第五十五話 楽しいサイクリング 楽しい職務質問
先日、親戚のばあさんにお食事券をもらった。
「ここでご馳走を食べるが良い」と気前良くくれたのは良いのだが、よく知らない店の食事券だった。ネット検索でお店を調べてみよう。
そして分かった真実。すごく遠いぞ。街2つ向こうにある。
車や電車を使えば大して時間はかからないが、俺の移動手段は俊敏なこの足とオンボロの自転車のみ。2つを組み合わせる事で生まれるベストなスピードだって現代文明の利器の前だとノロマでしかない。
車は持っていないし、電車は金が勿体ないし何か嫌だから乗りたくない。そうなると、疲れるけど自転車で向かうしかないな。休みなく飛ばせばだいたい1時間とちょっとくらいで着くだろう。
今日はお休み。天気も超良い。単純にサイクリング日和だ。その先にタダ飯が待っているとなれば、サイクリングはより有意義なものになるだろう。
行くなら今しかない。今しかないと思った時には即断即決で行くのが俺のやり方だ。今日の予定は決まった。
自転車は実にボロだ。だがそれはボディだけの話。購入から15年くらい経つボディはしっかり錆びているが、他の部品は大方交換している。車やバイクほど手入れに神経を使うことはないだろうが、自転車だって割りと多くの部品を使って繊細に組まれた乗り物だと言える。手入れ無しで10年間乗るのはまず無理だろう。あちこちが脆くなって普通に危ない。
タイヤは摩耗するし、チューブも穴が空く。チェーンだって劣化して切れるし、ブレーキパッドはいつしか摺り減って動く車体に静止をかけられなくなる。時間という魔物がしっかりと劣化を進行させるのだ。
だが良かった。小遣い稼ぎに自転車屋で働いた経験があるんだよね。だから整備の事は一通り覚えている。
自転車の整備作業は、油で手が真っ黒になる嫌な作業の割に賃金が安い。だから適当に稼いだら適当に挨拶して社を去ったって訳だ。
ボディはボロでも中身はしっかり上等。そんな俺の愛車は最強の自転車なんだぜ。油をさしているから、ペダルを漕げば軽くて良く走ると実感出来るってものよ。
このボロに見える高性能マシンに跨がり、2つ向こうにある街を目指す。そこでタダ飯を食うのだ。
いざ出発。そしてすぐ思うのは風が気持ち良い事。景色も楽しみ、心を開放して旅を続ける。
そうして数十分走り、目的地の半分くらいに達した時だった。後ろからホイッスルの音がする。バスケやサッカーなどのスポーツで審判が吹くあの笛の音だ。
懐かしいな。昔は血気盛んだった上ルールを随分雑に覚えていたことで、体育の授業でよく反則してはあの笛を鳴らされたものだ。サッカーやバスケでは、ファールを多く出してしょっちゅう退場を食らっていた。紳士精神で臨む競技に向かない人間だったのだなと自分の青春を振り返った。
そんな楽しい青春を振り返っていると、後ろからバイクがブーンと俺を追い越し、俺の前で停車した。バイクに乗っていたのは警察官だった。警邏隊の末端なのだろう。とても疲れた冴えない顔をしていて、人望、出世という概念には遠い存在のように思えた。見た目のみの判断だけどね。
「止まってくださいよ。笛、聞こえましたよね?」とお巡りさん。
お前だったのかよ。近所の子供が吹いて遊んでいたのかと思った。俺も小さい頃にはじいさんからもらったフエラムネや本物の笛でピューピュー喧しい音を轟かせて愉快な青春を送ったものだ。警察も審判みたいに笛を吹くのだな。初めて知った。というか警察官をあまり見ないし、思えばこうして面と向かって話すのも初ではないのか。ちょっとワクワク。
「随分年季の入った自転車ですね」
警察官は俺の自転車に興味津々だ。こいつ分かっていやがるな。いいだろうコレ。クラシックカーとか好きな人なのかな。
「鍵がついていないし古いから気になって声をかけたのですが」
鍵はオプションだものな。本体に固定型の鍵は高いのでオプションから排除し、ホームセンターの300円の輪っかの鍵を使っている。
「防犯登録を確認しても良いですか?」
これってどういうことなんだろう。
確認と言われてもそれを良しとする理由もなければ、駄目と断る理由もないんだよな。どうしようか。
「どうしようか?」と聞いてみる。すると警察官は困った顔をしていた。
すぐに終わると言うので調べてもいいよと許可した。
「身分証明書を持っていますか?」
「はぁ?」
「免許証があれば良いです」
「いつから自転車に乗るのに免許証がいるようになったのですか?こっちは三歳くらいから無免で乗っているよ」
警察官はポカンと口を開けたまま2秒くらい固まった。
ちなみに車の免許は取っている。しかもミッション車でだ。父親がミッションでないと舐められるからと言ってこちらを強く勧めた。そんな事を言っているのをまた別のヤツから舐められるっての。時代はオートマチックだ。
「いや、そうじゃなくてですね。無ければ保険証とか自分の名前が書かれた物を」
無い。タダ飯を食うだけの旅なので、何かあった時の備えくらいに1000円札2枚と小銭がちょっと入った財布しか持っていない。
「そうですか。困りましたね」
