返せ
ぎりぎり、と握る手に力が込められていく。テーブルの下だからナーサディアや、ティミスには見えていないだろうが、隣にいるアルシャークには見えていた。
ベアトリーチェが言っていた『わたしの半分』の意味が、アルシャークにはよく分からなかった。双子の片割れ、という意味にしては所有物のような意味合いが強く感じられたからだ。
アルシャークはこのままではいけないと思い、雰囲気を変えられればと、ベアトリーチェの前に彼女が好きないちごのタルトが乗せられた皿を差し出した。
「ベアトリーチェ、どうぞ」
「……」
「嫌だった?」
「いいえ、そうでは、なくて…あの」
言葉につまり、ベアトリーチェがちらりとナーサディアを見ると何もないように切り分けられたチョコレートケーキを食べていた。隣ではティミスがコーヒーを飲んでいる。
あまりに普通にお茶を楽しんでいる二人を見て、ベアトリーチェの内側から殺意にも似た感情が膨れ上がるが、どうやっても伝わらない。ナーサディアが、ベアトリーチェの感情を汲み取ってくれないのだ。
今までは違ったのに、と思う一方で『ナーサディアも一人の人間なのだから』と諌めるような自身もいる。だが、前提条件としてベアトリーチェの心の中にあるのは、『ナーサディアがいつまで経っても自分の半身である』ということ。
「な、ナーサディア、は」
「何ですか?」
「あの、チョコレートケーキ、好きなの?」
「…好きに、なりました」
「え?」
それだけ言ってから、ナーサディアはもう一口チョコレートケーキを食べる。今用意されているのは、料理人のドミニクが作ってくれた、ナーサディア好みの味付けのケーキ。
幼い頃から受け続けた虐待や過度なストレスがかかり続ける環境でいたせいか、カレアム帝国に来た時からこれまで四年経過しているのに、食事の量はあまり増えなかった。
どうにかお茶の時間に甘いものを食べるようになってから、平均的な体重まで増やすことができたのだ。最初は食べても嘔吐したり、しばらく次の食事ができない程に胃が弱り切っていた。精霊姫の雫で多少はましになったとはいえ、病を持っているわけでは無かったことや、虐待を受けた時間があまりに長すぎることによる体への負担の蓄積までは、完全には治療はできなかったのだ。
とはいえ、状態は遥かにマシになった。
ドミニクは努力に努力を重ね続けた。どうやったら、ナーサディアが食事によって、より多く、様々な栄養を摂取できるようになるのか。ただひとえに、彼女に健康になってほしくて、普通の女の子のように笑って、駆け回ってほしかったから。
「ウォーレンでは、私に自由なんてなかった。選ぶことも、できなかった」
「……っ」
言われた台詞が突き刺さる。
蒼の塔に閉じ込め、影姫として生かされていたナーサディアは『楽しみ』というものが与えられなかった。あったのはベアトリーチェの訪問と、母親からの虐待、影姫としての教育を受けさせるための教育係の来訪。
唯一の優しさは使用人たちからもらえていたから、ナーサディアは辛うじて壊れなかった、というだけ。
外に出られる時間があまりに限られており、体力もかなり少なかった。ナーサディアは塔の階段の昇り降りを繰り返して体力を付けていたつもりだったが、さほど増えてはいなかった。
カレアムに来て、庭園を散歩するようになり、少しずつ健康的な生活から取り戻していった。
次に、感情を。
そうして次に、『人を好きになる』ことをようやく思い出した。
その相手が、常に寄り添ってくれているティミス。
更に幸運なことに、大切な身内も来てくれた。それは決してベアトリーチェではない。エディルでも、ランスターでもない。祖父であるレイノルド。
