第七十四話 超約 蜘蛛の糸
はっと目を覚まして体を起こすとそこは、そこは……どこなんだろうか。
「おい、ここはどこだ?」
すぐそばにいた赤い肌をして頭に2本角を生やしたデブ男に聞いてみた。
「ここは地獄だ」
デブ男は簡潔に答えたが、聞き慣れない地名ゆえせっかくの簡潔に対して理解が進まない。
地獄かぁ。地獄……話に聞くあの地獄か。悪いやつが死んだらそこに送られるとかいう天国とは真逆の世界。それが地獄だったような気がする。でもよく分からない。
薄い知識で世界への理解を進めるしかない。なにせ学がないもので。
「おいデブ」
「前田ジャスティンだ」
デブにだって名前がある。
「おぅ……そうか前田」
「ジャスティンの方で呼んでくれ」
意外とフランクなのかな。
デブ男改め前田ジャスティンと認識を正した。ジャスティンは決まった一方を向いて立ったまま、顔も目だってこちらには向けない。まるで置物のようなデブっ……もといジャスティンだ。
「ジャスティン。ここは何をどうするところなんだ。なんで俺は気づいたらこんなところにいるんだ」
「疑問を順番に片づけよう。まずここは地獄だ。それ以上でも以下でもなく完全に地獄でしかない。地獄では何をするでもない。何をしてもどうにもならないヤツを送り込んでそれで終わりだ。何かを出来るという範囲にない終わった命がここに来る。お前はそんな連中の新顔だ」
破滅的理論とでもいうのだろうか。理路整然とした語りのようでいて、全てが破滅した内容を話しているかのようにも思えてくる。ちょっと頭の理解が追いつかない。
「次に、何故ここにいるのかといえば、その理解の必要がない」
「えっなぜ?」
「そのなぜにも本来は答えが必要ない。だがちょっと答えよう。俺はここじゃ比較的おしゃべり」
おしゃべりの定義を疑っちまうぜ。
「どうしてここにいるか以前に、ここ以外にお前がいる必要があるか?答えはない。そもそもどこから来たのか、それも分かったからといって戻る道はないし、あっても辿る必要がない。そういう命なのだ。彷徨う必要がなくここにこそあれば良いのだ。だからそれについてお前は何も考えなくて良い」
ほぅ、理にかなっているようでいて、しっかり考えると理にかなっているかどうかの判別が出来ない。そもそもここにおいての理とはなんだ。
ジャスティンとやり取りする程に何かが分かったようで、余計に分からなくなったようでな不思議な感覚に陥った。
「そんな風に何かを考える素振りすらしなくて良いこと。お前は考える必要がない地獄の住人になったのだ。ここにある者は思考する命としての用を終えているのだから、それをすることはないのだ」
口パクは確認出来たが、それ以外ジャスティンは微動だにしない。ヤツの言葉には重みがあるようで、重量がゼロなようで、それでも吸い込まれるように俺の耳にすっと入ってくる内容で……。なんだろうこの空虚にも似た思いは。
俺はどうしたのだろう。ここにいることについて何を思うのだろう。感情が定まらない。ジャスティンの言葉を受けて快感もなければ不快感もない。ヤツは考えることはないと言うが、俺はそれを受けてその意味を考えている。多分無駄なのに。
ふと周囲にたくさんの動体が見えることに気づいた。これだけ動くものがあっても気配というものがまるでない。
どうしたことだろう。いきいきとしているでもなければ疲れているでもない無の表情をした者達がウロウロしている。
それぞれがそれぞれの存在を認識ているのかどうか、もっと言えば目が見えているのかどうかも分からないくらい各員が縦横無尽に歩いてはぶつかり合ったり、転んだりしている。
「見ろ。意味がないというのがコレだ。これは無意味という現象に過ぎん。視覚的に分かりやすくなっただけのこと」
そうか。こいつらは特に意味がない。ないのにここにいる。
不毛な命の抜け殻なのか。意味や意図をもって行動する者は一人もいないだ。なんて虚しい。
「どうだ、分かってきたか?」