自分がどこの誰かなんていちいち他人様に吹いて回る必要はないし、ビデオ屋の会員になるわけでもないのに免許証なんて持ち歩かないぜ。
「まぁ自分が何者なのかっていうのは、他でもない俺自身で答えを探している途中なのさ。この人生を賭けてな」と格好つけたことを言っておこう。
これを聞いて警察官は苦笑いを浮かべた。ウケが悪いなぁ。
ここから謎の質問タイムに入った。
足を止めることになるが、結構面白いから良いか。それに警察官と喋れるなんてことは、悪さをまるでしない俺の人生では滅多とないことだ。この際色々喋っておこう。
「どちらに行かれるのですか?」
「飯を食いに」
「どちらにお住まいで?」
「市内の〇〇ってところさ」
「え?そこからここまで?ご飯を食べに行くにしては遠くないですか?」
確かにちょっとそこまでっていうなら家から離れすぎている。でもこれはちょっとの冒険ではない。
飯を食う最短ルートを求めるなら自宅で自炊がベストだ。がしかし、人はそれでは満足できない。遠くにはもっと美味い物を作る鉄人がいるのだ。たまにはそういうところに行きたい。それも一層安く美味しいものを出す人間を目指して。俺はタダで食える場所を目指すのだ。少しの苦労もなくそこまで到達しようというなら考えが甘い。
「何言ってんですか。遠いも近いも無いよ。俺がどこに住んでいようが、お店は昔からその地にドカンと建てられているんだ。こっちが望んだって向こうから会いに来てくれるはずがない。どこにあろうが、食べたいなら何をしてもこちらから向かうしかないでしょうが。遠い近いの文句なんて言ってられない」
タダメシ喰らいの矜持を反映した熱弁を食らわしてやった。
「はぁ……」とだけ反応があった。薄い。
ちょっと考えると面白くなってきた。ボロいチャリで飯を食いに行くには遠い所まで来ている。といってもまだこの倍の距離が残っているけど。
この状況から警察官は、何かしらの悪さの臭いを感じ取ったのかもしれない。果たしてどんな悪さをしにこんな遠くまで?なにか物を運んでいるのか?そんな具合でいくらでも想像が広がるだろう。
警察官の正義の勘ってやつで俺を引き止め、ありもしない尻尾を掴もうと頑張っているようだ。まぁそれも空振りで終わるけどね、だって俺は悪者じゃないのだもの。
「ぷぷっ」と笑ってしまう。それから言葉を続ける。
「で、なんだと思ったの?俺の事は武器の密輸か、危ない薬の運び屋とか、そんな類の大悪党かもしれないって思った?どうせなら大物と疑われる方が後で家族に自慢できるな~」
そう聞いて警察官はまた困った顔をする。まぁこの気の良いナイスガイが相手だもの。最初は犯罪者な気がしたかもしれないが、話す内にそうではないと思ってきたのだろう。
「こちらにずっとお住まいで?学生さんですか?」と次の質問。
「おいおい、住処はずっと同じ所だけど、卒論を仕上げて教授の前で報告発表してからもう10年以上が過ぎるぜ」
俺は留年なしのストレートで大学を出ている。少なく見積もって齢30を超すことになるわけだが、まだ学生扱いかよ。
「え。ちなみにどの学生だと思ったの?高校?大学?」
「高校生かと……」
まぁ動きやすいサッカー部みたいなジャージを着ていたから無理もないか。
「これは失礼しました」
「いいよ。ガキに見られると舐められるから良くないけど、ジジイに見られるのと比べたら高校生に見られる方がずっと良い」
実は年齢よりうんと若く見られるのが嫌いではない。
「お巡りさんもご飯はこれから?」
「はぁ、そうですね」
「結構お昼の時間に入っているけどまだなのか。お疲れさんです」
お仕事を労っておいた。
盗難車報告が入っていて、盗まれた自転車の番号と俺の自転車の番号がもしも一致したなら、泥棒を見つけてお手柄というのがベストな流れだったのだろう。これで俺が泥棒だったらボーナスとか出たのかな。でもそれは空振りに終わった。警察官は一層疲れた顔を見せ始めた。
お前と話すと疲れる。父と兄からよく言われるんだよね。今も警察官を疲れさせたのもかしれない。そろそろ解放してやろう。
「じゃあそろそろ行くよ。これからも住みよい街づくりをよろしく!」
警察官と別れてまた自転車で走る。
そういえば今のが職務質問ってやつなのかな。大した事を聞かれていないし答えてもいない。人生初の職務質問だったようだ。
「だったら良かった~」
実はこの俺、趣味でその日にあった事を日記にまとめることにしているのだ。それも音声で。手書きは面倒だからな。どういう事かというと、ボイスレコーダーで音を録る趣味というか日課を持っている。
たまの遠出で、もしかすると素敵に面白いイベントに遭遇するかもしれない。そう思った俺は、自宅出発時から録音開始状態にしたボイスレコーダーをズボンのポケットに入れておいたのだ。さっきの職務質問もばっちり録音出来ている。こいつで2時間くらいは録音出来るのだ。
その日は遠い店まで無事辿り着き、タダ飯をしっかり食って帰ってきた。すごく疲れたが美味いし楽しかった。体をたっぷり動かしたことで言い得ぬ爽快感も得た。総じて良き旅だった。
家に帰ってからは、職務質問内容を再生して兄に聴かせた。すると「しょうもないなお前」という感想が帰ってきた。