第七十八話 目指せ!ベストセラー
ベストセラーが書けた。では持ち込むか、大手編集社にな。
そう意気込むと男は、大作を完成させた疲れを癒やす間もなく大手編集社を一直線に目指した。
深夜テンションを保ったまま朝を迎えたことで、いつもの朝以上にハイな状態になっていたのだろう。普段の自分ならきっちり寝てから後日ゆっくり訪ねたはず。それか郵送で済ませた。そう男は後で振り返ることになるのだった。
「ベストセラーを持ってきたぞ!」
男の声が事務所に響き渡る。
ベストセラーとは、発売された後になって好成績を上げた作品に与えられる栄誉だ。それが世のどこにも出ない内に確約された原稿がある。そんな嘘みたいな話が本当のことだったら、ここにいる誰もが黙ってはいない。
だが多くが黙って冷ややかな目を向けたあたり、男は信用に足りないと見るのが正解のようだ。
男は原稿の受取と確認をまず第一に編集長にさせるよう所望した。なんて態度がデカいのだ。
看板破りのごとく「編集長を出せ」のうるさい声が響き渡った。
この状態を見かねた腕利き編集者の野島は、大学時代にレスリング部で鍛えた筋肉で男を黙らせ、しばらくペンを握れないようにしてやろうと思った。その殺気の籠もった闘士を感じた同大学出身の元レスリング女子部マネージャーの金井は、野島の暴走を抑えるべく説得を行ったのであった。おかげでベストセラー作家(仮)男は、今日という日を無事に過ごすことが出来たのである。もちろん本人はそんなことなど露ほども知らない。
その日、編集長は社の最盛期から見ればうんと暇な状態にあった。最近はまず本自体が流行りを終えてしまい、全体的にかつてより売上が落ちていた。そして時代が作家を育てる力も落ちた。またはなくなったことで、秀逸な作品の書き手も不足していた。流行りが過ぎて人材の質も落ちれば、必然的に稼ぎが落ちて仕事が暇になってくる。業界の廃りがすぐそこにも見えていた。
編集長は、暇という刺激に乏しい状態から脱却したかった。そのネタになるものなら何でも良かった。そこに舞い込んだレアにして型破りな闖入者。これは暇潰しに良いと思い、編集長はさほど重くもない腰をダルそうに上げて応対するのだった。
「で、何が書けたって?」
「ベストセラーだ」
男は気合十分にベストセラー(らしい)の原稿を編集長に渡した。
編集長は聡明な頭を有していて、理解と黙読がとても速かった。
男が出された茶と菓子を食ってくつろいでいる内に、編集長はベストセラーの世界を見て帰って来てしまった。
ちなみに茶、菓子、それぞれが少々期限の過ぎた安物だった。男は安く見られ、都合良く残り物の処理役に使われたのだ。それでも美味そうに飲み食いしていたので別に問題なかろう。この事情を知っているのは、茶と菓子を用意した女性事務員の山下のみである。
「どういう作品がダメな作品だと思う?」
誰もが面白いと評するベストセラーになるはずの作品を読んだ後に編集長が発した第一の問いは、それとはまったく逆の作品についてのものだった。
「それはズバリつまらないものだ」
「もっと詳しく」
編集長は詳細を求めた。
「見世物の典型的な失敗例としては、どうでもいいヤツがどうでもいいことをしている、これが成り立った時がパーフェクトにそれに当てはまると考えている」
「ほぅ、ズバリその状況だと断言するあたり、つまらない作品ってのをしっかり経験した過去があるということだな」
「そうだ。そもそも俺がベストセラーを書き始めた理由はそこにある。つまらないものばかりを見せられるようになったから、それらをぶっ潰す面白いものを自分で生み出そうと思ったんだ。その思いから生まれたのがソレだ」
男は編集長の手にある原稿を指さした。
「じゃあ今まで読んだ中で最もクソだと思った作品はなんだ?」
「『四次元はポケベルと御一緒に』だな。これしかねぇ、こいつを越えたクソ小説は22世紀まで待っても出てこないと思う」
ものすごくこき下ろしている。そうして男から最低評価を取ったそのクソ小説は、なんとこの編集社より発刊されたものだった。
「ではなぜ、クソ小説が生まれると思う?」
「それは生み出すヤツ、つまりそのクオリティの作品を書いてしまうヤツがいるからだ。つまらない本は必ずつまらないヤツが書いている。つまらないヤツがペンを握ったこと、それが全ての始まりであり、同時に上質な見世物作りを行うなら詰み時にもなっている」
書き手は物語世界においては神である。その神に足りないものが多ければ、その眼下に広がる世界もやはり諸々が足りていない穴ぼこ世界となるわけだ。
「なるほど。ではお前が最強だと信ずるクソ小説について詳しく語ってもらおうか」
「いいぜ」
