目が覚めた宝石姫
ちち、と小鳥のさえずりが聞こえる。
発熱時特有の体の熱さ、重たさ、耳鳴りがしているような…もわもわとしたあの感じが消えていた。ただ、寝過ぎていたせいか、背中と腰がひたすら痛んでいる。そういう意味では体は大変に重いし、辛い。
「ぅ…」
肘を突いてのろのろと体を起こす。
ずっと湯浴みもできていないことや、汗をたっぷりかきすぎていたせいで、髪もベタベタしている。
「……けほ、っ、……ぁ…」
うまく喋れないが、サイドテーブルに置かれていた水差しに手を伸ばしてグラスに注ぎ、冷たく心地よい水をゆっくり飲み干した。
「……あれ……?」
傍に居てくれたはずのティミスがいない。どこに行ったのだろう、とナーサディアはきょろきょろと周囲を見渡すが、自分付きのメイドもいないことに気付いて、不思議そうに首を傾げる。
日の高さからすると、恐らく昼過ぎ、だろうかと予測をしてみる。だが、よくよく見てみると時計がないので正確な時間が分からない。
「……どう、しよう」
ここは王宮なので、迂闊にちょろちょろと出歩く訳にもいかないのは理解しているが、このままでずっとぼんやりしていても何もできない。
魔法の鍛錬は行っているので、少しだけ気配を辿ってみようかと思うが、何となくそれは辞めておいた。
熱で意識ははっきりしていなかったが、双子の片割れ…もとい、王太子妃のベアトリーチェの声を聞いていたのはうっすら覚えている。自分が魔法を発動した時、彼女がもしそれを感知してしまえばここにやってくる。それを考えると身震いしてしまった。
早く、ティミスに戻ってきてもらいたいと、心から願う。
ナーサディアが固く閉ざした心の扉にするりと滑り込み、全てを解放したわけではないけれど、ティミスはナーサディアから本音を少しでも聞き出すことに成功している。熱に浮かされた状態ではあるが、心からの欲までも聞き出しているのだから。
それを聞いた側仕えの者達は皆揃って喜んだ。
ずっと、心を押し隠して生きてきた幼い主が、ようやく笑えそうなまでに進んでいるのだ。塔に閉じ込められる前のように、軽やかに楽しく笑って、出来ることならばもっともっと外の世界を楽しんでもらいたいと、そう思っているのだ。
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「遅くなっちゃったねぇ」
「申し訳ございません、皇子殿下」
「君達が謝る必要はないよ。これは僕のワガママだ、ナーサディアに塔で着ていたようなあんな粗末な服を着せたくなかったんだからね。きっとナーサディアは何を着ても似合うね!ふふ、楽しみだなぁ」
ナーサディアの服やドレス、靴のサイズが分からないから、とティミスは彼女付きのメイドを連れて外出していた。外出を一応報告したら案の定ベアトリーチェから『ナーサディアは私もサイズが同じなのだから』と主張されたが、どこからどう見てもナーサディアの方が小柄というか、華奢だった。だから、彼女の体躯に合うサイズの服を買う必要があったのだ。
荷物持ちとして自身の護衛騎士と老執事も同伴していた。他の世話係は塔の片付けを済ませてくる、と言ってたまたま全員揃って外出してしまったのだった。
勿論、部屋の入口にはカレアム帝国の騎士を常駐させているので、妙な輩は入れない。
「多分、ナーサディアはそろそろ起きると思うから…戻ったら着替えとか湯浴みをさせてあげてくれるかい?」
「かしこまりました」
「それと、胃に優しいものの用意もしないと…………おっ」
「ティミス殿下?」
「僕先帰る!ナーサディアが起きた!」
「殿下!お待ちください!!あ、ちょっと殿下!!そうやって人の話を聞かないのは良くないってご両親にも常々お叱りを受けていたでは、って、あー!!!」
何やら察知したらしいティミスは、そこに居る三人を置いて一人転移魔法で一瞬で王宮へと戻った。
護衛騎士が止めたものの、基本的に今の彼はナーサディア第一主義なので、まさに暴走機関車状態。がっくりと項垂れた騎士に執事とメイドが深深と頭を下げた。
「も、申し訳ございません…」
「すみません、私がこんなにもお時間かけなければ今頃既に王宮に…」
「お二人は謝る必要ないですからね?!殿下の暴走のせいですから!!……全くもう……」
ナーサディアが寝込んでいる間、カレアムからやってきた騎士達と、塔にいた使用人達はすっかり打ち解けていた。
