怒りの大きさ②
それは、誰が発した悲鳴だったろうか。
ひ、と息を吸い込むような、か細い声。カレアム帝国皇帝夫妻から発せられた怒気に、その場にいた人々は揃って震えあがる。
「父上、母上。遅かったではありませんか」
「これでも急いだ方よ。…あぁ、そちらの方ね」
ファルルスの視線に、ナーサディアはよろけて崩れていた体勢を慌てて直して帝国の挨拶をせねばと膝を突こうとするが、イシュグリアによって止められた。
「よい。姫よ、そなたは我らに膝など突いてはならぬ」
「……………で、です、が」
「姫よ、こちらへ」
たっぷりと威厳を含んでいるが、とても優しく聞こえる声。ティミスを見ると、微笑んで背を軽く押された。
「あの、」
「お初にお目にかかる。本来ならば帝国にてお迎えしたかったのだが…そこな阿呆に呼ばれてしまってね。少し早いが、こうして姫に会えた」
「父上と母上が『来るから』と一言だけの手紙を送り付けてきたんでしょう?ちゃんとナーサディアの謁見の日程も調整していたのに。もしもしー?父上ー?聞いてますー?」
慈しむような視線を、皇帝夫妻はナーサディアに向けている。『ティミスに呼ばれた』ということについて、ティミス自身が否定をしているのだが、そこは華麗にスルーしている。とてつもなくいい笑顔を浮かべたままで。
どうして、とベアトリーチェはぎりり、と歯ぎしりしてその光景を見ていた。
何故、己の片割れがあのような丁寧な扱いを受けているのか。自分がそこにいたいわけではないが、これまで家から出ていなかったのに、ティミスがやって来たからこうなってしまった、と視線を鋭くさせる。
「もう大丈夫だ。これからは健やかに過ごされるよう環境を急ぎ整えよう」
十二分に大切にしていたのに!危ない目に遭わないようにしてあげていたのに!と心の中でベアトリーチェは絶叫するが、それが聞こえていたかのように視線が彼女へと向けられる。
互いの視線が合えば、皇帝だろうが、その行動そのものが不敬と言われようが『返せ』と怒鳴りつけてやろうと思っていたのに、彼らのあまりの威圧感に何も発することはできなかった。
「……っ」
「姫よ、そこにいる王太子妃に…先程ティアラやヴェールを引っ張られていなかっただろうか。共に引かれた髪は大丈夫かね?」
「…あ…」
そういえば、痛かったし、折角整えてくれていたのにグシャグシャになってしまったのだと、ヴェール越しに前髪に触れた。
大好きな人が、一生懸命整えてくれた髪型なのにと、小さく溜息を吐く。
「痛かった、けれど…せっかく整えてくれたのに、乱れてしまった、のが…その…申し訳なく、て」
「直せば良いだけじゃない!」
高さも、聞こえ方も同じなのに正反対の二人の声。
残念そうな声と、悲鳴のような怒鳴り声。
全く異なる声音。
「……まぁ。…さすが、愛されるだけの『妖精姫』様ですこと。仰ることの内容があくまで自分本位でしかない……ふふ、流石ですわ」
非難、軽蔑、失望、あらゆる負の感情を声だけに込めて、ファルルスは言う。向けられた感情を察知して、ベアトリーチェは真っ向から睨みつけた。
「ナーサディアは、帝国になど行きません!」
「貴女は、ナーサディア嬢ではありませんでしょう?」
「……~っ!」
「決めるのは貴女ではないわ。ナーサディア嬢だもの」
懇願するような視線をナーサディアへと向けたベアトリーチェは、そこで初めて『今』のナーサディアと対峙した。
「え……」
プラチナゴールドの髪に薄い金色が混ざった、けれどほぼ白に近い限りなく淡い金目。
顔だけ見れば、同じなのに色味が違うだけで、全くの別人に見える。加えて、今のナーサディアが纏うのは白を基調としたドレスや装飾品。
それら全てが相まって、ベアトリーチェとは何もかも異なった雰囲気となり、神秘性すら感じさせた。
そのナーサディアが、ただ、無感情にベアトリーチェを見据えている。
興味も、哀れみも、親愛も、軽蔑も、何もない。ただの『無』。
「どうして、私は、ここに残る必要がありますか?」
「家族、だから」
「…へぇ…」
すぅ、と目が細められる。
「そっかぁ…そうだよね、ベアトリーチェ」
ナーサディアの口調が、昔のように砕けたのに、その声の冷たさは何も変わらなかった。
「貴女は、いつも陽だまりの中にいたもんね。お父様やお母様から、全ての愛情を注がれて、愛されて、両手から零れてもなお、愛を惜しむことなく目一杯もらってた」
それは、紛れもない真実。今まで過ごしてきた、ベアトリーチェの温かく、幸せな日常。
「本邸の使用人達も、貴女には優しかったわ。でも…」
少しだけ首を傾げたナーサディアの、瞳の冷たさが膨れ上がったような気がした。
「私はね、あの日、お父様に言われたの」
微笑んでいるのに、その目は一切笑っていない。笑っているのは口元だけ。
「『魔法教育から貴族社会の常識、王国史、ありとあらゆる知識を叩き込んでやろう。お前の大好きなベアトリーチェのスペアとして』って」
「…え…?」