男はその生涯で最もしょうもないと信じた本について回顧すると勢い良く次の言葉を口にした。
「話のとっかかり、落ちまでの展開、どこを見てもシナリオがゴミだった。そしてゴミを更にゴミたる産物に仕上げたのは、出てくる多くのキャラクター。これらはいずれもゴミキャラだった。そもそも不要なキャラが多い。さっきも言った通り、終始どうでもいいヤツらがどうでも良いことをやっていた。そんな展開が100万文字以上続くんだぜ」
「それでもお前は読んだ」
編集長はズバリ言い当てた。
「そうだ。読んだね。逃げたくなかったんだよ。圧倒的虚無、または流れ込むクソの嵐から」
男の精神の屈強さは生半可なものではなかった。
「苦痛だったさ。作者はどういう思いでこんなものを書くんだ。本人も面白いと思って書いているのか?まさかAIが書いているのでは?そう疑ってしまうものだった。こんな退屈な話を書くなんてある種拷問だね。例えこれを仕上げた先にベストセラーヒットが約束され、大金がもらえるとしても、俺なら書けない。筆を折って一刻も早く精神を解放させたいと思ったことだろう」
ここで男は少し遠い目をする。
「だがな、それでも読んだ。読み切った。心からクソと思ったその世界に俺は惹きつけられたんだ。この矛盾した思いはなんなのか、自分なりに考えたさ」
「それも聞こう」
編集長はしっかりと耳を傾けている。
「継続はやはり力だ。こうまでクソで連載中もあちこちから非難のコメントがあったのに、この作家は筆を折らなかった。目と耳を失ったのかと思ったが、それじゃ文字は書けないものな。俺がこのクソ小説の中で称賛したことは、書き切ったという最後の真実だ。稚拙でゴミのような内容だったのに、それでも自分にはそれしかない。つまらない人間が書くには面白さの最高到達ポイントがこの底辺なのに、それでも一意専心、初志貫徹でやり切った。こんな便所で大便をひり出す合間にも思いついたようなその場だけで消えてしまいそうなしょうもないネタを作品にして本に起こすまで持って行った。内容の質とは別に、ただのしょうもない思いつきをそこまで昇華させたことは、間違いなく魂からの熱意で成り立った道だ。この作品は全部が下手くそな出来だ。でもただ一つ光るもの、良いもの、憧れや尊敬すら抱くものがある。それは熱だ。このどうしようもないクソ小説には、誰でもが宿すには困難な確かな熱がある。俺はそれを高く買ったんだ。だからゴミだと知りながらも金を払った」
男はゴミだと信じたその本を全巻購入していた。
「ゴミだが、俺に魂を燃やすことの大切さを教えてくれたバイブルなんだ」
「そいつは一つは執着、また一つは愛だ。共に掛け値なしのお前の思いだ。物書きをやりたいお前の衝動と愛の真実だよ」
そうだ。男が抱く作品への思いは、シンプルな好感でも嫌悪感でもない一種の歪んだ愛だった。歪んだ先で真っ直ぐな愛だった。それがないと本当にゴミだと思っている物語に最後まで付き合えるはずがない。
「そこが分かっているならお前には見込みがある。書くテクニックはある所までは才能で、またある所所までは努力して書けば伸びる。だがペンを握る前の先天性の必須素質ってのは、今まさにお前が語った熱だ。こいつはマッチを擦って近づければ誰でもが燃やせるものじゃない。心の炎は外部から焚べることは出来ない。全て体の内側で行うことなんだ」
編集長は原稿を机に置いた。
「次に、こいつについての評価だ」
男は編集長の目をしっかり見た。
「まずコイツは酷い産物だ。これでベストセラーが取れたならこの業界のおしまいの時だ。シナリオ、キャラクターの言動まで含めてめちゃくちゃだ。はっきり言ってクソだ。だがな、お前がさっき言ったのと一緒だ。熱が良い。それしか評価点がないが、それだけあればまだ終わらない。始まりに立てる」
その言葉を受けて男は「へっ!」と言って笑った。どういう思いでそういう言動に出たのかはしっかり分からない。
「俺の下でいくつか書いてみないか。ベストセラーまで行ける可能性はゼロじゃない。四捨五入すれば50には近い。俺と組めばその数値だってもっと伸びる」
男は残ったお茶をぐびっと飲み干した。そしてコップを勢いよく机に置いた。
「へっ!何言ってんだか。あんたの力なんていらねぇよ」
男は可能性の原石にまで価値が上がった紙の束を掴み取ると、椅子から立ち上がって編集長に背を向けた。
「そいつは俺の力でやらせてもらうまでよ」
男は事務所から出ていく。
最初は彼のことをうるさい山猿かのように思って見ていた職員達も今は当初とは違うものを見る目で彼の背を見ていた。
「その時にはまたここに持ち込むかもな」
その言葉を最後に男は事務所から姿を消した。
その後、彼がどうなったかは、楽しみな未来で全て分かってくる。