第六十話 聖域の中は覗けるのか
それは、とある天気の良い日の昼過ぎ、街外れの通りで起きた。
リュックを背負って道行く男がいる。年齢は30代前半に見える。
後ろからバイクが迫り、男を追い抜いて少し進んだ所で停車した。乗っていたのは警官だった。
「こんにちは」と警官。
「こんにちは」と同じく男。
「私はこの地域のパトロール隊員の永山というものです」
「はぁ永山さん。覚えましたよ。とりあえず晩飯を食べるまでは覚えていると保証しておきましょう」
男の記憶力は微妙だ。
「最近ここらに危ない物を持っている人が多く出るというので、巡回中なのです」
「ははっ、良いことだ。お巡りさんというくらいだから、あちこちまわってもらって大いに結構。ご苦労さまです」と言って男は普段からやり慣れない敬礼をしてみせる。
「それで、防犯のことからちょっとお荷物の検査をさせてくれませんか?」
「荷物と言うとこれ?」
男は背中のリュックを指差す。
「はい。そうです」
「おや、おかしいな。ここは青空関所か検問所か、持ち物検査なんて月曜朝の高校以来のことだぞ。ふふっ、おかしいや」
男は笑い出す。
「で、リュックの中身を見せて頂く事は可能でしょうか?危ない物が入っているとあれなんで」
「ふぅむ、どうだろうか。その問いへの即答は出来かねますね」
男は即答はせず少し考えてみせた。警官はそれを待つ。
「では、お巡りさんの問いに答えるにあたって、先にこちらからも問いかけを行っていいですか?」
「はぁ、なんでしょうか」
これまで色んな人間にパトロール中の声かけを行ってきた警官だが、このパターンのやりとりは初めてだった。
「先程から口にしている『危ない物』とは一体何のことです?内容を伏せての言い回しが腑に落ちない。例えば何ですか?」
「はぁ、例えばですけど、刃物とか拳銃とか、その他凶器になるものですね」
「なぁんだ。それなら持っていないですよ。逆にちょっとのおでかけでそんな物騒な物を持ち歩く道理が分からない。じゃあこれでお巡りさんの方で抱える謎については解明が済みましたね」
男は話を切り上げる段に入った。だが警官は話をまだ引き延ばそうとした。
「ちょっとちょっと、待って下さい」
「え?そうお願いされたら無下にはしづらいなぁ。で、何です?」
「あの、その中身は見せてもらえないのですか?」
「なぜ見たいのです?」
「危ない物が無いかの確認がまだ」
「いえ、その確認なら今答えを言いましたけど」
「ええ、しかし口頭ではその……嘘を言う事も簡単ですから」
ここで男は笑いながら頷く。
「うむうむ確かに。お巡りさん、賢いですね。確かにそうだ。僕が嘘を言うのはごくごく簡単なことだ。お巡りさんは中身を知らない。情報を得るなら僕の口から、後は自分で見る。これしかない。そして僕の口答を受けてもなお僕が信じられない。だから残った手段の目視に賭けるわけだ」
男はとても物分りが良い。警官はその通りだと頷く。
「さてさて、どうしようか。見せれば事は簡単。だが、そうもいかないかな」
「中身は見せてもらえませんか」
「うむ、ならばそこはノーと言わせてもらおう」
ここで警官は本腰を入れることにした。
中身を見せろと言われて拒否する。見られては不味い物があるのかもしれない。その不味い物が、自分のお手柄になるかもしれないからだ。
「なぜ見せてもらえないのです?」
「え?おかしいなぁ。僕はイエスかノーかで答えられる質問にノーと回答したんです。これは回答を二者択一のシンプル構成にさせるための上手い質問形式です。さすが警官だ。で、答えもシンプルに出した。それで終わりですよ」
「いえ、だからね、えっ終わり?」
「はい、終わりです。続きがない」
警官は腕組みして少し考えると、続きを話し始める。
「だから、なぜ見せてもらえないのです?」
「いやその先には何もないのですよ。見せてくださいと言われて、ノーと回答したのです。そこからノーの理由は?と聞かれても、もう答えを言い切ったので続きは何もありません」
警官は困った。受け答えがちゃんと出来ているようで、なぜかスムーズに事が運ばない。
「う~ん、では例えを引っ張り出すしかないので、例え話をしましょう」
警官の言葉が止まったので、男がトークの舵取りを始めた。
