わたしの、たいせつだったもの①
ベアトリーチェがやってくる前、ナーサディアはレイノルドに必死に頼み込んでいた。頼みに頼んだ結果、あまりの根気強さに孫の勢いに押し負けたレイノルドは両手を挙げて『降参』と呟いていた。
「…しかしナーサディアよ、本当にやるんじゃな?」
「はい」
「…後悔はせんな?」
「おじいさま、大丈夫です。…本当に、大丈夫ですから」
繰り返される問いかけ。何度同じことを問われただろうか。
その度、ナーサディアは微笑んで『大丈夫』だと返す。ナーサディア自身は微笑んでいるつもりでも少しだけ顔が強ばっていた。そんな状態の彼女に対して、レイノルドはあの魔法だけは教えたくなかった。しかし、ナーサディアも決して譲らなかったのだ。
ナーサディアがレイノルドに教えてほしいと願った魔法、『記憶消去』。
もしもベアトリーチェがナーサディアを助けられていれば、母の言葉や父の言葉だけを信じずにナーサディアの言葉に耳を傾けようとしてくれていたのならば、何かが変わっていたのかもしれない。どれほど願ったとしても過去は変えられないから、結果として今も変わることはない。故に、どう足掻いたところで二度とベアトリーチェとナーサディアの未来が交わることはあり得ない。
これ以上の執着を受けないために、自分の身を自分で守るためにナーサディアが選んだのは、ベアトリーチェの記憶からナーサディアそのものを消してしまうこと。
「レイノルド様、ナーサディアへの負担はどれほどですか」
「術をかける際にどれだけ集中できるかにもよりますが、ナーサディアは昔から魔力運用が上手でしたので問題ないでしょう」
心配そうなレイノルドの視線を受けて、『大丈夫です!』と改めて言うナーサディアの姿に観念したらしい。
「では、手順から教えよう。まずは…――」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ベアトリーチェの頭をぐっと掴み、意識を集中させる。
困惑しているアルシャークに視線をやってから、ナーサディアはゆっくりと口を開いた。
「アルシャーク殿下、お願いがあります」
「お願い…?」
「ベアトリーチェは、これから『ナーサディア』に関する記憶の全てを失います」
「え…」
「彼女をこれから支えるのは、貴方が中心とならなければなりません。それはご理解いただけますね?」
「……はい」
「ありがとうございます。…殿下、わたくしの大切だった子を、どうか、よろしくお願いいたしますね」
真っ直ぐなまなざしと、強い意志の宿った瞳。
かつてウォーレン王国を後にした当時を思い出すが、もうその面影はどこにも無い。今ここにいるのは宝石姫たるナーサディア。そして同時にカレアム帝国第三皇子の婚約者としての側面も持っている女性だ。弱かった彼女は、もう、いない。
「お強くなられましたね」
「そう見えるのであれば、ティミスのおかげです」
ほんの少しだけはにかんだように微笑んだナーサディアがあまりに綺麗で、そして美しくて、…かつての光り耀いていたベアトリーチェの姿と重なって見えて、アルシャークはほんの少しだけ見惚れた。
だが、直後にティミスから全力の殺気を向けられ、慌てて頭を振り雑念を払ってベアトリーチェの体を支え直し、ナーサディアが術を掛けやすいようにと配慮する。
「…では、始めます」
深呼吸をして、ナーサディアは意識を集中させる。気絶しているベアトリーチェと自分の意識を紐にして結び繋ぐようなイメージを強く持つ。自分の額からしゅるりと伸びた紐のような、リボンのような意識体がベアトリーチェへと吸い込まれていくような感覚。
「共鳴開始」
周りにはただ、ベアトリーチェとナーサディアが光に包まれているようにしか見えないその光景に、誰も口を挟めなかった。ティミスはナーサディアの術が成功するようにただ祈り、彼女の負担や邪魔にならないように背中にそっと手を添えているだけ。
だが、ナーサディアにはそれで良かった。それだけで、頑張れと言ってもらえているように感じ取れていたのだから。
