怒りの大きさ③
あの時優しくしていれば。
もしも、あの時に塔へと閉じ込めたりしなければ。
いくら、『たられば』を重ねても過去が変わることはない。己がやってきたことの結果が、今こうして現れている。
何をどう足掻いてもナーサディアがこちらに戻ることはないというのに、それでも彼らは縋る。きっと、優しいナーサディアはこちらの言い分を聞いたら、「仕方ない、です」と困ったように微笑んでくれるという、愚か極まりない夢想の中にいるのだ。
それがあまりにも分かりやすくて、ファルルスとイシュグリアは、目配せをしてからナーサディアを庇うようにして立つ。お前達と彼女を会話させるわけにはいかない、と言わんばかりに。
「どこから暴露してほしいかしら、侯爵夫人?」
艶やかな笑みで、ファルルスは問う。
「調べたらね、色々なことが分かってしまったの。王妃と結託して隠していたつもりだったのかもしれないけれど、人の口を糸で縫い付けて喋れないようにしたとしても、筆談もあるのだからいずれは露見してしまうわ。あぁ、それすらさせないようにしてしまうというの?怖いお人ですこと」
鈴の音のような声で言われた恐ろしい言葉の数々。あぁ、知られている。もう駄目だ…と、エディルはぐっと黙った。黙ったところで何も変わりはしないのだが。
帝国そのものを敵に回したことは理解していたつもりだったが、ここまでされないだろうと軽く見ていた節がある。あくまで『つもり』でしかなかった。
「っ、あ、の」
「それと、この国の貴族の皆様方も…。揃いも揃って幼子に辛く当たり、バカにして嘲笑うのだもの。でもそれって…」
どうにか言い訳をしようとしたエディルの言葉を容易く遮り、ファルルスはその場にいる全員をぐるりと見渡す。
彼らは『自分くらいは大丈夫だろう』と安堵していた。針山に立たされているのが侯爵家のみだと、勘違いしていたのだから。
「つまりは、ご自分達も同じような扱いを受けてもいいと、そう公言していらっしゃるということだものね?」
明るく言われた内容に全員の顔色がさっと悪くなる。
「自分はやっても良いのにやられたくないとか…まさかそんなこと、言わないでしょう?」
ね、と追い打ちをかける。
一切笑っていない皇妃の目があまりに恐ろしく視線を外したかったのだが、それは許されなかった。
すすり泣くような声や、か細い謝罪が聞こえる。
どれもこれも、今更ナーサディアへの許しを乞うものばかり。
「謝られても…どうしろと…」
この場にそぐわないような、困惑しきったナーサディアの声音がよく響いた。
「お前には人の心がないのか!」
それを皮切りに、一斉に罵倒が始まった。
「人でなし!」
「化物姫のくせに、着飾っても無駄だ!」
「家族への情がないの?!」
「最低よ!」
「逃げるな!」
まるで子供の悪口だ、とナーサディアは思う。
けれど次いだ言葉に、一切の表情を無くした。
「お前を見る帝国人は、目も頭もおかしいんだよ!化物どもが!」
その一言は、これまで怒りをあらわにしたことのなかったナーサディアの逆鱗を見事に刺激してしまった。
「……………」
ざわ、とナーサディアの纏う雰囲気が豹変する。
異様な空気に罵声を浴びせていた人たちも、口を閉ざしたり、まごついたりと、どうしていいのか分からないようだった。
「皇帝陛下も、皇后陛下も、ティミス様も、皆…、皆、おかしくなんかない。おかしいのは、自分たちでしょう……っ」
「あら…まぁ。光の精がとてもお怒りだわ」
「ナーサディアが怒ったからね。精霊も怒りに満ちているんだ」
ファルルスとティミスは静かに呟き、イシュグリアも頷く。
ナーサディアの属性は『光』。
それだけ聞けば、『聖なるもの』というふうに思えるのだが、それだけではない。
『光』そのものに祝福された、清浄無垢なる存在。それに伴う表立っては見えないが隠れた芯の強さや、意志そのものの強さ。
ナーサディアの手の甲に出現したダイヤモンドの透明感の高さに、ティミスは震えてしまったのを思い出す。
宝石としてのダイヤモンドは、無色透明であればあるほど高い品質を持っていると言われているが、あそこまで見事なものは見たことがなかった。彼女がどれだけ耐えて、それでも己の心の奥底では強く眩い輝きを秘めて持っていたのかを象徴している。
