第六十七話 逆上がりまこってぃ~
その日、真少年は不機嫌な面を下げて小学校の帰り道を歩いていた。
それを見たマサムネおじさんは、いつも通りの陽気なテンションで話しかけてきた。おじさんの日課の散歩時間と真の下校時刻はだいたい重なっていた。だから二人がこの時間にこうして道で出会うことは日頃からよくあることだった。
「お~い、真、まことぉ~、まこってぃ~。お前はどうしてまたそんな不機嫌面で下校してんだ?下校ってのは楽しくウキウキやるものだろ?」
マサムネおじさんは学校から早く帰りたくてしょうがない遊び人マインドで生きてきた。だから下校が楽しくなる人間だったのだ。というのがだいたい30年くらい前の情報。
「おじさんは鉄棒の逆上がり出来る?」
「おうそりゃ出来るともさ。このおじさんに出来ることならザッと2万はあるけど、その中でも上手に出来る事ベスト10に入っているのが逆上がりさ。棒を軸にくるくる回ってばかりの青春だったさ」
マサムネおじさんの頭の中はいつでもくるくる回っていた。良い人だけど変なおじさんだった。
「で、逆上がりがなんだってんだ?」
「今日学校の体育で逆上がりの練習があったんだ」
「練習なら大いにすりゃいいさ。その練習がどうしたってんだ?」
マサムネおじさんが黙って人の話を聞いていられるターンはとても短い。最後まで喋り切る前に質問が飛んでくる。
「練習をしたんだけど、一回も出来なかったんだ。それを同級生にバカにされてさ」
「ほうほう、それで不機嫌面が完成したと」
真少年はうんと頷いた。
「まぁ良いじゃないか、ちょっとバカにされるくらい。バカにされたって今の姿のまま人間なんだ。おじさんの友達なんてバカでは済まない話でカバにされちゃったんだぞ。カバになんてなったらもう大変だ。それまであったあらゆる可能性が閉ざされて、将来の進路は動物園の折の中一択だ」
何を言っている?
そのシンプルな疑問に脳みそが一瞬フリーズしたが、真も若いので再起動が速い。変な話には、変な所が解明出来るようしっかり質問を飛ばすのだった。
「その友達は今どうしてるの?」
「しっかり動物園に就職したさ。だってそれしかないからね。でもね、最初はしぶしぶだったその道も、慣れたらまぁ悪くないかって思えてきたんだってさ。で、今は楽しくやってる」
バカからカバへと話題が移り、何がどうなってこうなったのかと真少年は頭を悩ませていた。おじさんはこんな感じで思いつきのバカ話をよくする変わった人だった。
「ふむ、でもいいね。真はなかなか良いぞ」
何がいいものかと思って真少年はおじさん見た。
「まず人に聞かれてそれを答えたのが良い。変に肩肘張ったり格好をつけたりしてそれを黙っているよりはずっと良い」
真少年には何が良いのかいまいち分からなかった。
「出来ないなら出来るようにすれば良いじゃないか。なにも金メダリストになれって話ではない。逆上がりなんて、朝飯を食ったら昼飯が出てくるまでの間で身についちゃうことさ」
つまり昼飯前ということだ。朝飯は抜けないのがおじさんの譲れない生活リズムだった。
「いいよ別に。逆上がりが出来ないなら他の勉強を頑張ればいいよ」
真少年は下を向いてそんなことを言うのだった。
何かをやるって人間が胸を張り前を見て物を言うのではなく、下をむいてぼそっと言う。それは信憑性と気持ちよさに欠ける言動だ。そう感じ取ったおじさんは次なる行動に出るのだった。
「そりゃ勉強は頑張れば良い。何だって頑張るのは素敵だ。でもな、勉強を頑張ったところで逆上がりは出来ないままだぞ」
これを聞いて真少年はハッとした。そんなハッと顔でおじさんを見た。
本当にその通りだとしか思えない確信を突いた発言だった。
出来ない事がある。それから逃げて何か他の物にすり替える。それは時には必要なこと、前を向くのに有効なことなのかもしれない。しかし今の自分はどうだ。出来ないに未練がある。本当は出来るようになりたいと思っている。その本当の思いに嘘をついて安易な代替案を立てた。それは卑怯な逃げの一手である。
真少年は、自分の中に罪悪感が生まれた瞬間を知った。
「真、鉄棒はいいぞ。いつだって鉄棒は我々の味方だ!」
おじさんは真の肩にポンと手を置いて今日の格言を言い終えた。
そりゃ鉄棒が敵に回ることはないだろうが、味方ってのはどういうわけだ?と疑問に思いながら真少年はおじさんのニコニコ顔を見上げるのだった。
それから時はたっぷり流れた。
たっぷりの時が流れた後のある日の学校を見てみよう。
「先生、逆上がり教えてよ。出来ないんだ」
「おういいぞ!出来ないなんてことはない。昼飯までに出来るように頑張ろう」
あの日、逆上がりから、自分から逃げなくて良かった。
マサムネおじさんの謎話に包まれたエールを受けた末、真少年はダンディな真先生になった。
今では得意となった逆上がりを学校の生徒に教えるのが彼の仕事になったのだ。
この道に進めて良かった。心からそう想いながら、真はあの日のおじさんの言葉に感謝するのだった。