ナーサディアは静かな口調で、これまでのことを淡々と語る。それがあまりにもベアトリーチェは信じ難く、これ以上の真実を聞きたくなくて、耳を塞ごうとしたがアルシャークによって止められた。
「あ、ある、さま、…なん、…なんで…?」
「君にとって聞きたくない真実ばかりだが、事実だ。過去、ナーサディア嬢が、受けてきた虐待の数々」
「ち、ち、ちが」
「違わない」
「違う、わ」
「もう一度言う。違わないんだ、ベアトリーチェ」
ぐっ、とベアトリーチェの手首を掴んだアルシャークは痛々しげな眼差しを彼女へと向けたまま、言葉を続けた。
「君や、君の家族が、ナーサディア嬢をここまで追い込んだんだ」
紛れもない真実をずばり言われ、ベアトリーチェの表情がついにすとん、と抜け落ちる。
何を今更そんなにショックを受けることがあるのだろうと、ティミスは呆れ顔で見ていたが、ぞわりと嫌な予感が走る。いつでも魔法を発動できるように準備をした。
「だっ、て…ナーサディアは」
「いつまで自分だけいい子でいるつもり?」
鋭いナーサディアの言葉と視線。
そんなもの、受けたことなんてないのに。どうして貴女はそんな目で私を見るの、とベアトリーチェは心の中でだけ叫ぶ。
今までずっと、あの塔にいた間は怖いものから守ってあげられていたのに。貴女は、ずっとそこにいてくれれば、いつか一緒に暮らせたのにと都合のいい思いがまた頭を巡る。
「ねぇベアトリーチェ。貴女は私を何だと思っているの?」
「…っ」
「貴女のおもちゃでないことくらいは、理解している?」
「しているわ!」
アルシャークの手を振り払い、乱暴に席を立ってナーサディアの元へと向かうが、その前にティミスが立ち塞がる。
「席に戻られよ、王太子妃」
「どいて!」
「もう一度、言う。席に、戻られよ」
圧倒的な迫力と威圧を以てして、ティミスはベアトリーチェをナーサディアから遠ざける。そして、ナーサディアはティミスの背後でゆっくりと立ち上がると真っ直ぐベアトリーチェを見据えた。
「ベアトリーチェ、席に戻って。貴女と話せるのは、貴女が席に着いてからよ。それが、今の私と貴女の距離なの」
はっきりとした、拒絶を含む声音にベアトリーチェの中の何かが、弾けた。
「…………る、さい…」
「…ベアトリーチェ?」
「うるさい……うるさいうるさいうるさぁぁぁい!!!!」
妖精姫と呼ばれた儚さや美しさはどこへやら。
ベアトリーチェは血走った目でティミスを睨み、ナーサディアだけを真っ直ぐに見据えた。
「返しなさいよ…! わたしの、わたしの大好きなはんぶんを!! ナーサディアを返して!! 宝石姫だとか何だとか知らない! お前が持っていていいものではない!」
悲鳴のように叫ばれた内容に、ナーサディアは嫌悪感から顔を歪めた。
「誰が…っ…」
「ねぇ、返しなさいよ! ナーサディアが宝石姫で無ければ愛さなかったくせに、今こうやって寵愛もしていないくせに! 偉そうにしないでっ!!」
そう言いきって睨みながら、息継ぎも無しでひたすらに叫び続けたベアトリーチェは肩で息をしていた。
ぜぇはぁと、王太子妃に相応しくないほどの大声で怒鳴り散らかし、いつしか零れた涙を拭うことなくティミスを睨みつけていた。
「まぁ、うん。ナーサディアが宝石姫でないなら、愛していなかっただろうね」
あっさりと返された言葉に、ベアトリーチェはほれみたことか!と言わんばかりに口の端を上げて笑うが、続いた言葉にその笑みは強ばってしまった。
「そして、ナーサディアが宝石姫でないのであれば、この帝国の皇子でもないだろう。だって、僕は、『僕』であるからこそナーサディアを見つけたんだ。なら、ナーサディアが宝石姫でないのであれば、僕は今こうしている僕ではない。例えばどこかの国の貴族かもしれない。もしかしたら、人でもないかもしれない。けれど」