「ティミス皇子殿下は、ナーサディア様のことを本当に慈しんでくださっておられますね…」
「本当に…。ナーサディア様があんなに打ち解けているだなんて…」
「え、宝石姫様、あれで打ち解け始めてる方なんですか?!」
「……えぇ」
老執事とメイドは、揃って眉をひそめる。
調べたのでナーサディアの過去はある程度把握してはいたが、あくまでそれは書類上で分かること。
二人の顔を見れば、いかにナーサディアが今まで心を閉ざしてきていたのかはわかるが、一体どれほどまでなのかと息を呑んだ。
「…見た感じ、ですが…。皇子殿下に対しても少し……うーん、遠慮している、というか…」
「遠慮はしていらっしゃいますが、それでもご自身のしたいことは仰っていらっしゃるでしょう?」
「あぁ、確かに。……ん?」
「ナーサディア様は、幼い頃、顔のアザが原因であの塔へと追いやられました。ベアトリーチェ様はその真の理由はご存知ないのです」
え、と素っ頓狂な声が出てしまい、慌てて咳払いをした。
つまり、それは。
「まさか…ベアトリーチェ妃は、親のいうことをそのまま信じて、今に至っている、と…?」
「はい。あのご夫妻は、ベアトリーチェ様をそれはそれは可愛がっておいででしたから。親のいうことに間違いはないと、…恐らく、今でも思っていらっしゃいます」
「ある意味、王太子妃も被害者ではある、のか…」
ナーサディアと同じ顔、同じような体格。
違うのは顔を覆っていたあの痣のみ。
それの有無だけでそこまで態度に差が出るものなのかと思っていたが、『妖精姫』という名を冠したほどの美姫である侯爵夫人と、彼女を当時射止めたままの端正な顔立ちの侯爵を思い出すと何故だが納得してしまった。
幼いナーサディアがパーティーでバカにされても、罵られても、怪我を負わされても彼らは助けなかった。美しいベアトリーチェがいれば、それで良かったのだから。
だが、宝石姫として覚醒したことで顔のアザはすっかり無くなり、髪も目の色も変化したナーサディアはベアトリーチェが霞むほどの神秘性と美しさを兼ね備えた美姫へと変貌していた。
ただ少し見た目が変わるだけで、あれほどまでに変化するのかとティミスも驚いていたほどなのだ。
「ある日、ナーサディア様は侯爵夫人にひどく頬を打たれ、吹き飛ばされました。…その後からでしょうか。ナーサディア様が、夫人やベアトリーチェ様、旦那様に極端に冷めた目を向けられるようになったのは」
「あー…。多分その頃に覚醒されたんですね。そして、己の主を守るために宝石が嫌なものを考えるという行動そのものを阻害でもしたような…そんな感じ、ですね…」
「そうすると、夫人はまた大層お怒りになられました。…おもしろいものです、己が先にナーサディア様を突き放したというのに」
「奥様のあの態度は、あんまりです…!」
当時を思い出したのだろう。
メイドの目にはじわりと涙が浮かび、執事も苦々しい表情になっている。
報告書でしか見ていないが、実際の現場をこの二人はずっと見てきた。だからこそ、夫人たちの行動や言動に対しては怒りを覚えているのだ。
「大丈夫ですよ、もうすぐカレアムから正式な迎えがやってきます。そうしたら、皆揃ってここを去りましょう」
「えぇ…そうですね」
うんうん、と頷くメイドと、ようやく柔らかな雰囲気を取り戻した執事は微笑む。つられるようにして、騎士も笑った。
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「ナーサディアおはよう!目が覚めた?!体はどう?!もう元気?!」
王宮のナーサディアの部屋へと転移したティミスが開口一番、大変元気よく挨拶をした結果、いきなり人が現れて驚いたナーサディアは手にしていた水の入ったグラスをぼとりと落とすわ、驚きのあまりに飲んでいた水が妙なところに入って噎せこんでしまうわ、軽い騒ぎになってしまった。
また、執事たちとは別行動で塔に戻っていた使用人達がちょうどいいタイミングで戻り、げほごほと咳き込むナーサディアを必死に看病しているティミス、という何とも不思議な光景を見てしまい、全員が硬直したのは言うまでもない。
「ティミス殿下ーーー!!何してるんですか!!」
そして、大量の荷物を抱えて戻った騎士に、ナーサディアが湯浴みをしている間、こっぴどく叱られたのも、言うまでもない。
嵐の前の静けさ、もう少し続きます。