聖なるものであると同時に、とても強い意志をもつ存在。
そして、言葉の通り、『光』をも操る。
「あなた達の方が、頭も、目も、おかしいじゃない!」
怒鳴ったことのないナーサディアの、初めての本気の怒りと怒鳴り声。
辺り一面が、目も開けていられないほど眩く輝いた。
「私のことはいくら馬鹿にしてもいい!けど、ティミス様や皇帝陛下、皇后陛下をバカにできるほどあなた達は偉くもなんともないじゃない!都合のいいように私に謝って許してもらおうと媚びへつらうような人達なんか、いらない!」
「あ、まずい」
あまりの怒りの大きさに、普段は見えない精霊たちまでもが具現化していた。ナーサディアの周りをくるりくるりと回っていた彼らがひたりと見据えるのは、まずナーサディアに対して暴言を吐いた貴族の男性。その彼が、手で目を覆っていた。この光から逃れるように。
ティミスが異様な雰囲気をいち早く察知して、ナーサディアに駆け寄って、背後からぎゅうっと抱きしめる。
「ナーサディア、落ち着いて。大丈夫、僕も、父上も母上も、あんな戯言なんか気にしない」
「でも、…でも、っ!」
「君がそこまでしてやる必要はないんだ。大丈夫だよ、僕の姫」
抱きしめる力を強くして、彼女の怒りが静まるように優しく、あやすように頭を撫で続ける。
「…ありがとう、君は、本当に優しい子だね」
涙を流しながら、しゃくりあげ、言葉を紡ごうと口をはくはくとさせていたが、抱き締められている安堵感から次第に落ち着きを取り戻し始める。
ティミスの手のひらが淡く発光し、ナーサディアの目を覆った。
「大丈夫…君がやらなくていい。もう、あんな醜いものは見なくていいんだ…僕たちがやるから」
「ティミス、さま、っ…」
抱き締めてくれている腕に縋り付くように、ティミスの衣服が皺になるだなんて今は考えることなく、ぎゅうと握った。ぐずぐずと泣きながら、ただ、温かな居場所を与えてくれる腕に縋る。
泣いて、少しだけ息があがったものの、少しずつ精神状態も落ち着きを取り戻した。
そんなナーサディアの様子に、光の精霊たちもじわりと落ち着いたのか、ナーサディアを心配するように彼女の元へとやってきて、寄り添うように頬に擦り寄る。何となくそれが察知できたのか、ナーサディアは指先で精霊を優しく撫でてやると、先程の攻撃的な眩さではない、包み込むようなあたたかく優しい光が放たれる。
「…ごめんね、心配させちゃったね…。…ありがとう…」
もう一度擦り寄って、ナーサディアの周りの空気に溶け込むように揺らめいて精霊たちは姿を消した、ように見えた。
「う、…」
ナーサディアにとてつもない暴言を吐いた貴族の男性は、変わらず目を覆っていたが、そろりと手を外す。
そして、きょろきょろと周りを不思議そうに見渡した。
「あれ…?お、おかしいな……眩しくなくなったのに…何故白いんだ……?」
どうして、と狼狽える彼だが、何も見えていないようにきょろきょろと忙しなく周囲を見ている。明らかに様子がおかしいのだ。
「なんで、どうして!」
「………ナーサディア、何かした?」
「多分…、わ、私じゃなくて……この、子……?」
この子、という言葉に姿を消したはずの精霊がひとり、姿を現した。
小さな体で胸を張り、『わたしがやりました、すごいでしょう』と言わんばかりにドヤ顔を披露している。
「お前、何したんだい?」
見えない、分からない、助けて、と騒ぐ男性を見つつ、ティミスは小声で精霊に問いかけると子供のような声音で、頭の中に直接話しかけてきた。
『ヒメをバケモノっていうなら、みなきゃいいんだよ!かーんたん!!だからみえなくしてやったー!!』
キャハハ、と甲高く笑って言われたそれは、どうやら全員に聞こえていたらしい。
その場にどよめきが広がり、ナーサディアを罵倒していた貴族たちは揃って口を噤んだ。
精霊にまでも愛されているのか、と誰かが絶望したように呟いた。
それはそうだろう、と。呟きを聞いたティミスは呆れ混じりの溜息を吐いた。
宝石姫であるナーサディアが、その身に属性の定まった宝石を有し、その力を行使できる。更に、魔力消費を半減させるような魔法石までも生み出せる存在であるのだ。
世界を創りし神の子らである精霊に愛され、属性に応じた宝石を宿し、時には使役する、かけがえのない存在自体が宝物である彼女ら。それが、『宝石姫』。
