怒りの大きさ①
起きて、メイドが用意してくれた程よいぬるま湯で顔を洗い、化粧水や乳液をつけて肌を落ち着かせる。少しずつ当たり前になったティミスと同じテーブルでの朝食の時間や、食べ終わってからの食後のお茶の時間。塔にいた時には考えられない程の穏やかな時間と、驚くほどに落ち着いている気持ち。
あぁ、ようやくここから居なくなれるのだと、ナーサディアは安堵の息を零した。
本邸から追いやられたあの日からずっと一緒に居てくれた皆も一緒に居てくれる。そして、自分のことを救い出してくれたティミスとも、一緒に居られる。
この国の民ではなくなることの嬉しさが、自然とナーサディアの表情を明るくしてくれた。
髪の色も目の色も、かつての己のものではないけれど、どちらかと言えばこちらの方がしっくり来て馴染んでいる。
手の甲にあるダイヤモンドを一度見て、祈りを捧げるように目を閉じ、額に当てた。
「…ありがとう。あなたのおかげだよ」
目を開き宝石に微笑みかけると、応えるように少しだけ光を放ってくれたように感じた。
「……支度、しなきゃ」
メイドにお願いして、昨夜のドレスの試着の時とは比べ物にならないくらい、丁寧に髪も結わえてもらう。
健康状態に問題はなかったのだが、顔色を良く見せるための頬紅を入れてもらい、少し赤みの強い紅を引いてもらった。
あまりケバケバしくならないよう、なるべく控えめに化粧を済ませ、贈り物の宝飾品を全て身に付け、最後に扇を手にする。
シンプルながらも華やかに見えるデザインで、ナーサディアはすぐに気に入った。
白で統一された衣装と、光が当たる度にきらきらと光り輝くダイヤモンド。動く度に光を反射して光り輝き、ナーサディアが光を纏っているかのように見える。
ティミスが低いヒールの靴を用意してくれていて助かった、と思う。
あまり長距離、長時間歩いたり立ち続けたりしているのには慣れていないため、限りなくヒールの低い、もしくは無いものの方が履き慣れていた。
身支度を済ませてティミスと合流すると、彼からすい、と手が差し出される。
「さぁ、お手をどうぞ。僕の……いいえ、わたしの宝石姫」
「…はい」
自然と微笑んで差し出された手のひらに己のそれを重ね、並んで歩きだす。
ティミスに導かれるままに、謁見の間へと。
扉の両隣に立っている兵士に目配せをして、重厚な扉がぎぎ、と開かれる。
ナーサディアが予想していたより遥か多くの貴族たちが、ずらりと立っており伺うような目線を寄越してくる。
「……ふぅん、よくもまぁこれだけ集まったものだ」
「ティミス、さま」
「大丈夫。そのまま堂々としているんだ」
小声で、決して周りに聞こえないように2人は声を限りなく小さくして囁き合う。
周りの貴族がナーサディアには気付いているのかいないのか、よく分からない。というのも、まずナーサディアの髪の色が違うことが原因の一つであるだろう。
ヴェールから覗いている長い髪は、以前とはまったく異なる色。ティミスに引かれながらゆっくりと歩く彼女に対して向けられる目の色は、多種多様であった。
こつ、こつ、とヒールを小さく鳴らして歩き、国王夫妻が座る玉座の前までやってくると、立ち止まって腰を折りお辞儀をした。
「宣言通り、彼女は我が帝国に連れていく。異論は無いですね?」
「う、む」
苦い顔をする国王を、ナーサディアはヴェール越しにじっと見る。どうしてあんな顔をするのか意味が分からない。
今更何を言う必要があるのだろうか、と考えていたが、ちらりと視線を移動させ国王夫妻より少し離れている位置に座る王太子と王太子妃が居た。
あぁ、そこに居たんだね、と内心で己の片割れに声をかける。その声は届かないが、何やら訴えかけるように両手を祈るように握ってこちらをじっと見ていた。
「…ナーサディア、お別れを言う?」
声をかけられ、はっとしてティミスを見上げる。
そして、国王夫妻に改めて視線をやるが、特に何かを言いたいという気持ちは湧いてこない。が、体裁を整えておくために必要なのだろうか、と思って頷いておいた。
「そうか」
ティミスが穏やかに微笑んでいてくれるから、勇気が貰える。…といっても、目の前に居る人達が別に何か助けてくれたわけでもないので、ナーサディアはティミスから一度手を離してお辞儀をして口を開いた。
「もう、戻りません。…さようなら」
ありがとうも、お世話になりましたもない言葉に、貴族はザワついた。宝石姫だからと無礼を働くのか!と怒鳴り声が聞こえてくるが、冷静なままナーサディアは続ける。
「私の家族だった人を、よろしくお願い致します」
しん、と静まり返る。
淡々とした口調に、貴族達は『こんなはずでは』、『どうして惜しまない』など、意味のわからないことを口々に言っているが、ナーサディアは再び下がってティミスの手を取る。
まるで、『お前たちの傍になど居たくない』と言わんばかりに。
「…っ、ナーサディア!!!」
静まり返った広間に、ベアトリーチェの悲痛な声が響く。
