第一話『変な地獄』
或いは今でもなお、ミレンの事を覚えている人がいるでしょう。
目を覚ます。
初めに、今が夜だと分かった。ぼやけた視界は一面の墨色、その端に少しだけ端が欠けた月が映っていたから。それから寝惚けた頭で認識した体調は、良いものとは言えなかった。一体どれくらいの間眠っていたのか、寝違えてしまったようで首筋が酷く痛む。他にも体のあちこちが悲鳴を上げていた。隣で寝ている誰かを邪魔しないよう静かに上半身を起こしてから、右手を添えた首をゆっくりと回す。
深呼吸をすると、夏の夜中らしい湿気を帯びた空気が身体いっぱいに広がる。五臓六腑から指の先まで、丸ごと湿度百パーセントに置き換わったように思える程。酸素を得て幾分かマシになった脳は、やっと自分が置かれている状況を認識することまでは出来た。
現状を認識はしても理解することが出来ず、私は硬直してしまった。何とはなしに夜空の月に手を翳しながら考える。人間がテントも張らずに屋外で眠ることは稀だ。私はやったことがない筈だし、やりたいとも思ったこともない。さもすれば誘拐か、何らかの事件に巻き込まれたのか? 混乱して、ふらついた身体が隣で寝転がっている人に当たってしまう。すみません、と反射的に呟いてそちらに目を下して……またしばらくの間思考が止まった。
学校指定の黒いセーラー服、惰性に任せて伸ばしていた後ろ髪、半開きの口から零れ落ちた舌に絡みつく前髪。毎日のように見たことのある顔をしていた。
「……私だ」
声は考えより遅れて出てきた。『学校』という言葉が記憶の端に引っ掛かって後ろを振り返ると、そこには見慣れた白色の校舎の壁がそびえている。それと同時に私はようやく、今まで自分の身に起こった出来事を把握した……否、思い出した。湿気の多い空気を切り裂く感覚、近づいてくる地面、身体の中の固いものが砕ける音、今の自分と繋がっているはずの記憶を、全て。しかし、それら全てが今の自分の状況と噛み合っていなかった。
足元に広がる赤黒い液体に映った月をぼんやりと眺めながら、私は目の前に落ちている“自分”のように首を右に傾け、溜息をつく。余りにも現実感が無い夏の夜に、自分が自分であるということを見失わないために、混乱した脳内を整理するために、心の中で言い聞かせながら。
私の名前は水無月ミレン。
火継高校に通っていた、高校二年生。
つい先ほど、屋上から飛び降りて死んだはずだ……と。
私は自殺した。理由は今更重要なことじゃない。
自分の死にざまを誰かに見せつけたり、騒がれたりしたかったわけでは無かったから、態々学校から誰も居なくなるまで隠れて待っていた。美術準備室の大きな棚に適当に保管されていた生徒の絵画たちの間で、長い間じっと息を潜めて。屋上に繋がる道をスマホのライトで照らしながら一歩一歩進んで行って、何度も転びそうになって、ようやく最後の場所に辿り着く。混乱から抜け出した私の記憶は、その時の感覚を鮮明に思い出すことが出来た。
色々な事があったけれど、これでようやくあの厄介極まりない問題から逃げられる。そう信じていたからこそ、私は頑張った。吐き気を催す腐った絵具の匂いにも、必死で耐えて待つことが出来た。それなのに、不思議なことに私の意識は明確に健在であった。
或いはこれが死後の世界というものか、と考えたが、それにしては辺りの風景が余りにも日常的だった。死ぬ前に見上げたのと同じ形の月。それが照らすのはごく普通の、夜の学校。立地は小高い丘の上なので、近くの住宅街の様子も見通すことが出来たが、街灯は眩しく光り輝いているし、時折車のヘッドランプらしきものが明滅したりもする。非日常的なものと言えば傍に転がっている死体くらいだが、それにしても今ここに限っては当然のもので。
「……っ」
突如、足元から羽虫の群れが這い登るような嫌悪感を覚えた私は、それを振り払うように校舎に向かって駆け出した。
ようやく死を選び取った筈の私の立つ場所が、生きていた昨日までと地続きの日常かもしれない、という事実。それが、私にとって直視することの出来ない恐怖だった。転がっている自分の死体に背を向けて、口を開けている漆黒に飛び込む。
少しだけ冷えた空気が私を包み込み、駆け出した足は早くも止まってしまった。夜の学校は静かだった。ただ物音がしないというわけでは無く、焦りで満ちた私の心が耳に入った音を全て打ち消してしまっているかのようだった。不気味な雰囲気が漂っていたが、それまでだった。
