当たり前に愛されていたから、
どうして、と彼女は泣いていた。
愛されるべき存在、奇跡の存在、色々な呼び方で彼女は呼ばれていた。そんな彼女は、ただ一人の存在を想い、泣く。
己の双子の片割れ、ナーサディア。
幼い頃はあれだけ一緒に遊んで、共に笑い、共に泣いて。何をするにも一緒で、離れることが嫌だったのに。
「ねぇ…どうして…?」
ベアトリーチェは気付こうともしない。
己がいかに温かく幸せで平穏な楽園にいたのか。反対に、ナーサディアがどれほどの地獄にいて、ずっと耐えてきたのか。
愛されることが当たり前で、平穏な…ベアトリーチェからすれば王太子妃教育を受けている間は、厳しく指導されることもあっただろうから平穏ではなかったのだろうけれど、でも、頑張っている彼女を皆が常に愛してくれた。
父も、母も、使用人たち。そして、己の婚約者になった将来の国王たる王太子も。
知ろうともしなかった。
ナーサディアがどれだけ孤独を味わい続けてきたのか、など。
「ナーサディア…!」
彼女も無責任に、ただ、泣く。
『許してほしい』と願いながら、しくしくと泣いていれば周りが手を差し伸べてくれるから。
その『周り』に片割れがいなくなったのは、いつだったのか思い返しもしない。
────────────
ティミスは、最新の報告書を読みながら忌々しげに顔を歪めた。それは決して、ナーサディアの前では見せない表情。
己の大切な宝物の半身が、まさかこれほどまでにどうしようもない思考回路を持っていただなんて。
護衛騎士が呟いた『王太子妃もある意味被害者』という言葉を聞いたティミスは激怒した。
「…本気で言っているならば、今ここで、すぐにでも僕の護衛騎士を辞めてくれないか」
淡々と、怒りを込めた口調で吐き捨てれば、若い護衛騎士は慌てたように姿勢を正す。
「で、ですが!王太子妃は宝石姫様の置かれた環境を隠し続けられていたのですよ?!」
「知ろうともしなかったんだよ。…愛されることが当たり前の、顔だけはナーサディアと瓜二つのあの悪魔は…父母を問い詰めすらしなかったのに?」
「それ、は」
「物心ついたばかりの幼子ならともかく、自分で考えることのできる歳の令嬢が! いくら王太子妃教育が忙しくなろうとも、ただ一人の姉妹が本邸から別離されて、まともに社交の場にも連れていかれず、まして連れていかれたとしても好奇の目に晒され続け、虐げられ、嘲笑われている間、あの女がどうしていたのか、お前は知らないわけではないな?!」
「…………っ」
その間、ベアトリーチェは父母や周りの大人と楽しく談笑し、美味しいものを食べ、ダンスを楽しみ、令嬢たちと笑いあっていた。
ナーサディアが泣き叫んでも、助けてと手を伸ばしても、見ようとすらしなかった。
結果として、ナーサディアは色々なものを次々に捨て去った。そうしなければ己の精神を守りきれなかったから。
幼い令嬢が必死に考え、自身の身を守る方法が、それなのだ。
「だから、ナーサディアは諦めたんだよ。家族を。たった一人の大切な、自分の姉妹を。……この国をも」
「そ…、……っ…」
「あれのどこが『妖精姫』だ。…反吐が出る」
報告書を封筒に入れ、自国に持ち帰るための荷物の中へと入れる。
上辺だけ聞けば、ベアトリーチェは両親からひねくれ曲がった教育を施されてしまった可哀想なご令嬢に見えるだろう。
成長してもそれがあまりに変わらなさ過ぎれば、少しはおかしいと思えなかったのだろうか、と思う。
どうして、何故、と両親に問い正しもしないまま、自分は愛されているから、陽だまりの中で笑っていられるから、それが当たり前だから、『何もしなかった』。
この国もおかしい。
