いらっしゃい
駆けている、という実感がないまま、短いような長いような空の旅を終えた馬車は、少しずつ高度を落としていく。
窓の外の景色が空の青一面から、森の木々や平地などへと変化していった。みるみるうちに変わる景色と、がたん、と揺れて地面を走り始めてから伝わってくる馬車の振動が、『外に出たんだ』と改めて実感させてくれる。
「わ…」
「さぁ、入国だ」
ナーサディアとティミスは、いつの間にかずっと手を繋いだままだった。何となく、そうするのが当たり前のような感じがして。
互いに顔を見合せ、どちらからともなく微笑む。ナーサディアの微笑みはやはり少しぎこちなくもあったけれど、これまでの彼女を考えれば微笑むということをしてくれているだけでも、相当な心境の変化なのだ。
帝国の入口の巨大な門が、ぎぎぎ、と大きな音を立てて開かれていく。その先に広がる光景に、ナーサディアは目をまん丸にした。
人。人。人。
どうやって集まったのかと問いかけたくなるくらいの、大勢の人。その人たち皆が、笑顔で皇帝専用の馬車に手を振っている。
「え…?」
「皆、貴女を歓迎しているのよ。…ナーサディア姫」
「ひ、ひめ!」
ぎょっと表情を強ばらせ、恐る恐る馬車の窓から顔を覗かせた。
ナーサディアの姿が見えた人達が、我先にと大きく手を振り始める。その光景が、あまりに自分の過ごしてきた現実とかけ離れすぎていて、どうすればいいのか分からなくなる。
誰も、ナーサディアを拒絶なんかしていなかった。
「…すご、い」
「ナーサディア、手を振ってあげて?」
「…こう?」
ティミスの言葉に、恐る恐る手を振る。それに応えるように集まった人たちも大勢手を振り返してくれる。くすぐったいような、どうしたらいいのか分からなくなるほどの幸福感のような。
何をどうしたら良いのか分からないけれど、でも、今こうして歓迎してくれているのは事実なのだ。
宝石姫だから歓迎されているのは分かっているが、その立場があったとしても『ナーサディア』が歓迎されている事実は変わらない。
今までならば、きっと卑屈になっていた。
『どうせ私なんかが』や、『宝石姫だから良くしてくれる』、と泣いていたのかもしれない。
でも、自分が宝石姫であることも、それは自分のひとつなのだから、短期間でいつしか受け入れていた。
宝石姫だからこそ愛されるならば、その分の愛を返したい。己の国の人々のような打算的すぎる人ばかりではないと思うから。
笑顔も手の振り方もぎこちないけれど、ナーサディアは周りへと手を振り続ける。
背後からティミスも加わって、同じように手を振る。ナーサディアの分まで笑顔を浮かべてくれているような、満面の笑みで。
馬車の中にまで歓声が聞こえてきて、ナーサディアはどこかくすぐったいような感覚になる。
「どうしたの?」
「…な、慣れてなくて、…何か…あの、背中が、かゆい、感じ…」
「慣れるよ。僕もいるんだから」
ね、と優しく言われ、ナーサディアは頷く。
この人がいるから、きっと大丈夫だとそう信じているから。
大きく開けた街道を進みながらも、ナーサディアは手を振ってくれている人たちへと、手を振り続ける。
そして、いつの間にか人が不意に途切れた時、吊り橋が大きな音を立てて落ちる音がした。
思わず体を跳ねさせ、窓から離れて困惑したままティミスや皇帝夫妻を見れば、三人とも大丈夫だと言わんばかりの視線を向けてくれていた。どうなるのだろうと思っているうちに、馬車は緩やかに進み始める。
進んで、そんなに時間が経たない内に馬車が止まる。
扉が開かれると、ずらりと並んだ大勢の使用人たちの姿。一列に勢揃いして並び、馬車の出迎えをしている姿はまさに圧巻そのもの。
その中を悠然と歩いてくる二組の男女と、抱えられた幼い令嬢がいた。
