心に決めたこと
かたん、と揺れを感じてナーサディアはふと目を開く。
左半身がやけに温かくて、すごく落ち着く感じがするのは何なんだろうと、ぼやけた視界が少しでも鮮明になるように必死に意識を呼び戻す。
「あら、ナーサディア嬢。目が覚めたかしら?」
「……え……?」
視界がクリアになって、まず見えたのはナーサディアの向かいで優雅に微笑むファルルス。
そしてその隣に座るイシュグリア。
「…………え?」
「ナーサディア、おはよう」
更に、どうやら思いきりもたれかかっていたらしい、ティミスの声が頭上から降ってくる。
確か…と、自分の記憶を呼び起こしていく。
皇帝夫妻やティミス、それに自分を大切にしてくれている人たちをバカにされて、目の前に火花が走りそうなほどの怒りを覚えた。その後で、自分の家族であった人達に対しての別れを明確に告げたところまでは覚えている。
「わた、し」
「気を張りつめていたからね。多分キャパオーバーしちゃったんだよ、大丈夫かい?」
「は、い」
まだぼんやりする意識をどうにかクリアにしようと瞬きをぱちぱちと繰り返す。少しずつモヤが晴れるようにハッキリしてくると、ティミスにもたれかかっていた体を起こした。
「大丈夫?」
「…ぼーっと、して、ます」
「もうちょっともたれてていいよ?」
「…はい」
ほらおいで、と促され、言われるままにティミスへとぽすん、ともたれかかる。
思い出すのは、家族であった人達の絶望しきった顔。
どうしてあんな風に絶望できるのか、本当に分からなかった。最初に突き放してナーサディアを絶望させた人達なのになぁ、と考えるが、その程度すら考えたくなかった。
「今、…どこにいるんです、か?」
「ふふ」
「……?」
見上げてティミスに問いかければ、微笑みだけが返ってきた。
「外、見てご覧」
「そと…」
再び体を起こして言われるままに外を見る。
「え、……っ、……わぁ………!」
窓の外に広がる一面の青。どこまでも遠くが見渡せ、見る場所によっては地平線や遥か遠くに水平線が見えた。
「すごい………!……すごいです!……あ、れ、でも…この馬車…飛ん、で…」
感動の直後に、ふと下を見てみればだいぶ下に見える地面。
「そうそう。あのね、ナーサディアの荷物を僕専用の馬車で運んでて、僕達は皇帝専用の飛行馬車で今カレアムに向かってるんだよー」
にこにこと笑ってさらりと言われた内容に、ナーサディアは思わず硬直する。
「こ、皇帝、専用?」
「うん」
ぎぎ、と機械のように皇帝夫妻に視線をやって見れば、満面の笑みを浮かべる二人の姿。
わぁすごくいい笑顔、とナーサディアは心の中で呟く。
イシュグリアもファルルスも、はしゃぐナーサディアをとても微笑ましそうに見守ってくれていたのだが、今こうしてティミスが言った内容に対しては『さぁどうだ』と、自慢も入り交じった悠然とした微笑みへと変わっていた。
「陛下が乗る馬車はね、特別製なの。今はこうして飛んでいるから割と直ぐに帝国に到着するけれど、もちろん地面を走ることもできるわ。ちょっと……スピードが出すぎるくらいな時もあるけど」
「で、出すぎる…?」
「カレアムからウォーレンって、陸路で二日かかるんだよ」
「……?」
「この人達一日かけずに来たから」
真顔で言ったティミスは、大きな溜息をつきつつナーサディアを手招きする。
窓に張り付いて景色を見ていたのだが、ナーサディアは呼ばれるまま先程の位置まで戻って座り直した。
「望めば、それくらいの爆速で走れるけど…今のナーサディアがそんな暴走馬車に乗っちゃったら、間違いなく馬車酔いするし体調崩すから、空路で行ってるんだよ」
「え、あ、えと」
「ティミス、ナーサディア嬢に誤解させてはなりませんよ。あと、空路だともっと早いんですのよ。ねぇ、陛下?」
「半日かからんな」
「……………」
自分の本で得た知識や聞いた話が、何となく音を立てて割れたような気がしたが、そもそもナーサディアが知っている馬車とは色々なものが違っているんだなぁ…と、また飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めた。