侯爵家令嬢が貴族名鑑に記されていないなど、国の恥とも言えるべき汚点であるはずなのに、誰も指摘しなかった。国の長であっても、父親が王宮勤めの文官なのに、何も、しなかった。
ナーサディアがどれだけ悪いことをしたというのであろうか?何もしていない。
ただ、顔を覆うアザのせいで、それを化粧なり何なりで隠してすらくれなかった、父母の馬鹿みたいにちっぽけなプライドの様な見栄のせいで、あそこまで爪弾きにされ続けた。
唯一の救いは、塔にいた使用人達が、「ナーサディア」という一人の少女の心が壊れないよう、尽くしながら共に居てくれた、ということ。
そのおかげで、ナーサディアは自死も選びかけることもあったが、何とか耐えて生き延びてこられたのだ。いつか、あの塔から逃げ出すために。
そして、今はこうしてティミスという存在に庇護され、慣れていない愛情を注がれている。
砂糖菓子のような甘さのそれを、彼女は与えられることに慣れていなさすぎるから、日々困惑が続いているようだが、カレアムに行けばこれが当たり前の世界になるのだ。
ティミスも、皇子という地位に甘んじることなく勉学に励み続け、自由に動けるという『権利』を手に入れ、皇太子の補佐をしながら己の唯一無二がいつか現れるかもしれない可能性を信じてきた。
その唯一無二が現れ、これまでどれほど両親に大切にされてきたのかと思って調べてみればこの有様。
宝石姫と『成った』から、周りは今更後悔を始めたのだ。宝石姫に見捨てられた国、という汚名は欲しくないからそうされないように、ここに来てナーサディアに構い始めた。
けれど、ナーサディアはもうこの国ごとどうでも良くなっている。それは執事に問いかけたあの様子を見れば明らかだ。
今、ナーサディアは静かに眠っている。
塔にいた頃は悪夢に魘され、悲鳴をあげて飛び起きることもあったそうだが、熱を出して寝込んでいた期間は除き、ティミスに保護されて数日経過しているが、悪夢を見ている様子は無い。
ティミスと護衛騎士が話している内容は、寝室までは届かない。
寝室の入口も、与えられた客間という名の貴賓室も、信頼できるカレアムの騎士が守りを固めている。
「…で、どうするの」
「わたしが…、わたしの考えが、あまりに浅はかでした。お許しを、我が主」
「二度目はないよ」
怒りに任せて彼の首をすぱん、と刎ねてしまうことは簡単だ。だが、それはしたくなかったので、ティミスはこっそりと安堵の息を吐く。
皇帝夫妻には文を出したので、もう少しで帝国からの迎えの馬車がやって来る。
それまで会わせてやる気はないけれど、挨拶くらいは良いか、とティミスはほくそ笑んだ。
手元にある、皇族お抱えのデザイナーに直で連絡できる魔道通信具を取って、スイッチを押す。
程なくして聞き慣れたデザイナーの声が聞こえた。
『お呼びでございますか、ティミス皇子殿下』
「うん。全てを動員して僕の宝石姫に相応しいドレスとヴェールを制作してほしいんだ。締切は明後日。お前なら出来ると信じているよ」
『まぁ…。光栄なことにございます。では、早々に姫様の容姿と雰囲気、それとドレスのサイズは…お分かりになります?』
「分かる分かる、すぐ転送するよ」
小さく開かれたゲートに、ナーサディアの特徴とあちこちのサイズ、そして雰囲気やら何やらあれこれを、これでもかと細かく書き記した紙を置いて転送した。
すぐにこれからとりかかる旨の連絡をくれたデザイナーに、通常の三倍の報酬を振り込むことを約束して衣装制作依頼のための書類を作成し、これまたゲートに放り込んだ。
「さて、と。ただ美しいだけの姫と僕の愛しい宝石姫のどちらが美しいのか…。そこから、しっかりはっきり知らしめてやろうかな」
上機嫌になって、ティミスはその日の業務を深夜まで行ってからもう一部屋あった寝室へと向かい、眠りについた。