうまでしたのに、ナーサディアはある意味こうして情けをかけてくれている。完全に割り切り、関係性を断ち切ると決めているからこそ、こうしてくれるのかもしれないと、自然とそう思えてしまった。
手を伸ばして、ベッドで眠るベアトリーチェの柔らかな髪に触れる。
手入れがきちんとされ、艶やかさもある、綺麗なミルクティーブラウンの髪。ナーサディアとは似ても似つかない色。
選ばれた存在となったナーサディアの美しさと、ベアトリーチェの美しさはそもそも種類が違っているように思える。
『可愛らしい妖精姫』と、『神秘の宝石姫』。これは自国の貴族が欲しがるわけだ、と思いながらもアルシャークはきちんと決意した。
自分が、これからは本格的に表に立ってベアトリーチェを守らねばならない。自国の民からも、他国の民からも。
記憶を無くして帰国した王太子妃にどれほどの価値があるのか、と問われてしまうかもしれないが、それでもアルシャークは彼女の手を離さないと決めたのだ。
「ねぇ、ベアトリーチェ。いっぱい、話をしよう。わたしは、君と、きちんと会話をしたことがあまり無いんだ。君自身を、教えてほしいんだ…わたしの妖精姫」
髪を撫でていた手は、するりと頬へ移動した。
くすぐったそうに、眠りながら無意識にアルシャークの大きな手のひらに頬を擦り寄せてくるベアトリーチェが可愛らしくて、自然と微笑みが浮かぶ。
今はただ、こうしていられるだけで幸せだが、やがて終わりを迎える。幸せに浸りたいが、そうも言っていられないのも事実。
ベアトリーチェの体調もだいぶ安定している。
もう少しすれば目覚めるだろう、そう、思っていると不意にベアトリーチェの目が、ぱっちりと開いたのだ。
「え?」
「アルシャーク、さま?」
「ベアト、リーチェ?」
ぱちぱち、と数度、瞬きをするベアトリーチェとアルシャークが少しの間見つめ合う。
今まで眠っていたのが嘘のように、不意にベアトリーチェは目を覚ました。あまりに突然で、ぽかんとした顔でアルシャークはベッドに横たわるベアトリーチェをじっと見つめる。
「えぇ、と…お、おはよう?」
「…あの…アルシャーク様、どうして…わたくし、このような所、に…?それにここは…」
ゆっくりと体を起こそうとして、一旦ベアトリーチェの動きが止まる。
いくら寝返りを打たせてもらっていたとはいえ、寝たきりの状態だったのだ。簡単には体を動かすことが出来なくなっている。
「ベアト、ちょっといいかい。体を支えるから」
「す、すみません…!」
何でもないことだが、改めてこうして触れられると少し照れてしまっているベアトリーチェを可愛いな、と思う一方で、これから何でもない様子で告げなければいけない彼女にとっての『真実であり嘘』のこと。
上半身を起こさせてやり、背もたれとしてベッドヘッドとの間にふかふかとした手触りの枕を挟む。
ひと息ついて、アルシャークは微笑んで言葉を続けた。
「わたしたちの婚姻の報告を、カレアム帝国にしに来たんだよ。…何年か前に我が国はこの国に対して、とてつもない非礼をしてしまったからね。国王の代替わりと改めての謝罪も兼ねてここまで来たんだけど…」
「あ…」
「たまたま、この国の至高の宝とも言える宝石姫様を見て、ベアトは緊張がピークにきちゃったみたいだ。で…その…」
「も、もしかして…わたくしは緊張のあまり倒れてしまったんですか?!」
「そう」
苦笑いを浮かべているアルシャークから、嘘は感じられなかった。
それどころかベアトリーチェの思考を一気に占めたのは、謝罪に来たのに何たる非礼をしてしまったのか、ということ。
真っ青になって慌てて動こうとするが、やんわりとアルシャークに止められた。
「落ち着いて。ここを用意してくれたのはその姫様なんだよ。疲れと緊張が良くない方向に作用してしまったんですね、って」
「わ、わたくし…何という失礼を…」
「大丈夫。ティミス皇子殿下もそのように仰ってくれたから」
「第三皇子殿下にまで…!」
大丈夫だよ、と繰り返すアルシャークと、顔色を悪くしてあわあわと慌てているベアトリーチェ。
以前よりもよっぽど、今の方が『普通』に見えてしまう。
