変わり始めるもの
泣いて泣いて、泣き疲れて体力を消耗しきって眠り、腫らした目を擦りながら起き上がる。
ヒリヒリと痛む目元に、昨日のあれが夢ではなかったのだと思い出された。そして、エディルがいかにナーサディアを憎んでいたのかも、思い知らされた。
今まで必死に我慢してきてくれていただけで、この顔の痣のせいで好かれていなかったのだと、痛感した。
ベアトリーチェと一緒だから、ベアトリーチェがナーサディアを愛してくれていたから、ベアトリーチェが共にいることを願ってくれていたからこそ、簡単に引き離すことが出来なかった。ただそれだけの話だった。
両親の中心にいるのはベアトリーチェだけ。
顔には痣もなく、母譲りの美貌は更に磨かれ、これから更に美しくなるだろうと評判の二代目『妖精姫』。
一方でナーサディアは、『化物姫』。
目が覚めてから、ぼんやりした思考のままどこか空っぽになってしまったような胸に触れる。
ナーサディアは、両親にも愛してほしいと切望していた。
しかし不思議なもので、当時感じていた両親の不可解な雰囲気の理由が分かり、同時に思いきり突き放され、どん底に落とされ、しっかりと『道具』であると明言されてしまったようなものだ。
ナーサディアの心の中に少しだけ残していたかった希望も、粉々に砕けたような気分だった。
あまりに急な対応の違いに戸惑いしか生まれない。
その時、不意に頭の中に声が響いたような気がした。
――――愛される訳がないんだ。でもこんな顔に産まれたのは自分の責任ではないし、どちらかといえば母親のせいではないの?ねぇ、ナーサディア?
声が終わったような感覚と共にはっ、と自嘲めいた笑みが零れ、我に返った。
「………え?」
その声が自分の心の声であるとするならば、こんな事を言ったのか。考えたのか。
今までの自分ならば、間違いなくこんなこと考えたりはしなかったのに、と。
どうしてこんな事を考えてしまったのか、少しだけ怖くもあるが、その思考回路に至るのは当然だと思う自分もいるのではないかと、更に考える。
考えて、ひたすらに考えて、あまりにも自分の思考回路が変わり始めていることに気付いて、頭まで思いきり布団を被り直したナーサディア。
「どうし、…っ、……え、……な、なんで……?」
頭が混乱する。
目の前がぐるぐると歪む感覚に襲われる。
あまりに違う自分の思考が、恐ろしいものに感じられるのにそれをすんなりと受け入れつつある自分がいる。
違う。
そうじゃない!
仕方なかったの!お母様にも事情はある!
否定しても、その『声』は止まらない。
―――痣の有無でこんなに差を付けられる意味が分からないわ。私は私なのに……ねぇ?
「黙って!!!!!」
悲鳴のような声を上げてしまい、慌てて己の口を塞いだ。
分厚く重い扉のおかげか、幸い外には響いていないようで安堵の息を零した。
だが、一度産み落とされてしまった嫌悪は溢れるばかりで留まることを知らない。
あの歪み切ったエディルの笑みや、ランスターの忌々しげな顔、自分にだけ向けられる底冷えするような視線と声音。
何もかも、つまりは『ナーサディアが不要』だと結論付けるには十分すぎる。
そんな両親に対して期待を微かにでも抱いてしまえば、傷付くのはナーサディア自身なのだ。
不要だと言われようとも、昨日のエディルの言葉から推察するに、とりあえずは何かあった時の王太子妃候補のスペアとして十分な教育はされるらしい。ならば、それをこなしてしまえば、常識も学も身に付く。
ベアトリーチェが王太子妃、ゆくゆくは王妃になったとしても、己がスペアである限り、それを存在意義とする限り、あの両親はナーサディアを飼い殺しにするだろうという事も理解した上で、飼われてやれば少なからず飢えることも死ぬこともないだろう。
ナーサディアは、そう判断した。
だから、必死に食らいつこうと決意した。
ナーサディアが普段起きる時間にやってきてくれる優しい老執事に挨拶をし、表面上はこれまでと同じように接していたが、昨日の事があるせいかやたらと老執事はじめ、塔の使用人達が優しかった。
余計に辛くなり、悲しくなったが、それでも。せめて、この人達を落胆させてはいけないと、あの母親の言葉が原因でナーサディアが勉強しなくなったなどと、本邸の他の使用人達に笑われてしまわないように。
己が大切にしている物も、何もかも、いつか時が来るかも分からないけれど、その時までは興味を持っていない事にしようと、心の奥底で誓った。
そこからはとんでもなく早く、そして有り得ない程の才を存分に発揮した。
学問も、礼儀作法も、王太子妃教育も、何もかも、母である人の望むがままに習得し、家庭教師についた婦人からは賛美の声がかけられるまでに一気に成長した。
幼くとも聡い彼女を褒める度に、本邸に居る母や父の機嫌が急降下するのは分かりきっていた。
だが、それは彼らが望んだ事でもあるのだからナーサディアは何ひとつ悪くない。
その状況を思う存分利用しようと、更に誓った。
王宮では己の片割れが。
邸宅では自分自身が。
ベアトリーチェと過ごした六年間で、ベアトリーチェが何を得意として何を不得意とするかも分かっていた。
だから、まるっきり、同じようにしてみせた。
ナーサディアが王太子妃候補としての教育を受け始めたのはベアトリーチェから遅れること数ヶ月。
無論、『候補』である以上は他の令嬢達にも同等の教育は行われている。
王妃に気に入られた令嬢達は王宮で、家族からの推薦があった令嬢に関しては王宮への通いで。
ナーサディアはベアトリーチェと双子ということもあり、エディルがこっそりと影で王妃にこう伝えたのだ。
『我が家にはもう1人、病弱ながらも娘がいる。ベアトリーチェについて万が一があってはいけないから、影姫として同じ教育をさせてはどうか』
病弱、という表現に訝しげな顔をされたが、念の為のスペアは多い方が良いだろうと判断された結果、現在に至る。
不正解ならば手のひらを鞭で打たれ、姿勢が悪いと竹の棒で背をぶたれる。
痛い思いをしたくないから、ナーサディアは必死に覚えたしこなしてみせた。
そのような痛みに無縁の人生を送ってきた令嬢達は『自分ではとても務まらない』と候補からどんどん居なくなっていく。
そうして、ついに残ったのはベアトリーチェだけになったと、上機嫌なエディルが塔にやって来てナーサディアに伝えたが、表面だけの笑顔を浮かべた彼女は、完璧なカーテシーを披露して、ただこう言った。
「おめでとうございます、侯爵夫人」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あ…」
「どうされましたか、王子」
「僕の『宝石姫』が……目覚めるかもしれない。今、小さい鼓動が聞こえたんだ」
不思議そうに首を傾げる侍従を横目にふふ、とティミスは微笑んだ。
「兄様達が見つけたみたいに、僕も早く見つけなきゃ。…僕だけの愛しい『宝石姫』…。待っていてね…」
うっとりと、心の底から愛しげに、ティミスは微笑み、空へと手を伸ばした。
少しだけ、伏線を。