仮に廊下をグロテスクな見た目の怪物が行進し、人魂がそこら中を飛び回っていたのなら、私はいっそ安心できたのだろうが、しかし学校はただ闇をたたえてそこにあるだけだった。私はあるかも分からない何かを求めて、再び足を動かす。証拠が欲しかった。自分の立っている場所を証明する物が。そしてそれが非現実的で荒唐無稽な物であることを願っていた。
非常灯や非常ベルの微かな灯りを頼りに、上へと進んで行く。理由があったわけでは無いが、足は自然と動いていた。地に足のつかないような気持ちを反映したのか、足取りは酷くふらついていたけれど。踊り場の窓からは、雲に隠されることのない月の光が差し込んでいた。片手を翳して月を見上げながら、私はその窓を見たのは久しぶりだと気が付いた。生きていた頃は、いつも下を向いて通り過ぎていたから。
「……ん」
三階から四階に上がろうとした時、私の耳が不自然な音を聞き取った。初めは低い虫の羽音だと思われたそれは、よくよく聞けば人間の声だった。祈りを捧げるように、或いは深夜のラジオから漏れる声のように、静かに、絶え間なく響いていた。
──夜は、月が……しんと……しんとして──
言葉の意味は理解できなかったが、意味のある言葉を誰かが喋っていることは確かだった。そしてこんな時間に学校にいる人間が、普通の人間である筈が無かった。
本来なら、一刻も早く踵を返して学校から転がり出るのが正しい反応だ。しかしそんな不条理こそ、その時の私にとっては一本筋の通った条理の欠片だったものだから、当然湧き上がる恐怖は抑え込まれてしまって、私は声のする方へと廊下を歩き始めた。
──自分の不出来をはずかしく、もとの丸太格子の中に、中に、中に──
声は、何かの詩を朗読するように、低く落ち着いた調子で人の居ない学校に響き続けていた。左に曲がった廊下の先に声の主がいると踏んだ私は、一つ深呼吸をしてから右足を前に出す。
──二十年過ぎ……これもまた、一つ。一つ、一つだ──
「あのっ! すみませ、ん」
想像していたよりも、私はずっと緊張していた。呼びかけの声が途中で詰まって、言い終わった後から乾いた咳が漏れた。
響いていた朗読はぴたりと止んで、その主と思わしき人が私の方を振り返っていた。喪服みたいに真っ黒なスーツを着た、三十か四十代くらいに見える男性。きょとんとした顔で私を見ている。……私は、ひとまず『自分のことが見えない』という事態を避けられたことに安心した。
「その、ここはどこで……」
言いかけてから、ここは学校だと思いだす。
「そ、私は……違う、貴方は、誰ですか……?」
瞑想しながら辿り着いた質問は、随分と変なところに着地してしまった。私は内心で後悔していた。貴方は誰、だなんて、いきなり聞かれたって驚くだろうし、答えるにしても答えが沢山ありすぎるような気がする。まずは自分の事情を説明する方が良かった。こうなったら、相手が私の聞きたいことをよく汲み取ってくれることに期待するしかなかった。
「私? 私、私は……」
案の定というか、男性はすぐに答えを返してこなかった。きょとんとした顔のまま、ぼそぼそと言葉を探している風だった。私は慌てて一歩だけ彼に近づいて、
「私は死んだ筈なんですけど、気が付いたらここにいたんです。何か知りませんか?」
と言おうとした。けれどもやっぱり舌がもつれて言葉が口から上手く出て来ない。もどかしく思いながらもう一歩前に出ようとすると、おもむろに男性が私の方に右手を差し出した。
「わ、あ、すみません、はい」
握手を求められたと思って慌てて差し出された手に視点を合わせると、その手は思ったよりも私の身体の近くにあった。殆どくっ付くように。そして握手を求められたのではないと分かった。彼の手は既に何かを握っていたから。筒状の何か。それが私の身体に押し当てられ、一部分は隠れて見えなくなっている。何に隠れて?
筒の先端が、廊下の窓から投げられる光を反射して輝く。私はこんな感じのものをよく知っている。中学校の家庭科実習の時に握ったっけ。私は人参を切ったけど、芯が固くて形が不格好になってしまった……そう、包丁だ。
滑稽なことに、ここまで来ても私は自分の身に降りかかった事を理解できていなかった。
「私は」
声が聞こえ視線を上げると、あの人の顔がさっきよりもずっと近くにある。その目は相変わらずきょとんとしている……というよりも、何も見ていない。光を反射するはずの瞳に、何も映っていない。深い闇だけ。
男は意味の分からない言葉を呟く。
「私は、字を知りません」
それを聞いてやっと、私の口は声を発する。
全身を突如走った強烈な痛みに、一度は捨てようとしたはずの命が脅かされていることを恐れる、間抜けた悲鳴を……