あぁ、腕に抱かれている彼女と、もう一人いる女性が、きっと話に聞いていた宝石姫なのだと、見た瞬間に理解した。
腕に抱かれていた幼い令嬢が、男性に何かしら言うとそっと下ろされる。
幼い令嬢の見た目は全てが薄い青に包まれていた。儚げながらも強い輝きを持つ、水の色。
アクアマリンをその身に宿し、水の加護を一身に受け愛される宝石姫。髪の色も目の色も、全て薄い青色で統一されており、きらきらと光が弾けるような眩さがあった。
そしてもう一人の女性。
胸元が大きく開いた淡い黄色のグラデーションがかかったAラインのドレスを優雅に身にまとい、鎖骨の辺りに真円の形をしたトパーズを宿した、地の加護を持った柔らかな雰囲気だった。微笑みを浮かべ、目を輝かせている幼い令嬢を優しく見つめていたが、ナーサディアを見つけると微笑みを深くして真っ直ぐ見つめてくれる。
水の宝石姫が、ティティール。
地の宝石姫が、ファリミエ。
二人とも、ナーサディアの到着を心待ちにしていた代表の二人である。
「…ようやく、会えましたわ。わたくしの可愛い妹姫」
「姉姫様!お会いできて嬉しいです!」
歩みを進めながらかけられた、優しさに溢れた言葉。
ティミスに手を引かれるまま歩き、ティティールとファリミエの前に立つと、恐る恐る頭を下げた。
「ナーサディア、です。…え、と…」
「ナーサディア……ディア姉様ね!」
「こら、ティティール。あまりはしゃぎすぎてはナーサディアが驚くでしょう?ごめんなさい、この子、貴女に会えるのが本当に嬉しくて……ナーサディア…?」
「わ、私…、ここに、いても…良い、んでしょう、か」
震えながら問われた内容には二人のみならず、その場の全員が目を丸くした。
太陽の光を目いっぱい浴びて、きらきらと光り輝くその姿は、身にまとったダイヤモンドが散りばめられた、ナーサディアのためだけの特注品のドレスではあるが、その輝きに負けないほどの神々しさを湛えた彼女が、どうして気後れする必要があるのだろうか。
ティティールはともかく、ファリミエや他の皇族はナーサディアがどんな環境に居たか知っている。きっと、彼女の気後れはあの環境からやってきてしまうのだろうと予測はしていたが、十年以上受けて、耐えてきた心の傷はそう簡単に癒えるわけもない。
だから、皆で彼女を肯定する。
「勿論!ようこそナーサディア、わたくしやティティールの大切な仲間、愛しき姫よ!」
大袈裟に見えるかもしれないが、両手を大きく広げ、よく通る声でファリミエは真っ先に己が肯定してみせた。
皇族に認められることも大切ではあるが、まず、同じ境遇にいる自分が真っ先に認めないで、誰がするというのか。
ティティールもナーサディアに駆け寄って思いきり抱き着いて満面の笑みで見上げた。
「私の大切な姉姫様、これからよろしくね!」
「…っ、あ、……」
ただ、嬉しかった。
「ね?言っただろう?」
背後から聞こえる自信満々のティミスの声。
「ナーサディア、さぁ…行きましょう。今日から、貴女はわたくし達の家族の娘にも、妹にも、姉にもなるのよ」
温かなファルルスの声。
「ゆこう、ナーサディア嬢。まずは疲れを癒すためにゆるりと過ごしてほしい」
そして、皇帝・イシュグリアも続けた。
力強く頷く皇太子や第二皇子。
いつしか顔を上げて、こちらを見て微笑んでくれている多数の使用人たち。
「はい…っ!」
泣きそうになりながらもファリミエの元に駆け寄って、己の姉となる人の手を取る。駆け寄ってきてくれたティティールは、ナーサディアの反対の手を、小さなその手できゅう、と握ってくれた。
三人並んで歩くその姿を見て、皇帝夫妻は微笑む。ようやく、あの少女が安らげる場所へと連れてこられた、と。
勿論、ティミスも笑う。
ナーサディアのことを誰よりも先に見つけて、駆け付け、救い出したのだから、自分が目いっぱい愛情を注いで幸せにしなければと、強く決意した。