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変な人白書  作者: 紅頭マムシ
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第六十四話 その悲しみが筆を走らす

 物書きですもの。そりゃ筆を手に取って紙に何でも書きますとも。

 でもね、そのペースなんですけどね、会社員みたいに何時から何時まで書くってのがしっかりはっきり決まってはいなんです。決めたところで上がってくる成果の見通しが立たないんですもの。


 マニュアル化した単純で単調な仕事ならスケジュールを組んでしまえばロボでも人間でも出来るんですよ。しかし物書きなんて仕事がマニュアルと化したら、それはもう業界の破綻だ。

 いつ何が頭に降りてくるのか、そんな事は神だって知らない。私も知らない。書き手の気分や脳の調子の都合にかかっている。それは実に人それぞれ。


 1分で1本抜ける草があるなら、100分で100本抜ける。そのように本日の作業分が簡単に計算出来る世界ではないんです。

 1分で原稿1枚が書き上がるならベストセラーをいくつでも仕上げることが出来るのに。現実はそうはいきません。


 ある作品はたった1週間で書き切れた。それと同じ分量なのに1年かかってしまった物もある。そうして本人にも周りにも作業ペースが分からないのがこの仕事なんです。不思議。


 やろうと思って机に向かうよう時間を設定して取り組んだところで、アイデアが降りてこない、降りても展開を作る算段に手こずる。そんな事から時間をかけた割には全然作業が進まないことも多々ある。かけた時間の分だけ質量、報酬含めた成果が確実に出る仕事が羨ましくなることもある。 


 ペースが読めない仕事であることは分かってくれたでしょう。

 それでもどういった時にペースが上がるのか、長く経験を詰めばある程度見えてくるものがあったりするんです。


 で、私は気づいたんです。私が良いペースで良い物を書き上げた時ってのは、決まって悲しみの中にあったんですよ。不思議ですよね。ルンルンと楽しい気分ではなく、その逆の想いを胸に抱えている時程筆はペースを上げて紙の上を走るのです。


 例えばこの作品、そうかつてドラマ化もしてそこそこヒットしたこの作品なのですが、当時だとかつてないペースで速く書き上げる事が出来たのです。

 とは言っても書いている途中には、展開を盛り上げるのに行き詰まってもう止めてしまおうか、ここで投げて次の作品に取り掛かるか、それとも筆自体を折ってかつての夢だった宇宙飛行士を目指すため転職活動を始めようか、そんな事を考えたこともあったのです。


 丁度その時、こんな事があったんですよ。その事がきっかけで書くペースが上がったんです。


 私は地元を離れてこの地でこんな仕事をしています。その地元にはかつて付き合っていた恋人が住んでいます。恋人は今もそこに住んでいます。ちょっぴり恥ずかしいですけど、それが私の初恋でした。

 恋人と別れて地元を離れていますから、その段階で相手は私の過去になったのです。それは向こうにとっても同じことです。


 別れてから10年、いや15年と会っていなかった時のことです。地元に住んでいる兄が梨を送ってきたので私はお礼の電話をかけました。その時にあれこれと雑談をしたのですが、その中で懐かしのあの人の話題が出たのですよ。

 

「この前意外な人に会ってさ、その人がお前のことを聞いてくるんだ。元気にしてるかって。こっちは最初誰だかまるで気づかなかったんだけど、話を聞けばお前に縁ある懐かしい人だったよ。誰だと思う?」

 

 兄がクイズ形式で問うのですが、私は地元を離れて長く、その長い間地元の人間の事を思い返すことがありませんでした。忙しかったものでそんな余裕が無かったのです。

 かつての知人の中ですぐに出てくる名前がひとつもありませんでした。我ながら薄情なものだと思いましたが、案外人の記憶や想いなんてのはそんなものだとも納得しました。

 

 答えが返ってこないので、兄の方から答えを言って来ました。それが元恋人の名前だったのです。

 兄の口から名前を聞くまで、完全に過去の事として飲み込んで忘れていました。故郷を旅立って以降、顔や声だって思い出すことが無かったのに、久しく聞いたその名前に私の胸はズキリと敏感なようなノロマなような反応を示したのです。

 

「ウチの子供を保育園に迎えに行ったら仲良く遊んでいる友達がいるんだ。その子の親がすぐ後に迎えてにきてさ、それが懐かしいあの人だったんだよ。すっかり大人になって声をかけられてもすぐに気づかなかったよ。それでお前が元気にしてるかって気にしてたから、相変わらずフラフラしてるって言っといたよ」