「父上、母上、帰ったらまず先にナーサディアに休んでもらって良いでしょう?」
「無論だ。ナーサディア嬢、嫌いなものはあるか?」
「…?」
「苦手な食べ物や飲み物はあるかしら」
「…えっ?…あ、えと…、え?」
「ナーサディア、好きに言って良いんだよ。僕らの前で遠慮なんかいらないんだから」
よしよし、と頭を撫でてくれるティミスの手が心地よくて自然と目が細まる。
「好き、な…もの。えぇと…」
何が好きだったか、とぼんやりと考える。
あぁ、そういえば料理人の彼が作ってくれる、林檎のコンポートが乗せられた、生クリームと蜂蜜がかかったパンケーキが好きだったなぁ…と、思った。あまり頻繁には食べられなかったけれど、淑女教育の夫人に褒められた時や、テストでいい成績を取れた時に食べられた記憶が過ぎり、特別なご褒美感があった。
だが、今ここでリクエストしても食べられるかどうか、と悩む。
あとは何が…と更に考えて、ふと思い立つ。
「…あ…」
「何?何がいい?」
「あ、あの…他の、宝石姫、様たちは…、どんなお菓子?とか…が、好きなんです、か?」
「他の姫?」
「好きな、もの…あるけど…今すぐは、多分食べられない、だろうから…」
「あ!もしかしてあの料理人の彼が作ってくれてたもの?」
そうだ、という意味で、数度頷いて肯定した。
ティミスは少し考えて、ナーサディアの言うことがもっともかと思う。
彼女は、本邸から幼い頃に連れ出され、塔へと押し込められた。
ナーサディアがそれから食べていたのは料理人の彼が作ったものだけで、きっと貴族令嬢達が食べていた流行りのお菓子や珍しい輸入されたお菓子などは食べたことがない。
ナーサディアの幼い世界の全ては、本当に、あの塔だったのだ。
老執事や世話係のメイド、掃除をしてくれるもう一人のメイド、料理を作ってくれる男性、それらが全てだった。
「ごめんなさい…、うまく、答えられ、なくて」
「うーん、言われてみればそうなんだよねぇ。あとナーサディアはしばらくごめんなさい禁止、良いね?」
「へ?」
「だって、ナーサディアの世界はあそこだけだったからね。うん、僕の質問が悪かった。なので、質問を変えるね」
「……へ?あ、は、はい?」
「どんなものが、食べてみたい?」
「……………どんな、もの」
「そう。食べてみたかったものとか、食べてみたいものとかある?」
「……あ」
「ん?」
「くだものとか…あの、クリームとか、のった、パンケーキ…」
ぽそぽそと言われた内容を漏らすことなく聞き取って、向かいに座る皇帝夫妻に視線をやれば、しっかりと頷いていた。
三人ほぼ同時に通信魔導具を取り出すが、ここはティミスに譲ってくれたらしい夫妻はそれを懐にしまってくれた。
なお、三人の行動はナーサディアもばっちり見ていたので、あまりの息の合いっぷりに目を丸くしていたが、通信具でティミスが伝えてくれている内容の方に、すぐ目を輝かせていた。
「帝国に行ったら、まずは休憩とか色々を兼ねてお茶会をしようね。その時に、他の宝石姫二人を紹介するよ。ついでに僕の兄上達や、皇太子妃も併せて紹介するから」
「はい…っ!」
「血は繋がっていないけど、君に兄や姉、妹ができるね」
「迷惑に…」
「ならないから大丈夫!」
即座に否定して、にっこりと満面の笑みをナーサディアに向ける。
「怖がらないで、って言っても難しいかもしれないけど…。本当に僕達は大丈夫だからね」
あまりに早かった否定の速さに目を丸くしていたが、ナーサディアは思う。
そうだ、彼はこういう人だと。
出会って数日しか経っていないのに、ナーサディアのことをとても大切に、本当に宝物のように扱ってくれて、触れるにも何をするにもすごく優しい。
「…はい。ティミス様のこと、信じて、ます」
自分をあっという間に塔から、あの国から連れ出してくれた人の手を取った時に、信じようと心に決めていたのだ。