「学校のテストがあります。算数のペーパーテストです。問題には1+1はなんでしょうか、というものがあります。おそらく一桁の整数が入ると予想は出来るでしょうね。まぁ答えは2ですけど、4、7、9あたりを答える者もいくらかはいることでしょう。候補の数がいくつかあろうが、先生が出したテスト問題に対して僕たち生徒が選べる答えはたった1つだけです。2か3、みたいな候補をいくつかあげるのは無効となります。2なら2オンリーの回答になります。僕は2と書いてテスト用紙を提出します。それでテストは終わりです。そう終わりなんです。僕が2と書いたことについて、先生が『なんで?』と尋ねて来るターンは存在しません。クエスチョンAがあり、それにはアンサーAを出す。それで1ターンが終わって、問答は全て決着が付きます」
警官は黙って話を聴いている。聴くしかなかった。内容は分かるが、何故それを言い出したのかという会話の流れについては、いまいち掴めていない様子だった。
「で、ここからこの例えをこっちの現実にシフトしてみよう。僕はクエスチョンAに対し、アンサーA、つまりはリュックの中身を見せるのはノーを出した。ね、これで終わりなんですよ。その先の問答はしなくていい。予てからそこを話し合うつもりがないから、いくら聞かれてもノーの理由については用意していません。どちらを答えるも、そこの権限はこちらに委ねられている。まぁ強いて言えばこっちの趣味、都合、気分から出たのが理由ってところでしょうか。クエスチョンAについてこの先を話し合っても不毛なので、他に何か尋ねたいというのなら、完全なる新作のクエスチョンBを下さい」
なにやらおかしな講義が始まったので、警官はやや混乱し始めた。
「逆にですけど、僕がイエスと答えた場合にも、お巡りさんは『なんで見せてくれるのか?』と僕に尋ねる気でいたのですか?」
「いや、見せてくれるっていうなら、その時はなぜとは思わなかったかもしれません」
警官は訳が分からない問答に巻き込まれた実感を得ていた。
「ふむふむ、意外に興味深いディベートになりそうだな。それではまるで見せるのが自然と言っているようだ。考えてくださいお巡りさん。知らないおじさんがいきなりやってきて、自分に荷物を見せてくれと言う。それが日常茶飯事のことですか?答えはノーです。聴くまでもない。普通に考えてそれは不自然だ。怖いし、気持ち悪いとも思うでしょう?あなたが休みの日に道を歩いていて、僕が近寄って荷物を見せてと言えば、それが自然なやり取りですか?」
「はぁ、それはそうですが……でもこちらは業務として行っていて」
「業務に熱心なのは評価する。でもこちらは業務ではない。業務上での自然性が、完全オフな一般人にまで通ずるものだろうか。否、多くの場合そうはいかない」
男の頭と口はインターバルを挟まずよく動く。警官も舌を巻くほどだった。
「いや、しかしね、見せてと言って嫌だと返ってくると、じゃあ危ない物を隠そうとしているのでは?とも思ってしまう」
「お巡りさん。こうしてリュックってのは、四方を布で覆って中身が見えなくなっている。仕様として内部が見えないようになっているんです。内部については秘するが常識であって、自分から中にこれこれが入っていると吹いて回る方が不自然で危ない人間だ」
それもそうかと警官は一旦納得してしまった。
「内部を見せない人間は皆凶器を持っている。それは拡大解釈だ。もちろん疑う余地はある。あれどもそこまで規模の広いものではない」
警官は一呼吸置くと、方向性を変えて問いかけを行うことにした。
「では、見られて困る物があるのですか?」
「ええ、それなら簡単だ。あるんですよこれが」
えらく簡単にクエスチョンとアンサーの掛け合いが終わった。
「え、それは何?」
「ふぅ、見られて困る物が、耳にするなら安全な物とは限りませんよ」
溜息を1つ漏らした後は、男はすらすらと困った話を続ける。
「ごめんなさいね。またなんだけど、どうしても例え話を引っ張ってこないとこの先の話が進む気がしない。二分程例えばの世界の事を語っても良いでしょうか」
男は随分丁寧だ。だから警官もそれで良いと答えるしかなかった。