「少し見えて来たよデッ、じゃなくてジャスティン」
危ない言い間違うところだったけど、間違えなくてもそれに意味はあったのだろうか。
「俺、そんなに太っているか?」
「それこそ聞いても無意味じゃないかな」
場の流れに合わせたそれっぽい言葉を選んでやり過ごした。
ここで視界の端に白く細長いものを捉えた。
なんだろうかこれは。掴んでみる。白いロープ……いや微妙に粘着性がある。
ここで俺は、それまで靄がかかったようにはっきりしない脳内から確かな情報を1つ引き当てた。
知っている。俺は知っているぞ。これは蜘蛛の糸。そしてここは地獄。垂らされた糸を辿った上には、地獄を脱した別の世界がある。
俺は掴んだ糸を見上げた。糸は長くどこまでも続く。一体どこから垂らされているのか、根っこの部分は遂に確認出来なかった。それでも辿っていけばどこかに辿り着くはず。
辿る意味はあるのか。無いのかもしれない。それでも俺は、こいつがどこから来たのか辿りたいと思った。もうそれで心を決めて次の行動に出たくなった。
ここで殺気にも似た気配に気づく。先ほどまで目的なく法則性もなくそこらをブラブラしていた魂の抜け殻共が、一斉に俺を、いやこの白い糸を向いている。
またここで思い出したことがある。俺はこの話をどこかで聞いて知っていた。地獄に垂らされた糸目掛けて大勢が集まり、その重さで糸はプツンと切れてしまう。切れた糸はそれっきりで、結局誰も上に登ることは出来ない。そういう内容だった。
なるほど、その知識は今この瞬間に向けての教訓になった。俺は糸を死守する。まずはこいつらを一掃して一人で安心安全に登る。これしかない。
また思い出したが、俺は数多の拳法を習得していた。こういうのは頭よりも体が覚えている。その証拠にどんどん出てくる技の数々が周りの連中をどんどん倒して行く。たくさんいた抜け殻達はどんどん倒れて完全なるゴミへと変わっていく。蹴っても殴っても重みがない。実に簡単に倒せる。こいつらがペラペラなのか、俺が強いのか、そんなことだって分からない。
あっという間に全滅だ。これで糸を登って行ける。
「行くのか?だったら止めはしない。俺が止めるもお前が止まるも必要のないことだからな」
ジャスティンは最後までこちらを見ない。が、何か確信ある答えを見つめてものを言っているようだ。
糸にしっかり両手をかけ、片足を地面から離して登る段に入った。そこで景色が一転。俺は天高く伸びる糸見上げていたのに、次の瞬間見えるのはジャスティンの下顎だった。
あれれ、背中と腰に痛みが走る。俺は地面に転がっていた。その手にはまだ白い糸。そして糸の先がどんどん増える。上から糸が降りてくるのだ。
「だから言った。全て必要のないこと。糸はどこかに繋がってこそ意味がある。今その糸はどこにも繋がっていない」
相当長い糸だったようだ。まるでマキグソのように、糸はシュルシュルと上から落ちてきて巻き巻きオブジェを作っていく。
俺はゆっくと糸から手を離した。
ここでまた思いついた。そういえば俺は蜘蛛なんて助けたこともないし、見かけたら邪魔だからと殺して回っていた。そんな俺にどうして救いの糸が伸びてくるだろうか。
ここにはあんな小さな虫けらにも劣る命しか集まってこない。
「ははっ」
思わず笑いが出る。
糸が繋がっていたとして、それを登って俺はどこに行き何をするつもりだったのだろうか。行き先もないのに、居場所がないのに。
ジャスティンの言う通りだ。どうにかして登ろうと思って動いたが、そもそも登る必要がなかったのだ。その登る方法が絶たれたからといってなんだと言うのだ。
結局あるべき所にあるべきものが嵌っていく。で、おれはここに、地獄に嵌め込まれた。
俺はここで終わりだから何も始めることなくここで終わっていく。
起き上がると初めてジャスティンと目が合った。
「ここでやっていけそうか?」ジャスティンが問う。
「やっていく必要もないのだろ?」
「そうだ。よく分かっている」
地獄が分かった。