息継ぎをして、ナーサディアへとだけティミスは微笑みかけた。
「どこにいても僕はきっとナーサディアを見つけて、好きになって、愛すると思うよ。だって、君以外僕はどうやったって好きになんかなれない。宝石姫の魂の番? それでいいじゃないか。僕がナーサディアの隣に居て、ナーサディアも微笑んでくれているんだから」
「なに、を」
「それに、ナーサディアが宝石姫でないなら、お前と双子でもないだろうさ」
ティミスはナーサディアに向けていた視線をベアトリーチェへと移す。そして、馬鹿にしきった笑みで吐き捨てるように言ってから、更に言葉を続けた。
「お前が欲しいのは、ナーサディアじゃない」
「やめて」
「お前が欲しいのは、自分よりも蔑まれている『化け物姫』なんだ」
「やめ、て」
「優越感に浸るためだけに、僕のナーサディアを連れて帰ろうなんて馬鹿げたことを考えないでくれないか?」
いつしか取れていたティミスの外交用の笑み。
今はナーサディアを守るため、ただ一人の彼女の婚約者として、男としてベアトリーチェに相対している。
「受け入れられないなら、こちらもそれ相応の手段を取らなければいけなくてね」
「………っ」
アルシャークはティミスの迫力に呑まれて何も言えず、けれど、ベアトリーチェが再びナーサディアの方へ行かないようにとしっかり抱き締めている。
絶対にこの腕は離してはならないと、彼も理解しているのだ。
「だから…うん、そうだな。お前にとっては一番酷な罰かもしれない」
「う、るさい。…やめろ、かえ、せ…っ…!…ナーサディア…、ねぇ…ナーサ…!」
縋るように伸びてくる手にはもう、嫌悪感しか抱けなかった。
大好きでたまらなかった片割れは、母の考えに呑み込まれ、王国の貴族たちに利用される哀れなお人形さんのような王太子妃へと変わりつつある。
「だからせめて、それからだけは救ってあげるね。ベアト」
呟きはベアトリーチェの悲鳴に似た声に溶け、聞き取れたのはティミスだけだろう。
ナーサディアは立ち上がり、ゆっくりとベアトリーチェの元へと歩み寄る。
近寄ってくるナーサディアに表情を輝かせるが、アルシャークが改めてベアトリーチェを羽交い締めにしているから彼女は動けない。どうにかして逃れようと暴れるベアトリーチェをじっと、ただ、ナーサディアは見つめていた。
「ナーサディア!そんな手の甲の気持ち悪い石は取りましょう!そうよ、切り落とせばいいんだわ!あ、あはは、そうしたらわたしのナーサディアは返してもらえるわよねぇ!あは、あはははははははは!!!」
「いいえ、帰らない。私は…『わたくし』は、もう、貴女なんか、いらないの」
一言一言区切って言われた言葉は、やけにはっきりと聞こえた。
笑顔のまま呆然とするベアトリーチェ。
無表情で佇むナーサディア。
二人の様子は相反していて、それでいてどこか一枚の絵画のようだった。
「さようなら、大好きだったベアトリーチェお姉様」
どちらが双子の姉か、で笑いあった過去も、もう無くしてしまおう。
「そして、もう二度と、貴女との道は交わらない」
ひく、とベアトリーチェの顔が歪んだその時。
ナーサディアの手のひらがベアトリーチェの目元を覆う。
「わたくしはもう、ウォーレン王国へと足を踏み入れることもないわ」
「………………ぁ」
ナーサディア、と名前が呼ばれたような気がしたけれど、何も聞かなかったことにした。
とさ、とアルシャークの腕の中で崩れ落ちたベアトリーチェは目を閉じて気を失っている。
泣き腫らした目元は痛々しいが、ようやくこれで落ち着いてくれたと、ナーサディアは少しだけ安堵する。そして。
「改めてさようなら」
ぐっ、とベアトリーチェの頭を掴んで、ある魔法を発動したのだ。