初めて知らされた、己の姉妹の過去。それだけ聞けば、『影姫』の意味も分かってしまう。つまりナーサディアが『影姫』として、何かあった時の身代わりとして育てられ続けていたこと、『何かあれば自分は無事だけれど、ナーサディアは死んでしまう可能性がある』ということも。
信じられなかったし、信じたくなかった。
壊れた玩具のように、ぎぎ、と首を回して父母のいる辺りを見れば、真っ青になって震えている姿が目に入る。
「それから、私は塔に閉じ込められたのよ。そして、貴女と同じ内容の教育を受けていたわ。さっきも言ったでしょう?影姫だった、って」
「そん、な。…う、うそ、よ。だって、ナーサディアに、淑女教育をするんだ、って…おかあさま、は」
「えー、本当だよ。…ねぇ、王妃様?」
それを聞いていたティミスは、普段ならば絶対にしないけれど会話に割り込み、怒りを湛えた目で王妃を見据え、問うた。
ベアトリーチェは慌ててそちらを向いた。違う、と言ってほしくて。
「……そうよ。侯爵夫人も、認めているわ」
「そ、…っ、え…?」
「まぁまぁ。姉妹のことを何も知ろうともしないだなんて、貴族として、これから王族に名を列ねようとする淑女としては、愚かの極みですよ?」
ファルルスが言って、ナーサディアと向かい合い、微笑んで手を差し出した。
「あ、の」
「ナーサディア嬢、少し手を貸してくださる?わたくしはね、今すごく怒っているの。貴女の、父母だった人に」
「……?」
言っている内容が分からず、ナーサディアは差し出された手に自分の手を重ねた。
そこからふわりと光が溢れ、しゅるしゅると糸が紡がれる。
「………?!」
「ありがとう。さぁ、お馬鹿さんをここにご招待しましょうね」
どうやって?と、目を丸くしているナーサディアに対して優しく、にこやかに微笑んだまま、その糸にファルルスは息を吹きかける。そして、糸の先がぴたりと、ある方向を指した。
「そこにいらっしゃったのね」
なるべく人に隠れるようにして、この謁見の間に居たハミル侯爵夫妻の場所を、糸が示し、ファルルスがしっかりと視界に捉えた。
逃がさないと言わんばかりに指を動かして糸を操れば、物凄い勢いで夫妻の元へと飛んできて、エディルとランスターの体にそれぞれ巻きつき、隠れていたのを思いきり引きずり出した。
「きゃぁぁぁぁぁ!!!!」
「うわぁ!!!!」
「お父様!!お母様!!……っ、何という酷いことをなさるのですか!?」
ベアトリーチェの抗議の声と視線を向けられても、ファルルスは動じることはなかった。そんな視線を向けられたところで痛くも痒くもない。
「あら、貴女のご両親から本当のことを聞いたら、知りたくなかった真実と本音を嫌でも受け入れるしかないでしょう?」
ファルルスは一連の報告書を見てから、この国の王族、貴族全てに対して容赦などしてやらないと決めていた。
ティミスの大切な宝物であり、帝国の至高の宝でもあるナーサディアの、優しい心を踏みにじり、影へと追いやって、張本人達は陽だまりで笑っていたのだ。もしもナーサディアが宝石姫でなくとも、一人の母親として、女性として許すべきではないと思っていた。
そうやって一人の少女を犠牲にして、笑い物にして、生贄のようなものにしているのだから、国や人として色々なものが破綻していると言わざるを得ない。
「わ、わたし、は、お母様やお父様が、ナーサディアは…、ナーサディア、を…」
「ご両親からどう聞いていたのか、わたくしはどうでもいいの」
「なら、何を…」
「ここにいる方々に、真実を教えてさしあげたくて。くだらない見栄のために、犠牲になってしまった幼い令嬢のお話を、ね」
知られれば、全てがひっくり返る。
それを話されては、エディルが今まで築き上げてきた何もかもが崩れ去る。
だが、いつかはバレてしまうのだ。どうやって隠していても、人の口を全て塞ぐだなんてできないのだから。
ティミスは、別に皇帝夫妻を呼ぶつもりはさらさらなかった。帝国に戻れば謁見するように手配していたし、報告書もきちんと送っていた。だが、報告書を見た皇帝夫妻の怒りがとんでもなく凄まじかったというだけの話なのだ。
それだけ宝石姫が、大切にされているということ。
だが、ベアトリーチェはどうしてもその事実を認めたくなかった。心のどこかで、長い間双子の片割れを見下し続けていたのだから。それを嫌でも今、無理矢理に思い知らされた。
ハミル侯爵夫妻は、己がしてきたことを公の場で暴露されるだなんて想像すらしていなかっただろう。
自分たちを引きずり出したファルルスは優雅に微笑んでいる。その微笑みの迫力に負け、引きずり出された格好のまま動けない夫妻の元にベアトリーチェは駆け寄っていたが、ナーサディアは動かなかった。
「……ナーサディア……っ」
「先に私を切り捨てたのに……何をそんなに必死になっているの?」
あまりに冷えきった言葉に、ナーサディア以外の家族三人はようやくここで思い知った。
いくら名前を呼んでも、情にすがろうとしても、もうそんなものを持ち得ていないナーサディアには何も届くことはない。
しばらく続きます……。