第二話『生きているって素晴らしい』
人間生きてさえいれば丸儲けってなもんでして、エエ……
死んだ筈の私の肉体が、耐えがたい苦痛を訴える。私は訳の分からない言葉を叫びながら飛び退いた。包丁とそれを持つ手が揺さぶられ、反動で銀色の刃が私の胸を一直線に切り裂いて、男を飛び越えて行った。更なる痛み。もう悲鳴を上げることすら出来ない。
消火器が入った入れ物に背中をぶつけ、そのまま廊下を転がる。身体に突き刺さっていた異物は無くなったが、痛みは消えない。……死ぬほど痛い。
しかし奇妙なことには、そんなことを考えられる程度には私の意識は鮮明であった。
「ころがり出ろ……ころがり出ろとおっしゃる。きかねえのか、てめえはきかねえのか」
スーツの男は苦しむ私には目もくれず、相変わらず訳の分からないことを呟きながら踵を返した。落ちた包丁を拾おうとしているようだった。
逃げる機会は今しかない。でも、あんなに深く包丁で刺されてしまった。血も出ているに違いない。こんな状態でまともに動けるはずがない……そんなことを考えながら、私は立ち上がった。気が付かぬうちに、立ち上がっていた。
「立って物を言え、立って、立って物を、を、」
「っ!」
あの男が再びこちらを見ている。私は矢も楯もたまらず一目散に逃げ出す。痛みはますます酷くなるような気がするし、身体は若干ふらついていたが、それでも彼と距離を取ることが出来た。
さっき上ってきた階段まで辿り着いて、月の光が差し込むそこを一目散に……駆け下りようとしたところで、足音に気が付く。
──ハオ……ハオ……
私を付け狙っている男の声とは違う方向。下の階から、誰かが駆け上がって来る音。誰かは分からなかったが、こちらに気が付いた上でここに来ようとしていることは明確に思えた。
私を助けに……なんて楽観的に考えられる程、切り裂かれた精神に余裕は無く、私は上の階に続く階段へと進路を変える。そうやって私を狙っている人間から逃げられるかなんて分からなかったが、それでも這いずるようにしてその場から逃げ出す。上へと繋がる道を、月明かりだけを頼りに一歩一歩進んで行って、何度も転びそうになって……最後の場所に辿り着いた。
刺された部分を左手で庇って、荒い息をしながら見たのは、開け放たれた一枚の扉。酷く覚えのある光景だった。
この学校には五階までしかない。五階から更に上る階段を使えば、そこにある場所はたった一つ……屋上だ。
何時間前かは定かではないが、確かに私は今日ここにやって来て、教師が帰った後に拝借した鍵を使って扉を開き……飛び降りて、死んだ。その場所に、私は再び立っていた。
扉の前で呆然としていたのは一瞬の間。我に返れば、後ろからあの不気味な声が再び聴こえてくる。私は背中を押されるようにして、ゆっくりと扉を潜った。
屋上に立つ。
高い緑色のフェンスでぐるりと囲われた屋上。目の前には、前見たよりも少しだけ場所の変わった。大きな満月。それ以外には何かの室外機しかない、殺風景な場所だ。降りるための階段は、さっき使った一つしかない。行く当てのなくなった私は、しかし歩みを止めずに、ふらふらと月の光る方に進んでフェンスの前に立った。かつての自分と同じようにフェンスの前に立って、月をぼうっと見つめた。
気が付けば、胸の痛みは引いていた……と思ったら、また少しだけ痛み始めたけれど。そこで改めて自分の身体を見てみれば、身体どころか服にすら傷一つついていない。服は死ぬときに着ていた制服ではなく、ネクタイ付きの喪服のスーツだった。一度親戚の葬儀の時に着ていたものだ。
私は死んでいると、その時ようやく実感した。
私の身体の異常も、この学校自体の異常も、それを如実に示していたが、何よりも私にそれを意識させたのは音だった。屋上は静かだった。現実ではあり得ないくらいに静かだった。ただ車や人の声がしないという話ではない。自分の鼓動、呼吸、耳鳴り、生きていれば必ず耳にし、しかし意図的に意識から捨てている生きるための音が、何一つ聴こえなくなっていると気が付いた。
さっき刺された時みたいに、ことさら息をしていればその音が聴こえる。しかし一度意識から外してしまえば、初めからそうだったみたいに無くなってしまう。
私は死んでいた。意識と繋がっているはずの肉体が、まるで適当なつくりものに置き換わっていた。
──えええええと……こおおおおつ……
静寂の中に差し挟まれた声で、私は我に返る。傷跡は無かったとはいえ、あの包丁が刺さっているところを思い出し、それだけで胸の痛みがぶり返す。
声は段々と大きくなる。私がここにいる事がばれているのは明らかだった。慌てて屋上を見渡したが、隠れられそうな場所は見当たらない。逃げ道になるような場所もない。
「どうぞご随意に、ご随意に、」
扉からあの男が現れる。右手にはしっかりと包丁が握られている……
その瞬間、私はこの場所にたった一つだけある『逃げ道』のことを思い出した。
振り返ると、相も変わらず巨大な月が私を見下ろしている。私と月との間にあるのは、一枚のフェンスだけ。もしもそこに障害物が無ければ……すぐ一歩先に、逃げ道は用意されていた。
私は死んでいたのだ。鮮明な記憶の中で、このフェンスをよじ登って、逃げたばかり。ちょうど私の足元に置かれていた一足の靴、その下に挟まれた一通の手紙がそれを証明していた。今こうして意識があることだけが、それだけがたった一つの間違い。
なら、もう一度死ねばいいだけだ。
さっきは余りにもリアルな痛みのせいで、思わず逃げ出してしまったけれど。ここからまた飛び降りたって良い。包丁に刺されたって良い。何も悲しむことはない筈だ。
だって、私に未練は無い筈だから。自殺を選んで全てから逃げ出して、何もかもに片を付けてしまった筈だから。
「お前はほかに何か言うことがあるか?」
男の声が近づいてくるのを、今はただぼんやりと感じていた。
これはきっと、私が死ぬ間際に見ているおかしな夢か何かに違いない。フェンスに手をかけたまま沈みゆく月を眺め、ただ来るべき時を受け入れようとする
──本当に、それでいいの?
