悪夢は終わる
酷い高熱のせいか、ナーサディアは嫌な夢を見ていた。
『どうして、…どうしてお前はそんなに醜いの…!』
やめて、おかあさま!
そう叫べば叫ぶほど、母の声は大きく、鋭くなっていく。
『お前が邪魔をするから!』
誰の邪魔もしていない。何も悪いことはしていない。
酷い時には折檻もされた。
頬を打たれ、突き飛ばされ、近くにあるテーブルにぶつかり花瓶が割れて水がナーサディアにかかりずぶ濡れになろうとも、母も父も、構いすらしてくれなかった。助けてくれたのは、塔でも世話になった老執事だけ。
両親はベアトリーチェが同じ目に遭えば、過剰なまでに世話を焼き大切に慈しみ、優しく振る舞ってくれるのに。
部屋で泣いていると、侍女がやって来て頬を打たれた。
『お嬢様、メソメソしないでいただけませんかぁ?』
『そうですよ、ただでさえ気持ち悪いアザがあるのに…せめて雰囲気だけでもお綺麗で、華やかにいてもらわないと』
『ま、辛気臭いお嬢様には無理でしょうけどねぇ』
『あっははははは!!!言えてるー!!!』
いつも、何をしていたとしても嘲笑い、バカにされる。
時として水を頭からかけられ、『ほぉら、こうしたら泣いているだなんて分かりませんよぉ?』と更に小馬鹿にされ笑われた。
ベアトリーチェと比較され、アザのせいで気持ち悪いと何度言われ続けただろうか。
やめて、と泣くことで更に彼女達の嫌がらせは酷くなった。
泣いても綺麗じゃない、化け物が泣いた、と小さい分別のない子のように笑われて更に叩かれる。蹴られる。
顔のアザがあるから、何を言っても良いのだろうか。
もう、こんなものがあるくらいなら死んでしまった方が良いのかもしれない。
何度、そう思ったことだろう。
首筋にナイフをあて、「さぁ、後は思い切り引けば楽になれる」そう思ったのに、それすら満足にできない自分の弱さにまた泣いた。
泣いて、泣き続けて、それでも泣いて。
いつか枯れてくれると思っていた涙は、生憎枯れることはなかった。
本当は心の中では誰かにずっと、助けを求めていた。
声に出すと殴られるから、聞こえなくても良い。ずっと、ただひたすら願っていた。
そうしている内に心なんて凍りついてしまったのだとばかり思っていたのに、助けに来てくれたティミスの手はどこまでも温かく、ナーサディアをあまりに呆気なく受け入れてくれたのだ。
『大丈夫だよ』
『怖くないよ』
『君は、何も悪くないんだからね』
優しい言葉の数々に、抱きしめてくれる優しく暖かな腕。
塔にいた使用人たちも、皆優しくて、それが夢でないことを確かめなければいけないのに、目を覚ますことができない。
瞼が、重い。
体が、熱い。
呼吸をする度にぜぇぜぇ、ひゅうひゅうと喉が鳴る。
嫌だ、死にたくない。
この国から出られるのだから、絶対に生き延びてやるんだ、と。
ナーサディアは自分自身に強く言い聞かせる。
熱なんかに負けていられない。
けれど、思っていたより熱は高いらしく、なかなか引いてくれる気配がない。
どれくらい眠り続けていたのだろう。
ようやく重かった瞼が持ち上がるようになり、うっすらと開けば視界に入ってきたのは豪奢な天井と天蓋。
「…………………?」
ぼやける視界の端にひょこりとこちらを覗き込んでくる影があった。
「…ナーサディア…?」
「てぃみす、さま」
舌がうまく回らなかったが、それでも名前だけは呼べた。
どうして、彼は泣きそうな顔をしているのだろうと、そう思いナーサディアは力の入らない手をぎこちなく持ち上げた。
「…だい、じょ、ぶ…です、よ…」
「……っ」
「てぃみすさまと…このくにから…でるんです…。ねつになんか…まけて、られ、な…」
最後まで言えずに、力が抜けた手はパタリとベッドに落ちた。
まだまだ下がらない熱に、ティミスは焦る。
熱冷ましを飲ませても下がるのはほんの少し。
熱が出たあの日から、ナーサディアは丸々一週間もの間、ずっと寝込んでいた。
調べれば調べるほど、ナーサディアに対する鬼畜としか言えない扱いが山ほど出てくる。
ただ、顔のアザがあるだけであそこまでのことができてしまうほど、彼らは自分たちの容姿に自信を持っていたのだろうな、とティミスはため息を吐いた。
社交界の妖精姫という名は伊達ではない。
