あんな子、知らない
王宮までの残りの道を、馬車は緩やかに進む。
自分達が来たことは知られているはずなのに、民は外には出ていない。まるでゴーストタウンであるかのように静まり返っている。
これが、かの魔法大国カレアム帝国なのかとアルシャークは思うが、先ほど自分達と別ルートで連行されていったサルフィリを思い出す。そして同時に、ベアトリーチェと同じ顔で淡々と話していたナーサディアの様子も思い出した。
かつて、貴族たちが、彼女の家が、ナーサディアへと行ってきた虐待の数々。カレアム帝国民はきっとそれらすべてを知っているに違いない。いつもは民の出迎えがあるはずの、誰も居ない、固く閉ざされた窓だらけの街並み。商店も飲食店も、露店も何もかもが閉まり、静まり返っている。
いつもはこうなのだろうか、など考えてみても何も思い浮かばない。それほどまでにウォーレン王国というものは歓迎されていないのだと、到着してようやく理解した。
実際のところはサルフィリが何をするのか分からないので、民に『家から出ないように』という御触れが出ているからなのだが、真実を知るのは自国の民だけで良いと考えているティミスは、後ろをついてきているウォーレン王国の二人には話すことを選ばなかった。ティミスだけでなく、それはナーサディアも同じ。話したところで何にもならないし、どうすることもできない二人なのだから。
考えていることに違いがあろうとも、ナーサディアがベアトリーチェを受け入れることは無いのだから、説明してやる必要性すら感じなかった。
「王太子妃は、すごく傷ついた顔だったね」
「…えぇ。でも、こうなることくらい予想できたと思います」
「ふふ」
「ティミス?」
「ううん、僕のナーサディアは強くなったなぁ、って感心していたんだよ」
「?」
ナーサディアの向かいに座っていたティミスは、はて、と首を傾げる彼女の隣へと移動する。
並んで座ってからいつものように手を握ってから悪戯っぽく微笑みかけた。
「ウォーレン王国から離れた直後だったら、きっとこうはいかなかったろう?」
「あ…」
そうかもしれないと、ティミスの言葉にナーサディアは頷く。
手をそっと握り返せば、あっという間に指を絡めて繋ぐ所謂『恋人繋ぎ』をされる。ティミスの手の温度をしっかりと感じられるこの繋ぎ方が大好きなのだが、実は本人には伝えていない。伝えるとうっかり公式の場でもやらかしかねないからである、というのもティミス本人には内緒なのだ。
いつも、こうやって繋いでくれている手の温かさに励まされた。国が異なるとマナーや礼儀作法も勿論ながら異なる。ある程度の下地があるとはいえ、決して楽ではないものだったが、ティミスが傍に居てくれたから乗り越えられた。
今回、ベアトリーチェが来訪するにあたり、ナーサディアが一人で対応しようと思っていたのだがあまりにあっさりとティミスが『僕も一緒だからね』と、同行してくれた。隠れた不安に気付いてくれたこともそうだが、微笑んで『君一人で抱え込むの、禁止』と言われたために今こうやって付き添ってくれているのだ。
「ティミス」
「んー?」
「一緒に居てくれて、ありがとう」
「うん」
笑い合って言う二人の間、繋いだ手に力が込められた。
ティミスは『きっと大丈夫』と、ナーサディアに言い聞かせるように。ナーサディアは『ありがとう』とお礼を言うように。
一方で、後ろを走るウォーレン王国の馬車内で、ベアトリーチェはずっと俯いていた。
かつて別れを告げられた時、ナーサディアとベアトリーチェは十四歳だった。四年経過した今、当たり前だがお互いに十八歳になっている。
記憶をたどり、ベアトリーチェが最後に見たナーサディアの姿を思い浮かべた。『妖精姫』と呼ばれている自分が霞むような神秘性を持った出で立ち、目に宿る光は神性すら感じさせるものであった。あの衣装を用意したのはティミスだった、と後で聞いた。
何もかも、全てナーサディアのためを思い、ナーサディアのためだけに用意された衣装や装飾品。それを一瞬でも妬ましく思ってしまった自分がいたことも、ベアトリーチェは併せて思い出した。
いつの間にかナーサディアを下に見ていたのだ、とようやく思い至ったのだが、もう既にその時はナーサディアは国にいなかった。カレアム帝国へと発っていたのだ。
また、会えない間、ずっとベアトリーチェにとって都合の良すぎる夢を見ていた。
カレアム帝国に向かうと、ナーサディアは仕方なさそうに笑いながら出迎えてくれるのではないか。
久しぶりだね、と幼い頃のように微笑んで、優しい声で話しかけてくれるのではないか。
そして、こちらに駆け寄って来てくれて、ぎゅうと抱き締めてくれるのではないか。
どれもこれも、『ナーサディアがウォーレン王国を許している、恨んでいない』という前提条件のもとに見ていた自分にとってのみ都合のいい夢。
万が一の可能性に賭けたかったのだろうが、ナーサディアも一人の人間なのだ。心も体も、離れているうちに成長する。ベアトリーチェからしてみると、自分の想い通りになっていないことだけが見えてしまい、苛立ちよりも虚無感が襲い来る。
「…ど、して」