意識が繋がり、ベアトリーチェの中、奥の深いところまでするりと潜り続けていると、不意に落下するような奇妙な感覚に襲われた。『わぁ』と声が出そうになるのを堪え、そのまま更に奥深くへと潜り込んでいく。
長時間にも思えたその感覚は、時間にして凡そ五分も無かった。
落ち切った先に、とても広い空間が広がっており、ぐるりと見渡すとベアトリーチェらしさが窺えてきた。そこは、まるで鳥かごのような屋敷。整えられた色とりどりの花が咲き乱れる庭園、小ぶりだが豪奢な造りであることが窺える複雑そうな建築様式、そして、その屋敷にぐるりと歪に巻き付いている、蔦。
≪…ここね≫
ナーサディアが近づくと蔦は待っていたかのように入口から解け、ドアが内側からゆっくりと開かれる。
そっと室内に入ると、人はいないのにどこからともなく聞こえてくる軽やかな笑い声の数々。
外観こそ人を閉じ込めるような造りをしているけれど、邸内に入ると外観に反して中は思っていたよりも広い。ぐるりと邸内を見渡し、ナーサディアが目的としているものがある部屋へと歩き始める。
『きっとそれは、奥まったところにある』と、祖父から聞いていたので、あまり戸惑うことはなかった。邸内を歩いていると慣れているような、懐かしいような不思議な感覚に襲われる。
薄っすら覚えのあるような邸内だと思ってはいたが、進むにつれてはっきりと理解した。
≪本邸の、私の…部屋への廊下…?≫
ナーサディアがハミル侯爵家で与えられていた、幼い頃の私室。そこへの道筋と同じなのだ。
ベアトリーチェが王太子妃候補となるという少し前からナーサディアは蒼の塔に閉じ込められていたが、それまでは本邸で過ごしていた。ナーサディアとベアトリーチェ、別々の部屋のように見えて室内は一枚のドアで繋がっていた。寝室もベッドも一つで、いつも一緒のベッドで眠っていたのを思い出して少しだけナーサディアの顔が歪む。
≪どうして…≫
外観から邸内の広さを予想していたのだが、それよりもだいぶ広かった、というか廊下が長いように感じたが、止まることなく進んでいく。一番奥まで来ただろうか、と思っていると、ナーサディアの目の前に現れた扉。その扉は紛れもなく幼い頃の自分の部屋の扉であった。
ドアノブを静かに回して室内に入ると、鏡の前で座って独り言を話し続ける少女が、いた。
≪…ベアトリーチェ≫
何やら楽しそうに話す少女に聞こえないように名前を呟き、驚かさないように部屋の扉を開けた状態で、気づいてもらえますようにという思いを込めてこんこん、とノックしてみた。
会話らしきものをやめてこちらを振り向いた少女は紛れもなくベアトリーチェ自身。外見から推測するに恐らく五歳くらいだろうか。とても懐かしい片割れのその姿に、怖がらせないように慎重に話しかけた。
≪こんにちは、とても可愛らしいお姫様≫
≪お姫様? それって、私?≫
きょとんとして自分を指さす幼いベアトリーチェは、ナーサディアのその『お姫様』という言葉に気を良くしたのか、にっこりと微笑んだ。
≪うふふ、嬉しい! でも、お姉さんもお姫様みたいな見た目ね!≫
無邪気に微笑んで言う幼いベアトリーチェを、何とも言い難い感情で見つめる。
ナーサディアの想いを知らないベアトリーチェは、微笑んだまま立ち上がって一直線にナーサディアの元へと走ってきた。そして、手を差し出して嬉しそうに言葉を続ける。
≪ね、こっちにいらして? 私の大切なお友達を紹介したいわ!≫
差し出した手を、ナーサディアが握ってくれると信じて疑わない純粋な瞳。
どうしてこのままでいられなかったんだろう、そう思いながら笑みを浮かべてそっと小さな手を握る。すると、繋いだ手をぐいぐいと引いてベアトリーチェは駆け出した。
手を引かれるまま歩いていくと、向かった先にあるのはベアトリーチェが眺めていた巨大な姿見。どうしたのだろう、と思ってナーサディアがベアトリーチェを見ると視線が合ってまた微笑まれた。
≪私の秘密のお友達を紹介するわ!≫
え、と思い姿見へと視線をやる。
もしや、幼い自分が閉じ込められているのでは、と思ったがさすがにそれは無く、安堵の息が零れた。
あるのは姿見のみ。そして、映っているのは幼いベアトリーチェに手を繋がれているナーサディア自身だった。