第五話 ヒロセ、怖い
とある大学にヒロセという男がいた。ヒロセはいつもぼぅ~としていて、何を考えているのかいまいち分からない男だった。実はこの手の無害なように見えて、心の内が分からない者が一番怖かったりする。
ある日のことだ。ヒロセと同じ学科にいた古竹は、ほんのいたずら心から、ほんのいたずら心が産んだにふさわしいちょっとしたいたずらをヒロセにしかけてしまった。本当にちょっとしたいたずら心だったから、その後にちょっとした騒ぎになるなんて古竹は全く予想しなかった。
ヒロセは講義後の休憩時間になると机に突っ伏して寝始めた。同時に、同じ講義室にいた天達もヒロセと同じ体勢で寝始めた。大学生とはたくさん眠りたい時期にある人間達なのである。
二人の間の席にいた古竹は、寝ている二人を見ていたずらをしかけることにした。古竹は器用なのでいたずらのセッティングは実に鮮やかに終わった。
やがて休み時間が終わり、次の講義が始まる時間となった。
天達が目覚めると、ズボンのベルトを通す穴に自分のものではない謎のハサミが引っかかっていることに気づいた。
「なんだコレ?誰の?」天達は当然の疑問を口にする。
天達がハサミの持ち主を探して騒ぐ内に、ヒロセも眠りから覚めた。まだ眠い中、耳に届くのはハサミの話。なんとなしに振り返って天達が持っているハサミを見ると、それは自分のものだと気づいた。しかしなぜ自分の筆箱の中にあったのを天達がもっているのか。まぁ良い。返してもらおう。そう思ってヒロセはそれは自分のだと名乗り出た。
これはもちろん古竹の仕業だった。寝ている二人の間で持ち物を移動させる。たったそれだけのことだった。後から当人同士が気づいて元の位置に戻せばそれで終わり。しかし意外にもここからいたずらは予想外に発展の形を迎える。
天達にもまたいたずら心があった。天達とヒロセは顔を知り合うくらいでこれといって普段から絡みを持たない仲だった。天達はヒロセのことを大人しく、地味で、あまり騒がないタイプの人間だと思っていた。そういう安心があり、見た感じで華を持たないヒロセのことを暗黙の内に見下していた。だからなんでここにあるか分からないハサミをネタに今度は天達がヒロセにいたずらを仕掛けることにした。
「おい、なんだこれ?なんでここにあるんだ?」
「知らない」とだけヒロセは答える。そしてハサミを取りに行こうと席を立ち上がった。
「なんでここにあるんだ!お前がやったのか?誰が悪いんだ?」天達も一時のノリオンリーでヒロセに絡んで困らせよう、ちょっと脅かしてやろうとくらいしか思っていないので、何か考えて話すでもなく、ヒロセこそが悪いみたいな空気を作るためだけにニヤニヤ笑って話した。
ここまでは騒ぎの根っこを握る古竹も笑ってみていた。だが、これ以降は空気が変わるのに驚くのだった。
次の瞬間、ヒロセは眠い目をカッと見開き大声で話し始めた。これまでのぼぅ~とした男から明らかにチャンネルが切り替わったと古竹は気づいた。
「はぁ?いやいや、なんで人のハサミを持ってるんだよ?勝手に取ったのか?てめぇ、そこを動くなよ!」
普段のヒロセの話すボリュームとテンポではない。というかこの大声、このやや速いテンポの喋りが出来たのだと古竹も天達も意外に思っていた。
ヒロセはぐんぐんと天達に迫る。天達は冗談を本気に取られたことで逆に自分がビックリさせられている。ヒロセの顔は怒っているようにしか見えず、このまま行くとハサミを取った取らないくらいのことで殴りかかるのではないかと思えた。その心配がよぎったから二人をいたずらにはめた古竹は遂に自白して二人の間に割って入った。自分がやったことで、どっちが取った取られたの話ではないと古竹は謝罪も含めて告白した。古竹はヒロセの胸を押して、天達への接近をなんとか止めようとしていた。これでもしもヒロセが殴る、天達が殴られるの事件になれば自分の立場が危うい。そしてなにより大学生にもなってこのレベルのいたずらのために処罰となると何をどう考えても色々やばい。古竹はこの時深く反省していたのだ。
「な~んてね!うそう~そ冗談」ヒロセの口から信じられない言葉が飛び出た。
こんなに一瞬で表情を変化させることができるものかと古竹は疑った。気の抜けた言葉を喋りながらヒロセはへらへらした顔をしていた。
そんなへらへら顔のままヒロセは天達の手にしているハサミを回収すると席に戻る。
講義室にいた全員が三人のやり取りを見ていた。声がしない。
古竹も天達も口をぽっかり開けたままだった。ヒロセはやはり色々読めないところがある。
古竹も天達もその他に見ていた多くの人間も、ヒロセが本気で怒っていると思った。もちろんヒロセがこれまで感情を激して話す姿など誰も見たことがない。絶対にヒロセなら怒らないと踏んだからこそ、古竹も天達もいたずらをしかけたのだ。それでこの結果だからそれは驚く。
通常モードのぼぅ~とした読めない部分、いたずら初めの怒り、そして最後に急に見せたへらへら顔、どれがヒロセの本性か分からなくなった。いずれにせよ、これだけの人間が見ている前で芝居だろうがあのパフォーマンスが出来るのはいろいろとおかしい。ほんのいたずらでヒロセに絡んだ古竹と天達は、底が知れないヒロセのことを思うと、恐怖するというより不気味になるのであった。分かりやすい不良よりも、言動から真意が見えない謎ある人間こそが怖いと思った古竹と天達だった。
この騒ぎは本当に短い時間で済んだもので、内容だってなんてことのないいたずらに過ぎない。それでも見た目だけでは分からない不気味な感じがしたので、その他大勢に混ざって騒ぎを見ていた私は、未だにこのことをよく覚えている。