ぽつ、と呟いたベアトリーチェの独り言はアルシャークも聞いていたが、とても声をかけられるような状態ではなかった。だが、あえて声をかけることを選んだ。
「だから、言っただろう?」
「…ちがう」
「…っ、ベアトリーチェ!」
「あんなの、ナーサディアじゃないわ! ちがう! 違う違う違う!! わたくしのナーサディアは、あんなのじゃない!」
「ナーサディア嬢は君の物なんかじゃないだろう!」
「いや! わたくしのナーサディアよ!」
駄々っ子のように、だがヒステリックに叫ぶ姿は痛々しさすら感じられるものであったが、それでもナーサディアを物扱いしているのは到底許されることではない。ベアトリーチェの中ではいつまで経ってもあの『塔』の中で密やかに暮らし、ベアトリーチェが会いに行って一緒に時間を過ごすという認識がこびりついているのだ。
最早これは呪縛ですらあるな、とアルシャークは眉を寄せる。母であるエディルの言葉と思想は、幼い頃からの刷り込みにも等しいものですっかりベアトリーチェを塗りつぶしていた。
こんな状態のベアトリーチェの言うことにすっかり騙されてカレアム帝国までやってきてしまった自身を呪うが、ここまで来てしまったからには取り返しがつかない。
それならば、徹底的にナーサディア自身にベアトリーチェを拒否してもらうしかないとまで、アルシャーク自身が思っていた。
皮肉なことに、それはナーサディアと同じ思考であったのだ。
馬車は止まることなく進み、王宮へと入り、ナーサディアが普段過ごしている、ナーサディアの宮へと走っていく。
泣き叫んでいたベアトリーチェもようやく落ち着きを取り戻していたが、馬車が止まり慣れた様子で宮へと進むナーサディアを見て、すとん、と表情が抜け落ちたようになる。
真っ白な、『荘厳』という言葉がぴったりと当てはまる宮殿。本宮よりははるかに小さなものではあるが、ナーサディアやバートランド、カリナ、チェルシー、ドミニクが過ごすには十分すぎるほど大きいし、あの塔に比べてはるかに過ごしやすそうである。
宮の入口に立ってベアトリーチェとアルシャークを迎えるために立ち止まっているナーサディアは、凛とした雰囲気と相まって一枚の絵のように見える。
「…素敵な、宮ね」
「ええ。大切な姉姫様や妹姫が命じて進めてくれたの」
大切な、と聞いて辛うじて浮かべていたベアトリーチェの表情が凍る。
今のナーサディアが大切にしているのはカレアム帝国の人たち、そして宝石姫の先輩でもあるティティールやファリミエ、婚約者であるティミス、そして、祖父であるレイノルド。
その中にはもう、ベアトリーチェは含まれていないのだ。
言外にそう言われたような気がして、ベアトリーチェはぎゅっと手をきつく握る。まるでやめてほしいと言わんばかりに。
けれど、ナーサディアは言葉を続けた。
「家具やカーテンは、私がここに来てから私の好きな色や好みを聞いてくれたんだけど…分からなかったの」
「そ、う」
「だから、一つずつ、ゆっくり決めたわ」
懐かしむような声音に、ベアトリーチェだけが苦しそうに顔を歪めた。
嬉しそうに微笑んで、今までどうやってカレアム帝国で過ごしてきたのかを教えてくれるナーサディアの話を聞きたいという気持ちはある。だが、精神が拒否してしまう。
勿論、ナーサディアはそれを承知の上で話しているのだ。『我ながら性格が悪いだろうか』と思うが、許してやらないととっくに決めている。ここまで執着されて、引き離すためにはまずとことんまで拒絶をする必要があると判断していた。
ティミスはそのナーサディアの覚悟を汲み取ったからこそ、隣に立っている。ナーサディアに寄り添い続けている。
「ナーサディアは、…すごく大切にされている、のね」
「ええ」
「…っ」
「そうだ、ベアトリーチェは結婚されるのよね。王太子殿下と」
ナーサディアはアルシャークへと視線を移す。
不意に名前が出たアルシャークは思わずぎくりと体を強張らせるが、ナーサディアの表情は穏やかなので、ほっと息を吐いた。
「そ、うなんだ。…申し訳ない、ナーサディア嬢…と、その…ナーサディア姫、とお呼びした方が良いのかな」
「どちらでもよろしいですけれど…ティミス、どうしたら良いかな?」
「アルシャーク殿下であれば、ナーサディア嬢でもナーサディア姫でも、どちらでも」
ベアトリーチェを除いた三人は、とても穏やかな様子で話している。
式の日取りがどのようになっているのか、もうドレスは選んだのか、など当たり障りのない会話がベアトリーチェの前で繰り広げられているのだが、一人だけ輪の中に入れないでいた。
置いて行かれているような、虚無感がベアトリーチェを襲っていた。
ベアトリーチェの記憶にあるのは、いつも下を向いていたナーサディアで、今のように微笑んで穏やかに話している彼女ではない。
どうして、いつの間に変わってしまったのかと心の中で問いかけても答えなどは返ってくるはずもない。
あんな人、見たことないし知らないと、ベアトリーチェは思う。
そして同時に思った。『そろそろ返して、わたしの、はんぶんを』…と。
執着とはかくも恐ろしいものかな