第五十三話 水から飛び出た緑色の使者
よーし、今日は楽しく渓流釣りだ。
「キャッホー、最高!」と嬉しい叫びが口から漏れ出て、心は激しくバウンドする。
ギャルでも魚でも釣るなら断然アユってね。なので今日はアユをゲッツするためひたすら竿を振るぜ。
あぁ、それにしてもなんたる開放感。そこから来る高揚感。これだから魂の安息地、横に「=(イコール)」を置いて渓流は凄まじく良い。
紳士服という名の拘束具を身にまとって都会を飛び回る普段の自分が、いかに巧妙に作られた偽物かということがよく分かる。そのくらい、ここには真実の俺を呼び戻す偉大なる何かがある。
作られたビッグシティとモノ作りの概念なき天然の遺産とでは、こうも荘厳さが異なるものなのか。置かれた環境によって人の心のあり方も変わるものなのだなぁ。
こうして自然を肌で感じて惜しみなく感動の念を抱く。これも俺の趣味。そんな大いなる時間を邪魔するノイズが耳に入る。
「なんだ、うるさいな。釣りは静かに、アユとはサイレントコミュニケーションで、それが出来た釣り人のマナーだぜ」
まだ見ぬアユとの出会いを楽しみにノイズの出どころに目を向けて見るとあらびっくり。
「ぶはぁ!ぶぁぁは!ヘルぷぅあは!ペルプスハァ、ミ~」そう言っているのは、川の中でバシャバシャやっているおっさんだった。
察しの良い俺にはよく分かる。これは溺れているぞ。そして水を飲み飲んで聞き取りづらいが、どう見ても日本人のおっさんがこの期に及んで「ヘルプミー」と英語を叫んでいる。学校の英語の先生なのか、はたまた死にかけ間際になってもなおアメリカかぶれのウザいキャラ性で行きたい困ったさんなのか。
まぁとりあえず助けようか。あんなにジャバジャバやってるおっさんがいたらアユも河童も逃げる。
「とぅ!」
小学校の郡大会でそこそこ良いところまで行った記憶がある俺は、掛け声と共に鮮やかに飛び込んだ。すると感じるのは、スッと肌を包む自然が生みしH2O。このヒンヤリ気持ち良い感じは悪くない。
おっさんの所までたどり着いた。まだ沈んでなくて良かった。
「ぷわっぷぁ!マジ!ガチの!ヘルパぁす!」
何か叫びながらおっさんがこちらに抱きついて来た。
「わぁ!待てって暴れるなこら!助けてもらう側なんだから大人しく助けられろ!」
溺れるおっさんは藁だろうが偶然訪れたナイスガイだろうが、とにかく手が届く範囲にあるものは何で掴みにかかる。その実情が分かった。
おっさんは生きるために必死。パニック状態で俺に掴みかかり、沈んで行く己の体に浮力を与えようとしている。その気持ちは分かるが、そうなると次には俺の体が沈んでしまう。
助けようにもこんなに暴れられたら思うように行かない。救助は捗らず、俺達はくっついたま水の中でジャバジャバやっているしかなかった。
そうしている内に俺の体にも負荷がかかり、事態は最悪の展開に陥る。
ピキリと心当たりのある悪寒が走った。それが何かはすぐに分かる。
「いたたた!」
やっちまった。足をつったぞ。おいおいアユを釣りに来たのに、足をつって沈んで終わりなのか。
浮いていられなくなり、おっさんよりも先に俺の体が沈む。
「ちょっと待った~!」
なんだ。俺、おっさんの二人しかいない水の中で第三の声が響く。
目の前を見ると、一瞬の間に新登場した異質な何かがあった。
それは人型をしているが、肌は緑、背には甲羅を背負っている。髪の毛は女みたいに長いが、顔はおっさん。そして頭の真ん中には毛がない。
「沈むにはまだ早い。僕の動きを真似して。体をこうして、水の中で寝転ぶ感じ。そんで足はちょっと折り曲げて、八の字の動きをイメージして手を動かして水を切る」
緑のおっさんが言うので真似てみる。するとびっくり。
「ねっ、浮くでしょ。これはなんとかって言うシンクロの技でね、上手いこと体勢を整えて手で水をかけば足をバタつかせなくても沈まないんだよ。すごいでしょ。足をつっても手でなんとかなるものだよ」
確かにすごい。浮いている。真似したら案外出来るものだな。しかし安心している場合ではない。だっておっさんは今にも沈みそうじゃないか。
「あ、ホントだ。意外に出来ちゃうものですね。浮いちゃってる」とさっきまで沈んでいたおっさん。
なんでおっさんも出来るんだよ。
「いいかい君達、渓流ってのは、透明過ぎて逆に水深が分かりにくくなるものなんだよ。だから気をつけて。それから救助に来た君は偉い。でもね、溺れる者はとにかく何でも掴もうと必死のパニック状態なんだ。だから向かい合っての救助は良くない。後ろに回り込んでこう抱きかかえる」
緑のおっさんは俺の後ろに回り込むと、俺の両脇に腕を回してがっしりと抱きかかえた。
「こうすれば暴れ回る相手に攻撃される、こちらも沈まされる危険が減る。これでまずは落ち着かせて、あとは陸まで引っ張っていけば良い。命のやり取りはいつだって慎重にね。油断すれば簡単に落として終わりに出来るものなんだ。助ける方も助かりたい方も、とにかく落ち着いてまだ残っている命の灯火を見つめるんだよ」
謎の緑のおっさんから水中の人命救助テクニックを伝授された。そして死生観にも触れる深い小話も聴けた。
「へへっ、すいやせん。足が着かないってだけでこんなに心細く、そして恐ろしく感じるものなのですね。地に足をついた人生をって田舎の母ちゃんがいつも言っていた本当の所がわかりやした」
助かった途端ベラベラ喋るおっさんだな。
「ふふっ、それでいいのさ。僕はそんな美しくも恐怖たっぷりの水の世界から来た平和の使者で、暇があればこういう事をやって回っている者さ。では縁があればまた。無論、地上ではなくこっちの世界でね」
ちゃぽんという静かなる水音と共に、緑のおっさんは水の中に消えた。しばらく待っても顔を出すことはない。
「ふぅ、あなたにも迷惑をかけた。どうもすいやせん」
「いえいえ、ただちょっと聞きたいことが」
「なんです。陸に戻るまでちょっとある。何でもどうぞ」
「あなた、職業は英語教師とか、それか英語を扱うグローバルな何かとか?」
「いえ、私は田舎の端っこで電気屋を営む漢検しか持っていない閉鎖された日本人ですよ。グローバルだなんてそんな~、はっはは!」
閉鎖された日本人がヘルプミー?
というか閉鎖された日本人って生涯初めて聞くワードなんだけど。
そんな訳で俺達はちょっとずつ陸へ向かって移動し、再び大地を踏むことが出来た。
釣りはとても楽しい。しかし釣りをする場には必ず水がある。水は人類と親しい関係にある大事なものだが、一方であらゆる命を飲み込む恐ろしさも持っている。そこのところを心がけ、安全に趣味を楽しもう。
ちなみにこの日、お目当てのアユは釣れなかった。