「ではイマジネーションを働かせて下さい。そして、お巡りさんは思い切り気分を若返らせて下さい。そうでないと僕の話に理解と共感を得ることが出来ない」
警官は言われるがままに脳内を開放し、全てが光に満ちいていたあの夏を回顧した。これで気分だけは命の隆盛期に戻れる。
「あなたは多感な高校生だ。月曜の朝に学校に行く。ホームルームが始まると、先生が抜き打ちの持ち物検査を始めると言う。そこだと、この場のように見せろと言われて拒否権を使えはしない。生徒は全てを見せるのみだ。鞄の中に学業とは無関係の物を持ち込む者があるかもしれない。先生がチェックしたいのはそれだ。鞄から見つかってアウトな物には、ゲーム機、マンガ、もっと悪い物だとタバコにライターなんてのも出てくるかもしれない。そんな中、あなたはビクビクしていた。いや、するしかなかったんだ。そう、あったんですよ。あなたの鞄の中にも先生に見られたら不味いものがね」
男はやけに情感を込めて話す。
これを受けて警官は、学生時代の自分が困った状況に追い詰められて青くなっていることを強く想像した。思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。
「あなたには、口外するのを憚れるような殊勝な趣味があった。あなたは、高校生のくせして自分より2倍、3倍も年上の女性、つまりは熟女を嗜む趣味があった。鞄の中に入っている物とは、そんな熟女の裸体の隅々までがオープン状態になった世界を楽しめる本だったのです。こんな物は先生どころの話ではない。親兄弟、友人含め、誰に知られても不味い。だがその本は全てが合法だ。写っている素晴らしき裸体は、撮影した物を本にしても良いと正式に契約を結んだ女優達が産んだ芸術だ。裏ルート入手でもなく、どこの本屋やコンビニにも並んでいる。一般販売された一般人が購入して全く白なお宝だ。にも拘わらず、それはそれでタバコ以上に所持している事が他にバレたら不味い。あなたは焦る。あなたがそれを所持しているのを知っているのは、今日あなたがこれを返すはずだった本の主、名はよしゆき君のみ。あなたが青い顔をして焦っている理由を知るのは彼だけだ。教室の中で、あなたとよしゆき君だけが異常に心拍数を上げている」
警官の首を見ると冷や汗が流れるのが確認出来た。今は12月半ばだ。
「鞄の中身の提示拒否は、先生からすれば全部黒だ。でもあなたは、よしゆき君は、絶対にソレが第3者の目に入るのを阻止しなければならない。よしゆき君は震える。友を、そして本日手元に帰ってくるお宝を守らねば。だが、何が出来る?アクションを起こした時が黒だと判断される時だ。よしゆき君は、あなたの起こすアクションに全てを賭けた。あなたはどうした?どうするべきだ?いや、どうしたい?」
警官は恐る恐る口を開く。
「逃げる……しかない」
「そうだ!それが正解だ!当たり前の羞恥心を持ち、自身の精神の領分の安全を願う人間ならきっとそうする。あなたは正しい!」
ここで話は終わった。
15秒が経過する。
警官は落ち着きを取り戻した。
「で、その中身は?」
「つまりはそうだな~。先の例に漏れず、僕の性的趣向の根幹を現すアイテムが入っている。例え母親であろうとも、そこへ立ち入ることは許されない男の聖域があるんです。そこは常に定員1名の世界であり、僕が死ねば消滅する。徹頭徹尾他者の侵入を許さない防衛システムの庇護の下にある世界なのです」
警官は、それなら仕方ないと結論付けてこの場を終わらせるしかないと判断した。
「ところでお巡りさん。地球にこれだけ人間がいる中、どうして僕一人だけを選んで不審尋問を行ったのです?」
「それは、その旗が……」
警官は男の頭上を指差す。
男のリュックの口からは棒が伸びている。その棒にくくりつけられた布は風に靡いている。布生地には、下手くそな字で「おれが地球一!」と記されていた。
「はっは、なるほどね。確かに地球に一人だけの男だ。だから選ばれたってか」
男は笑いながら警官に背を向けると、また歩を進めるのだった。
この仕事をしていると常々思う。街には本当に色んな人間がいる。それも増えては減ってを繰り返すから、現場に出続ける限り新しい発見が耐えない。実に刺激的な現場だ。
そう思いながら警官は次の仕事に出るのだった。