「見なきゃいい、って…光を奪った、ということ?」
『そうだヨー!』
「……やめてあげて」
『ヒメ、うれしくなかった?』
「あなたが、そんな風に力を使っちゃダメ。勿体ないし、その力はカレアム帝国の皆さんや、他の国の人たちのために使いましょう?」
『んー……ヒメがそういうなラ!』
ナーサディアに優しく諭されると嫌そうに顔を歪めたものの、それならばと男性に向けて腕を振るような仕草をした。その後、精霊がくるりと回って消えると同時に、どうやら貴族の男性は光を取り戻したようだ。
受け入れた現実を認めたくないようだったが、理解すると震えながらその場から逃げ出すが、謁見の間から出ることは許されなかった。
「ナーサディアは優しいなぁ。あのままでも良かったのに」
「…無駄なことは、したくなくて」
「んじゃ、改めて僕たちからこの国のヤツらへお返しをしなくては」
「平民の方々には申し訳ないけれど……原因は王族を始めとしたこの国の腐敗しきった貴族の方々だもの。貴方達は思う存分恨まれてくださいな」
どういうことだ、とざわめくが、国王夫妻は慌てて彼らの元へと駆け寄った。呆然としたままの侯爵家一家と、己の息子を隠すように。
「わたくし、お友達とお喋りする時は口がとーっても軽いから、聞かれたことには素直に答えてしまうの。ここに来る前に色々な人に聞かれたのよ?『わざわざ貴女様が出向くには何か理由があるのですよね?』と。だからね、帰ってこう答えるわ。…『この国の貴族や王族は、一人の少女を軟禁して、事情を知らぬ姉妹の影姫として育て、教育していた。それが宝石姫だったのよ』、って」
ファルルスはにこやかに告げる。
ダメ、とベアトリーチェは届くはずもないのに手を伸ばす。
やめて、私の片割れを取らないで、返して、嫌、と。か細く懇願しているようだが、別にナーサディアも皇帝夫妻もティミスも、奪ったわけではない。返してもなにも、当の本人は嫌だから出ていく、ただそれだけなのだ。
「顔に痣があるから、ただそれだけの理由でナーサディア嬢を蔑み、本邸から追いやった鬼畜がいる。しかも使用人達も幼子を虐め倒していた」
暴露されていく、真実。
「最低限の衣食住は保証していたようだけれど、ナーサディア嬢のお世話をしてあげていたのは、ほんの数人だけ。他は嫌がって押し付けあって、塔に出向くことすらしなかった」
「やめ、て」
「ある程度育ってくると次は、王太子妃の影姫としての教育を施していたわね。貴族院へ届けもせずに、隠し通そうとしたお馬鹿さん達」
「……っ」
「貴方がた、ご自身の子を何だと思っていらっしゃるの?」
当たり前の指摘。
当たり前の疑問。
それら全てが今更突き刺さる。
当たり前の指摘を受けて、どうしてそんな悲壮な顔をしているのか。何故自分達を被害者のように感じているのか。
「それでもナーサディア嬢はやり遂げたわ。別にそれは貴方たちのためではないの。いつかやってくる、貴方がたとの別離のため」
「そんな…」
「侯爵夫人が一番理解していたのではなくて?ナーサディア嬢が、もう既に家族そのものを見限っているということを」
ランスターとベアトリーチェが、エディルを見つめる。
彼女は、泣きながらも小さく頷いた。
「まるで、何にも感じていないような目を向けられて…っ」
「当たり前でしょう?先にそうしたのは貴方がたじゃない」
「だって、ナーサディアは、やさしく、て」
「いつの話をしていらっしゃるのかしら」
「家族を、大切に…」
ランスターが呟いた瞬間、ティミスがナーサディアを抱き締めていたその腕を一度離し、大股で歩み寄って思いきり殴り飛ばした。
「が、っ…!」
「お父様!!」
「お前たちは誰一人ナーサディアを大切にしなかったのに、ナーサディアに大切にされていたつもりだったのか。……ははっ、そうかそうか……」
「な、なにを、………」
されるのですか、という言葉は続かなかった。
絶対零度の眼差しが、侯爵家三人を見下ろしていたから。
「反吐が出る。何が妖精姫だ。…何が、社交界の妖精だ」
心の底からの嫌悪感を込めた眼差しと言葉に、ベアトリーチェは震え上がる。
それまで愛されることが当たり前すぎた少女は、初めて真っ直ぐ向けられたその感情が分からず、ただ、震えることしかできなかった。
ナーサディア、激おこ