どこからか声が聞こえた。私の内側から響いてくるようであり、遠く離れたところから投げ落とされているようにも思える声だった。とても聞き覚えがあるような気も、初めて聞いたような気もする声だった。自分の声を録音して、後から聞き直しているかのような、そんな違和感に満ちた声。
気が付くと、目の前には誰か立っていた。フェンスの向こう側、月を背にして、一人の女の子が。私の学校の制服、長い黒髪、そして……まるで絵に描いたかのような美しい顔。月のせいか、全身から淡い光を放っているように見えた。
彼女の口がゆっくりと動く。
──違うでしょう。貴方は死にたいだなんて思っていない。
彼女は優しく微笑みながら、フェンス越しに手を伸ばす。その腕が緑色のフェンスを突き抜け、私の胸に触れた。
──貴方は優しい子。大切な人を置いて逝ったりはしない。貴方は強い子。夢を諦めたりはしない。
例の声は、絶えることなく語り掛けてくる。男の声をかき消して、私の中に入り込んでくる。
「かんじ、ぬすびと……」
私の口が独りでに動いて、意味の分からない言葉を呟いた。それを聞いた少女はまた微笑んで、
──諦めないで。貴方は、私の大切な……
そう言って、月の光に同化するように消えて行った。
私に残ったのは、ただ茫然とさっきの言葉を反芻する心。
そして、フェンスを掴んでいない右手に握られた何か。
「……?」
慣れない感触に右手を持ち上げてみると、そこには黒く細長い物体が握られていた。ぐっと右手に力を籠めれば、右手に冷たい感覚を返してくる。
私はそれを見たことはないが、知ってはいた……拳銃、というやつだ。
まるで英語の『L』をそのまま立体化したような適当な形をしていた。本物の拳銃というには、剣呑さとか、精巧さがまるで欠けた代物。だけど発射口とトリガーらしきものがくっ付いているから、取り敢えず拳銃なんだろうな、と思わせる程度。
なぜこんなものが私の手に? これで何をすれば? そう困惑している意識を、あの声が現実に引き戻した。
「首の無くなある……無くなるのを見てやる、覚えていろ、覚えていろお……!」
慌てて振り返ると、男がもうすぐそばまで手を伸ばしてきていた。このままだと私はまたあの包丁に刺されて、死ぬ……のかは分からないが、痛いのは確かだ。死ぬかもしれない。……そこまで考えて、私はふと心の中で首を傾げる。
どうしてちょっとでも、死んでも構わないなんて思ったんだろう?
死ぬことで幸せになれる筈がない。まして自分から死を選ぶのは愚かなことだ。何の解決にもならない行為だ。何よりも周囲の家族や知り合いに迷惑をかけてしまう。だから自殺は駄目な事だ。言語道断だ。こんな思考が、私の脳を突然埋め尽くして、やがて一つの結論に辿り着く。
……人間は、死んではいけない。
私の右手が、握られていた銃が、ゆっくりと持ち上げられる。まるで誰かに動かされているかのように、ゆっくりと。支離滅裂な詩を朗読しながらこちらに向かってくる男の身体に、照準を突き付けて。
トリガーを引くと、閃光と轟音が一瞬私の感覚を奪い去った。
余りの強烈な感覚に、思わず私は腰が抜けてその場に倒れるようにして座り込む。私が右手に握っていた玩具のようなそれは、私の肩に今まで感じたことのないような衝撃を与え……
数刻の後に顔を上げると、男が私と同じように地面に倒れていた。
朗読は止まっている。右手の包丁は月の光を反射して、ただそこにあるだけだ。
「……死」
死んじゃったの、と言いかけて、口を噤んだ。そう言ってしまえば現実になるような気がして。もしそうなったら、私が殺したという事になるのが怖かった。彼が生身の人間であることは、私のそれと同じくらい有り得ないように思えたが……それでも、さっきまで盛んに動いていた人型を物言わぬ物体にした、ということを直視したくなかった。
私は手にすっぽりと収まった拳銃を見下ろしながら、内省の殻に籠る。
拳銃を撃った時の私は、まるで私じゃないみたいだった。目に見えない力が働いてそうさせたような感覚が、今でも残っている。
そんな考えと同時に想起されたのは、あの女の子。絵に描いたような女の子の声。
私の生を祝福して、夢を応援して、希望を抱かせる。そんな声だった。
「……」
もう死んでいる私に何をさせたいのか? と思う気持ちがないでもなかったが、それでもあの声の言う事の殆どを素直に受け止めていた。
生きているって、素晴らしい事の筈だ。きっとそうだ。そんなことを考えていると、思考が堂々巡りになって……
「……助けてくれ」
あの男がいつの間にか立ち上がって、無防備な私の背中に包丁を突き立てようとしていることに気が付くのにも、完全に遅れてしまった
「……え」
残された貴重な一瞬を、私は間抜けた声を出すためだけに使った。体は動ける体勢ではない。銃を持ち上げるにも時間が足りない。
その瞬間、私に出来たのはただ思わず目を瞑る事だけで……
後はもう、刃が肉を切り裂く音が耳を打つのを認識するのみであった。