初めて笑えたんだ
塔に追いやられてあれやこれやの内に、一年ほど経過していると思っていただければ…。
「どういうこと…?」
目の前で綺麗なカーテシーを披露するナーサディアを訝しげに見る。
少し前まで両親からの愛を渇望し、瞳のどこかで何かを訴えかけるようにしてこちらを見ていた幼い少女はもう、居なくなってしまっていた。
『侯爵夫人』と、あからさまな程の他人行儀な呼ばれ方にエディルは苛ついた。
あからさまな程除け者にして、この塔に彼女を追いやった一員であるにもかかわらず、だ。
「ナーサディア、どういうつもりですか。この母の事をそのように!」
「………」
「返事をしなさい!」
どうしようもなく苛つき、ばっと反射的に手を上げようとしてしまうが、ナーサディアは何一つ動じない。
それどころか、表面だけの笑顔も何もかも全て消し去り、ガラスのように感情の消え去りきった眼差しをエディルに対して向け続けていた。
「………っ」
どのくらいの間睨み続けていたのだろうか。
ふと、ナーサディアが口を開いた。
「わたくしのことを、『化物姫』とお呼びになるほど疎み、この塔に追いやったのであれば、わたくしもそのように接した方が良いと判断致しました。侯爵夫人様」
「……は?」
「だって…」
柔らかく微笑んで、こう告げた。
「侯爵夫人様と侯爵様は、お二人揃ってわたくしの事を『我が子ではない』と言わんばかりの表情と態度ですので」
図星をつかれるまま、勢いよく再度手を振りかぶり、エディルはナーサディアの頬をこれでもかと思い切り打ちつけた。
幼い体はあまりの衝撃に横に飛び、たまたま近くにあった机に体を打ち付けてしまい、置かれていた花瓶が床に落ち、割れた。
その音に執事が慌てて室内に飛び込み、現状を見て顔を顰める。
「奥様…何をなさっておいでか」
「………コイツが!ナーサディアが、…っ!」
幼子に図星をつかれ、衝動のまま殴りました、など。ハミル侯爵夫人としては言うわけにはいかず、歯ぎしりをしながら倒れたナーサディアを睨み付ける。
「ナーサディア様はただひたすら、頑張っておられるというのに。貴方様はそれを褒めるどころか、このようにして暴力を振るわれると、そういう事ですか。……長らくお仕えいたしておりますが、見損ないました」
「……っ」
「ナーサディア様、大丈夫ですか。ナーサディア様!」
執事の問いに反射的にこく、と小さく頷いて顔を上げたナーサディアの口端からは、血が流れていた。
どうやら、殴られた衝撃で口の中を切ってしまったらしい。
打たれた左頬は、大人の手のひらで殴られたために頬全体が真っ赤に腫れ上がってしまっていた。
「っ、ぁ…」
憎みながらも、我が子へとしての愛情は微かでも残っていたらしいエディルの表情が翳るが、虚ろな眼のナーサディアにまた苛立ちが募ってしまう。
「………お前など、可愛いベアトのスペアでしかないわ。忘れない事ね!」
ナーサディアは何も言わない。
だんまりを決め込むつもりかと更にきつく睨み付けても、ただぼんやりと虚ろなままどこかを見ているだけ。
「奥様、もうここから今日は出ていってください。ナーサディア様は、打たれた衝撃で貴方様の声など聞こえてなどおりませぬ」
冷たく言い放つ執事の迫力に少しだけ気圧され、エディルは部屋を出て行く。
去り際にちらりと見たナーサディアは、まだ虚ろなままであった。
***********
ナーサディアの頬を手当をし、虚ろなままの彼女をそっと寝台に運んで深深とお辞儀をしてから執事は退室した。
いつの間にか、ナーサディアは眠りにつく。
眠りについて深くなると同時に、ナーサディアの体の奥深く。
とくり、とくり、と脈打っていた『それ』が割れた。
ナーサディアの手の甲に、小さく楕円形の膨らみが出来上がる。
皮膚が少し盛り上がり、かたくなり、そうしてぴりり、と割れた。
痛みはなく、ただ、元からそこにあったように、『それ』は生まれた。
『それ』が生まれるとほぼ同時に、ナーサディアは目を覚ました。
そのまま眠り続けていたらしく、日付は既に変わっていた。打たれた頬はまだまだ熱を持っており、じわりと痛む。
「人って、図星をつかれたら殴るもの、なのかな」
はは、と乾いた笑いを零していれば涙がぽたりと落ちる。
「…泣くな、ナーサディア。分かってたことよ、……分かって、た、」
ぽたぽたと、止まることなく涙は落ちていく。
慌てて手の甲で拭おうとして己の右手の甲にある『それ』が目に入る。
「……宝石?」
本物を間近で見たことの方は少ないが、これはきっと。
「ダイヤ、モンド?」
キラキラと光を反射し、たっぷりと輝きを放つそれが、何故かナーサディアの手の甲にある。
誰かがドッキリでも仕掛けているのかと離そうとしても離れず、手の甲に吸い付くかのように、そこにあるのが当たり前だと言わんばかりに『在る』。
「と、とれない…!」
かりかりと皮膚を引っ掻いてみても、手を握ってどうにかして隙間を作ろうとしても、どうしようにも出来なく、困りきった顔でナーサディアはうんうんと悩む。
涙はいつの間にか引っ込み、目の前の、手の甲にある宝石にすっかり意識が向いていた。
「取れないし…痛くもない…」
ぽかんとしたまま眺め、どうしたものかと悩みつつのろのろと体を起こし、ふとあった姿見に視線をやった。
「え?」
痣が、無くなっていたのだ。