そうか、と。アルシャークはどこか納得出来た。
今までの彼女は、ナーサディアに執着しすぎていたのだ。ナーサディアという少女がベアトリーチェの記憶から無くなってしまったこと。結果、今までのどこか尖りきっているような雰囲気は無くなっていた。
「ど、どうしましょう…アル様…。わたくし、きちんと皆様に謝罪をしなくては…!」
「ベアト、落ち着いて」
今の彼女に対して違和感がないわけではない。だが、今の彼女の方がアルシャークにとっては好感が持てた。
今も過去も、ベアトリーチェはベアトリーチェだ。どのように表現をしていいのか分からないけれど、ようやく本来のベアトリーチェに戻ったような、不思議な感覚。
あやすように、優しく頭を撫でてやると少し落ち着いたのか深呼吸を始めるベアトリーチェ。
先程よりもだいぶ落ち着いてきたようで、おずおずとアルシャークに視線をやった。
「あ、あの…皆様は…お怒りになって、いらっしゃいませんか…? 一国の王太子妃がこのような有様で…」
「大丈夫。むしろ、心配されていたよ? 大丈夫ですか、って」
嘘では無い。
ベアトリーチェが目を覚まさない間、ティミスを始めとして皇太子であるウィリアム、第二皇子であるアトルシャンも簡単なお見舞いには顔を出してくれている。
ティティールやファリミエは、『ベアトリーチェを見るとどんな想いになるか分からない。だから、拒否する』と明確に意思表示をした。
だが、それはありがたいことだ、とアルシャークは思う。宝石姫たるナーサディアに対してしたことを、勿論ながら他の宝石姫が知らない訳がない。
記憶のない状態とはいえ、ベアトリーチェは歓迎されるような存在ではないのだ。
「目が覚めたことは、お伝えしよう。少しの間寝たきりだったから、体を動かす事もしないといけないね」
「は、はい…」
何度も首を縦に振るベアトリーチェ。
どうやら、本当に記憶はきれいさっぱり消えているようだ。宝石姫、という単語にも特に反応はしていない。
王太子妃教育の中で教えられた『宝石姫が如何に特別な存在なのか』ということくらいしか覚えていないようだ。
「アルシャーク…、あの…」
「ん?」
「目が覚めたことのご報告と、…皆様への非についての謝罪も…したく、て」
「わかった。わたしから伝えるね」
「ありがとう…」
ほっとした様子で微笑む彼女に頷きかけ、アルシャークは滞在していた部屋の扉を開く。
護衛…といえば聞こえはいいが、扉の傍に控えているのはカレアム帝国の騎士だ。
室内に聞こえないように注意を払いながら、そっと囁きかける。
「ベアトリーチェが、目を覚ましました。記憶も、きちんと消去されておりますし、…ナーサディア嬢のことを何か聞いてきたりもありません」
「分かりました。ティミス殿下にお伝えしますので、そのままでお願いします」
「…はい。それと…」
「何でしょうか」
「ベアトリーチェが謝罪をしたい、と申しておりまして…」
「併せてお伝えします」
「お願いいたします」
双方軽く頭を下げ、アルシャークは扉を閉める。
ベアトリーチェに聞かれていないか、様子を伺ってみたものの不思議そうに首を傾げていただけだった。
「ティミス殿下にもお伝えくださるそうだ。そして、謝罪をしたい旨も伝えておいたよ」
「ありがとう…」
ベアトリーチェが問題なく動けるようになれば、この帝国を出る日も来るだろう。
出国すれば、国同士の関係はあれどベアトリーチェとナーサディア、二人の関係はここで断ち切れる。
ハミル侯爵家は、もう以前のような勢いなどなくなってしまっていた。
社交界から断絶され、現当主も仕事は辛うじて行えているものの針のむしろ状態なのは変わらない。
ベアトリーチェのことを伝え、次にカレアム帝国に…ナーサディアに関わろうとすれば命は無いことをきちんと、次期国王として伝えなければならない。さすがに見限られたのは理解しているだろうが、彼らのようなタイプは心の奥底で諦めていないことが有り得るからだ。
帰国すれば、様々な処理が待ち受けていることを覚悟しながら、アルシャークは寝たきり状態から起き上がるベアトリーチェの手伝いに勤しんだのである。