 フラフラしたいところだが、私はしばらく引きこもってここに根を張ってしまっている。詳しいところを言えば嘘の回答だが、兄はそんな感じで適当を言う楽しい人物なんですよこれが。


 おかしいものですね。地元を離れて以来、元恋人どころか実家のことだって放っておいた私が、なぜかドキリとした後にズキリと胸を痛めたのです。これは一体どういう感情なのだろう。

 長らくそこに想いはなかったとはいえ、かつては確かにあったのだ。その想いを人は愛と呼びます。


 かつての記憶が蘇り、今になって傷ついているとでも言うのだろうか。これまで薄情だったのに、ここへ来て急に想いに変化が加わるなんて、実に身勝手ではないでしょうか。そうは思えど、兄からそんな事を聞いた私は、確かに胸の痛みを感じたのです。


 これは悲しみだったのだろうか。元恋人が親になった。つまり私以外の誰かとくっついた。私が過去を忘れて今を歩むように、向こうだってそうだった。だからこその別離が叶う。当然だ。

 当然なのに、私は言いようのない胸のざわつきの中にあった。


 この時です。筆を握ろう、そう思ったのです。握ったら恐ろしい程調子良く書けたのです。

 不思議です。それまでは紙の上ではなく、それよりずっと上の宇宙が見えていたのに。あの時転職活動をしなくて良かったと思えてきますね。


 頭の中、胸の中には昔の恋人の事がずっとあった。あったのに、物語がどんどん書ける。それまで思考を放棄していた物語の続きが何故かどんどん書ける。

 後で思うと気持ちが悪いんですよ。どうして心晴れ晴れとした時に書けなくて、あのような言い知れぬモヤモヤした想いの中にある時の方が良く書けるのか。調子良く行っているその時にも、そう出来ていることに何か不安を覚えるんです。あれは独特な感覚ですよ。


 人の想いってのは実によく分からないものです。解せない。ということだけは分かりました。

 だから私はその謎の解明のためにも、実際にはいもしない人間の歩みってのを紙に書き続けているのかもしれません。動物やファンタジーの怪物ではない。私はそのまんまの人間の話しか書けないのです。


 悲しみは他の感情や邪念を跳ね除けて心のスペースを埋めるのかもしれない。私の迷う心やサボりたい心も悲しみが支配することでその時にはどこかに行ってしまうのだろう。悲しんだ私はものすごく集中力を高めることが出来たのです。

 

 その後も同じような事が続いた。

 私を可愛がってくれた祖父母が死んだ時にも筆が捗った。店主の高齢化が原因で贔屓にしていた和菓子屋、中華料理店が立て続けに店を畳んだ時、うっかりズボンに入れたまま1万円札を洗濯して塵にしてしまった時、自転車がこそ泥に盗まれた時、コーヒーに砂糖と塩を入れ間違えて吐いた時、大量に貯めたポイントが全部期限切れになって無に帰した時、その他まだまだ色々。

 私の大成の時はいつだって悲しみと共にあった。悲しみが私を強くした。

 そして今もその時が来そうな予感がするのです。


 電話が鳴る。出てみる。


 ふむふむ、なるほどね。分かった所で電話が切れた。


「今は私も結婚して子供がいる親の立場になったのですけどね、その役目も先程終わったようだ。今の電話なんですけど、なんだかんだあった末、親権が向こう持ちになったとのことです。あぁ、現在その事でかつてのパートナーと争っていたのですよ。これで私はまた一人ぼっちの孤独人間だ」


 ここで記者は気まずい顔で言う。


「それはなんとまぁ……大変なことでしたね」


 大変か、まぁ全て終われば何も残らないってことで話は簡単になるけど。


「こうなるとまた筆が捗りそうだ。今がまさベストセラー誕生の瞬間になるかもね。あっ君、今日の取材の事だけど、最後の親権うんぬんとか離婚とかの部分はカットしてくれたまえ。まだ1人で味わいたい悲しみなのだ。その内世に知れることだろうけど、今は私1人のものであって欲しい」


「はぁ、分かりました。確かに使う部分は最後以外にします。今日はありがとうございました」


 記者は帰っていった。


 さて、悲しみとの同居生活がまたまたスタートだ。

 悲しみが私を机に向かわす。ペンを握る。


「さぁ書くか」

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