今までどんな治療をしても消えることのなかった、忌まわしい痣。
それが無い。
更には、ナーサディアの髪の色も、瞳の色も変質してしまっていた。
今まではミルクティーブラウンの髪に鮮やかなエメラルド色の瞳であったのに、今はプラチナの髪にほぼ白に近い金目になってしまっている。
おまけに髪がとんでもなく伸びていた。立ち上がったナーサディアの足より長く、床に引きずってしまうほどになっている。
「どういう、こと?」
この見た目の色合いは、今の家族の誰にも似ていない。
髪と目の色さえ戻ればベアトリーチェと瓜二つの自分だが、色が違うだけでここまで雰囲気が異なってしまうとは。
どうしたらいいのだろうと、ナーサディアは必死に思考を巡らせる。
髪の色を染める訳にもいかない。
目の色はどうやっても変えられない。
ならば、と。
ナーサディアは、己自身に見た目を変化させる魔法をかける事にした。
この部屋に人が来る時だけ、髪と目の色を変えてしまえば良い。
手の甲にあるダイヤモンドは、袖の長い衣服で誤魔化すか、あるいはお茶を飲もうとしてうっかり零してしまった、とでも言ってから包帯を巻いておけば良い。
髪の長さは簡単だ。切れば良い。
まずは髪を一掴みし、風を魔法で生み出し鋭利な刃状にする。
「……風よ!」
小さな声で、魔力量を限りなく絞込み抑え、手にしたあたりでざっくりと切り落とした。
「……よし。あとは……変化の魔法」
廃棄する予定だった書き損じの計算用紙の束を取り、髪を包んでからゴミ箱に捨てる。
分からなくなるように他のゴミも詰めておいた。
次いで、足元に魔法陣を描いてから髪全体を魔力で覆うように、瞳については『そう見えるよう』ピンポイントで認識阻害の魔法で覆った。
細かな範囲調節をしなければならず、小さな体には負担がかかるが、どうして髪の色が、瞳の色が変わってしまったのか説明できないナーサディアにとっては、その方が楽だった。
魔法をかけ終わる頃にはうっすらと汗が滲んでしまったが、そうも言っていられない。
慌てて周辺の気配を探る魔法を使い塔内の人の動きを探れば、一人こちらに向かってきているではないか。
ベッドに座り、今起きましたという雰囲気のままぼんやりと外を見つめ続ける。
コンコンコンコン、とノックに次いで『失礼致します、ナーサディア様』と柔らかな執事の声が聞こえた。
「…はい、どうぞ」
「失礼致します」
ナーサディアからの声で執事は室内に入り、足元に膝をついて座ってから頬にそおっと触れた。
「…腫れが引いておりませんね。本日の授業はお休みだそうですので、今日は一日ごゆっくりなさいませ」
「あり、がとう」
ぎこちなくなりながらもお礼を言って顔を上げると、目を丸くした執事と視線がかち合った。
「お嬢様……痣が……」
「え、と……その、さっき目が覚めた時に、少しだけ魔法の練習をしていて…、あ、あの、痣は消えていないのだけれど、見えないよう…えっと、認識阻害の魔法を、かけて、いて」
「左様でございましたか」
すっかり痣を戻すのを忘れていたが、そもそも痣は消えてしまっているので戻す必要もない。
咄嗟に出た嘘に、執事は納得したらしい。
「…………奥様には、内緒にしておきましょう」
思いがけない言葉に、ナーサディアが目を丸くした。
「昨日あれほどまでに激高なされたのであれば、痣を見えなくすることができると分かった途端、お嬢様を引きずってでも本邸に戻すことでしょう。…この老いぼれは、お嬢様があのような所に戻ってほしくはないのです」
心底、己を心配してくれている様子が分かった。
「この塔にいる人間は、お嬢様の味方でございます。ご安心召されよ、誰にも申しませぬ」
「もど、ら…無くても、いい…の?」
きっと戻れば、苛烈な教育が待っている。
エディルの対応を見ていれば誰しも分かってしまう事だ。
塔にいる人間は、幼いながらに感情を消し去ったようなナーサディアを、心の底から心配していた。
己に利があると分かれば、夫妻は手のひらを返して接してくるだろうと簡単に想像出来てしまう。
それだけに、執事の言葉は本当に嬉しかった。
「はい。ベアトリーチェ様が王太子妃として成長なさるというのならば、ナーサディア様は此処にて、仮にスペアとしてでもいい。ありとあらゆる教育を受け、淑女となられると宜しいかと。自慢せざるを得ない娘になってしまえば、体面を気にする夫妻は何も言えません」
長く務めているからこそ、心配しながらもナーサディアに有益な世渡りを教えてくれるこの執事のことが、彼女は大好きだった。
世話を焼いてくれる二人目の母のようなメイドも、胃に負担のかからないような美味しい食事を作ってくれる料理長も、本当に大好きだった。
「ナーサディア様が我らのことを想い、頑張っているのは皆、知っております」
初めてもらえた欲しかった言葉に、ナーサディアは泣き崩れた。
王太子妃教育を受けている最中、辛いことばかりだった。それでも泣いたことが無かったけれど、人の温かさに触れ、心の底から大声を出して、思い切り、泣いたのだ。
「…知識や経験は、決して無駄にはなりません。大丈夫…大丈夫ですよ、ナーサディア様」
しゃくりあげながら何度も頷き、必死に笑う。
それは本邸を追いやられ、双子の片割れのスペアなのだと両親から告げられ、この塔に閉じ込められてから初めての、くしゃくしゃながらも年相応の笑顔だった。