「ねぇ、考え直して!また!皆で暮らそうよ!…っ、そうだ、私と一緒にいよう?ね、それがいいよ!」
「………」
「ナーサディア!!」
「…………、……、………」
「え、な、何?ナーサディア、なぁに?」
ベアトリーチェの悲痛な声に貴族達がつられて悲壮な表情になるが、国王夫妻は『余計なことをするな』と言わんばかりに顔が歪んでいるのには気付かないようだ。
そして、ティミスとナーサディアの空気は、揃って氷点下へと。
ナーサディアがぽつりぽつりと呟いた言葉を拾っていたティミスは笑いが隠しきれずに慌てて手で顔を覆った。
「な、ナーサディア、聞こえないよ」
慌てて駆け寄ってくるベアトリーチェをヴェール越しに見据え、ナーサディアの手を取ろうとしてくる彼女の手を振り払って、よく聞こえるように先程よりも少し大きい声ではっきりと、言った。
「私、もうあなたの影姫などではないわ。モノ扱いするために置いておきたいのね」
「………………………え?」
「いつも陽だまりの中にいらっしゃる王太子妃のあなたにはわからないよね」
「…ま、まって、ナーサディア…」
「私を助けてくれたのはティミス様だけ」
「……っ」
「さようなら、王太子妃ベアトリーチェ様」
冷たく言い放たれて、ベアトリーチェはポロポロと涙を零すが、ナーサディアは何も反応しない。
王太子が慌ててベアトリーチェを戻そうとするが、頑なに動こうとしなかった。それどころかティミスを睨みつけ、ナーサディアに対しても掴みかかろうとしている。
「ベアトリーチェ!やめるんだ!」
「止めないで!返して!ナーサディアを返してよ!ナーサディアはそんなこと言う子じゃなかったのに!……っ、そうよ、こんなのナーサディアじゃないわ!偽物!!」
怒鳴りつけた内容に王妃の顔は顔面蒼白になる。
ベアトリーチェを止められなかったこともそうだが、色々なことの対応が遅すぎることに失笑しかできなかった。
「………ナーサディア………偽物だって」
「良いではありませんか。偽物がいなくなるのですから」
呆れたように言うナーサディアと、笑うティミス。何がおかしいのかと彼を睨みつけるベアトリーチェを押さえつけるアルシャークという何とも形容しがたい様子に集まっている貴族はざわめいていた。
普段は穏やかに、美しく微笑みを湛えている王太子妃ベアトリーチェが、あそこまで取り乱した様子は見たことがなかった。
それほどまでに引き離されたくないのだと思えば麗しき姉妹愛なのだが、真実を知るティミスと、何も助けられたことのない本人であるナーサディアは、冷めきった眼差しを向ける。
ぜぇはぁと肩で息をするベアトリーチェだったが、何も動じていない己の片割れを恐ろしいものを見るかのように見つめていた。
「っ、どうして…、何も言わないの…」
「………」
「ナーサ!」
「………」
「どう、してぇ…?…どうしてよぉ…」
王太子妃として常に淑女たれ、と言われていたベアトリーチェが泣き崩れ、その場に蹲るのだがナーサディアはそれでも動じなかった。
何も言わないし、寄り添わない。
これを見ているハミル侯爵夫妻は、自分たちの目が信じられなかった。
あれだけ仲の良かった二人なのに、今こうして目にしている姉妹二人の、あまりの温度差に父であるランスターは体が震えた。
ナーサディアは、ベアトリーチェにあそこまで言われて何も感じていないし動じていない。
「何故だ…ナーサディアよ…」
思わず口を衝いた言葉に、エディルは泣きながら首を振る。
「あの子、…は、…わたくしたちのことが、必要ない、のよ…」
「そん、な」
ひっく、としゃくりあげながら泣くベアトリーチェを見ていることに飽きたのか、ナーサディアは視線をティミスへと移した。
「ティミス様、行きましょう。お別れはもう終わりました」
「うん、そうだね」
ふふ、と笑うティミスと、静かな雰囲気のままのナーサディアに、今すぐ去られてはならないと、ベアトリーチェは手を伸ばした。
だが、掴んだのはナーサディアが身に着けていたヴェールのみ。
ぐっと掴んだことで、共に着けていたティアラも引かれ、あわせて髪も引っ張られてしまう。
「い、…っ」
ティミスの怒りが瞬間的に膨れ上がる。
ベアトリーチェに殴りかかろうとしたが、謁見の間の扉が開いて入ってきた人物を見て、すぐさま冷静さを取り戻した。
「……この国の王太子妃如きが、我が国の至高の宝である宝石姫に何をしているのか」
「流石、幼い令嬢を虐げ続けたお国ですこと」
かつん、かつん、と、歩いてくる二人を見て、貴族達が慌てて礼を取る。
カレアム帝国の皇帝と皇妃が来るなど聞いていない、と国王夫妻は慌ててティミスを見るが、彼らの目は怒りに満ちていた。
「…我が子、並びに宝石姫へと働いた無礼、どのように落とし前をお付けになるつもりかしら…ねぇ」
皇妃が笑い、王妃が玉座から崩れ落ちる。
土下座をしようとも、全てを知られている相手が容赦などしてくれるわけがないのは、分かりきっていた。