それほどまでに神秘的な美しさを持つハミル侯爵夫人とその娘、ベアトリーチェ。
無論、ナーサディアも美しいのだが、彼女たちと違ったのは顔のアザのみ。
さぞかしそのアザが醜く見えたのだろう、とは思う。だが、血を分けた己の娘にそこまでできてしまうのは、最早畜生としか言えない。
「……奥の手を使うかな……」
こっそりとカレアム帝国から持ち出していた万能薬。
宝石姫が祈りを捧げることで稀に生み出される、特殊な宝石。『精霊姫の雫』と呼ばれるそれは、飲めばたちまち何もかもを治す力があると言われ、カレアムでも秘宝に分類されていたのだが…。
「後で怒られるのは百も承知。僕の姫を助けることが第一!」
ぐっ、と拳を握って一粒だけ忍ばせていた『精霊姫の雫』を、冷えた水に溶かした。
あっという間に溶け、溶かした水は少しだけ虹色になり、不思議な光を放っていた。
「…飲ませる方法がなぁ…」
確実に飲ませるならば口移し。
だが、意識が朦朧としているナーサディアにそれをしてもいいのかと葛藤していたが、元気になってもらうことを優先とした。
背後に控えていた護衛騎士の方を振り返って、にっこりと満面の笑顔を向けた。
「お前、ちょーっとだけ後ろ向いてて」
「はい?」
「早く、ほら」
しっしっ、と手を振って渋々ながらも視線を外してくれたのを確認してからグラスの中の水を口に含んで、ナーサディアの顎を少し持ち上げる。
そして、少しだけ口を開かせて互いの唇を合わせた。
慎重に、零さないように少しずつゆっくりと、流し込んでいく。
水分を欲していたらしいナーサディアは、こく、こく、と流し込まれるたびに嚥下していった。
それを見て安心したのか、残りの水も同じように飲ませていって、じっと様子を観察する。
白い光がナーサディアをふわりと包み、悪かった顔色はピンクの血色の良さをみるみる取り戻していく。
荒かった呼吸は、少しずつ規則正しい呼吸へと。
熱で赤らんでいた頬も、健康的な赤さになっていく。
「良かった…」
己の大切な存在が回復していく様子を見て、じわりとティミスの目に涙が浮かんだ。
「ナーサディア、後はそのままぐっすりおやすみ。…もう、怖いことなんか何にも無いよ。君を虐げた奴らは…僕が、………カレアム帝国自ら罰を与えよう」
きっとナーサディアには見せない、歪んだ笑顔でティミスは言葉を続けた。
「侯爵家も………王太子妃も、君を救わなかった使用人たちも…馬鹿にした奴らも………何もかも、後悔しても…もう、遅い」
何度もやってくる侯爵夫人と王太子妃を追い返すのもそろそろ飽きてきた頃合だ。
コンコン、と控えめにノックが響く。
対応した護衛騎士は困り果てた様子でティミスを見て、目配せをした。
どうやら今日は王太子妃と王太子がやってきたらしい。
「…いいよ、僕が出よう」
ナーサディアを起こさないように静かに移動して、細く開かれた扉から、体を滑らせるようにして外に出た。
怯えたようなベアトリーチェと、彼女を守るようにして王太子がそこにはいた。
「ティミス皇子殿下。…そろそろ、ナーサディア嬢に会わせてあげてくれないか?ベアトリーチェが不安を訴えているのは貴方の元にも届いていると思うんだが…」
「体調を崩しているので御遠慮申し上げておりますが」
にこやかに一刀両断で断る。
だが、今日は王太子を連れてきている分、ベアトリーチェは食い下がった。
「体調を崩しているからこそ、家族のわたくしがお見舞いしたいと思ったんです!」
「まともに目も開けない相手を見舞うと?」
「そ、それは…」
「彼女はカレアムの至高の宝となる存在だ。そして、彼女が望まない限りは会わせることはできないと、何度も説明をしましたよね?」
「…でも…っ!」
「………己の不安を取り除くために、倒れた人に無理をさせるなら………外交問題として取り上げても構いませんが」
低い声に、さすがの王太子も王太子妃も、顔色を悪くした。
「どうぞ、お引取りを。目が覚めたら会いたい人をきちんとナーサディア自身に選んでもらいますから」
冷たい、冷酷な笑み。
温度の限りなく低い声で告げると、ふらつくベアトリーチェを支えながら二人はようやく部屋の前から去ってくれた。
「……急がないと」
ナーサディアが目を覚ましたら聞かなければならない。
何が必要で、何が不要なのかを。