第一話 蜘蛛の糸が垂らされるエッチな条件
貴子は街の皆が知るハイスペックなオフィスレディ、今時風に表記するな「OL」である。
そんなハイスペックなしっかり者の貴子だが、河童が川に流され、猿が木から落ち、弘法大師が筆を誤るがごとく、うっかりな一面を見せることだって極稀にある。そんな彼女が極稀に見せたうっかりな物語を綴ろう。
ある日のことだ。実は冒険家の一面も持つ貴子は、一体誰が足を踏み込むことがあるのだろうというくらいに深い山奥を探索していた。その先で貴子は、自然が産んだ悪意なきトラップによって身動きが取れなくなってしまったのだ。
「お~い誰かぁ~誰かいませんかぁ~」貴子は大きな声で叫ぶ。しかし、心の底では人里離れた極地のこんなところに誰がいるものか、ここで返答があればそれはそれでおかしいと自らの言動にツッコみを入れていた。
「まさか岩と岩と間にこんなに深い穴があったなんて、自然が産んだ落とし穴ね、恐ろしいわ」
岩の多い地帯を抜ける途中、岩と岩の間にすっぽり空いた大きな穴に不覚にも落ちてしまい、貴子はかなりのピンチを向かえていた。自力で上がるのが可能と思える深さではない。登るアイテムもなく、外部からの協力がない限りはどう考えても脱出不可能だ。
「くそ、携帯も圏外。こんなところからかける者があるとすれば相当に進んだ猿くらいよね。ははっ」
コミカルな一人ボケをやってのけているが、これは恐怖を紛らわせるための空元気芝居でしかない。オフィスでは無敵の彼女も、そこを出ればか弱い乙女に過ぎない。大自然の中で完全なる孤独状態にある、ただの乙女がこれに耐えられる限界時間はどう考えても短い。
何時間経っただろうか。穴の中は暗いが上から光が射すので足元くらいは見える。その光も少なくなってくる。夜が近づいているのだ。こんなところで夜を過ごすなど貴子には恐ろしくて震えが来た。非日常が日常での貴子の冷静さを掠め取って行く。彼女は徐々に平静を失って行った。
「誰か、誰かいないの!お願い!たすけて~!」叫びながら貴子は、携帯していた自撮り棒を岩壁に叩きつけ、自分はここにいると誰とも知れぬ誰かに向かって合図する。しかし人の声は返ってこない。貴子だって大きな期待はしていない、しかし叫んででもいないと心が落ち着かなかった。
「こんな所で死ぬの……?」
穴に落ちて半日と経っていない。しかしそれにしては「死」がやけに身近なものに感じられた。まだ時間は経っていないが、こちらから助けを求める手段がない。一人暮らしで気ままに趣味をやっている貴子が今日この山に来ることを知っている人間は他にいない。そもそも捜索が始まらない。最悪の場合死んでも死体が見つからないかもしれない。誰がこんな山に当たりをつけてやってくるのか、亡骸すらこのまま何年と発見されない惨めな最後を自分は迎えるのか、そう想うと貴子は怖くて泣きそうになった。
そんな恐ろしい妄想がストップする出来事が起きた。音がする。外からだ。岩の上を確かに人が踏みしめ、こちらに近づいている。
「誰かいるの?」貴子は喜んで叫んだ。
穴の入り口から差し込む光が途切れた。何者かが顔を出してこちらを覗いたからだ。
「その誰かってのが私のことを指しているなら、ここにいるとお答えしたいですね」男の声だ。哲学めいた謎の答えが帰ってきた。
「よかった!人がいた!地獄に仏ね」貴子は心底喜んだ。
「待ちなさい。そこが地獄というのなら、まだ私が仏の役をするかどうか定かではない」
はて、この男は何を言ってるのだろうか。そう思って貴子は口を開けたまま穴の入り口を見上げていた。
「出られなくて困っているの助けて」
「ふむ、職掌柄私はこうして頑丈なロープを持ち歩いているので助けるのは容易なことだ」
何だかわからないが道具もある。ラッキーだ。
「助けてください!」
「うむ、よかろう。ただし条件がある。ちょっと待っていなさい」男は待てと言うとしばらしくてなにかを穴に投げ込んだ。
「いいかい、上下の服を脱ぎ、そこに入れなさい」
「はぁ?」これには貴子もビックリだ。男はロープに笊をくくりつけて落としてきた。この状況で服を脱いでこれに入れる意味が分からない。
「あの何の意味が?」
「それは求めるな。今はここから抜け出ること、つまりは迫る死から安全圏へと避難することのみを考えなさい。こちらの言う通りにすればまず助かるのだ。こっちだってこんなところで死にそうになっている者を見捨てて去るような心ない真似は出来やしない」
男の言うことの意味は分からない。誠実さを感じるのかと言えばそうでもない。だが、今の貴子はなりふりかまっていられない状態だった。助けてくれるのなら言う通りにする。心に待ったをかけるものはなかった。
貴子は服を脱ぎ下着姿になった。そして笊に服を入れる。笊は上に上がり、男の手に返っていく。
再び穴の中にロープが投げ込まれた。男は上から懐中電灯を照らしている。
「これにて蜘蛛の糸の完成だ。さぁ何の迷いもない。途中で切れる心配もないから安心して登ってきなさい」
男はゆっくりと話し、その声は落ち着いた優しいものだった。貴子は助かると分かると、得意の木登りの技術を発揮してロープを登った。男はその姿を上から見ている。懐中電灯に照らされた先には、若き乙女が下着姿でロープを登る姿が見えた。これは決して悪い景色ではない。
「はぁはぁ、よかった。助かった。ありがとう……」久しぶりに外の世界に出て全身を新鮮な空気で覆う快感を得ながら貴子は男に礼を言ったのだが、言葉が途中で途切れた。お礼をいう相手の姿がないのだ。
「あれ、あの人は……?」
辺を見回すと、近くの頑強な岩にロープがくくりつけられ、岩の上には貴子の服が置かれていた。山の夜は下着姿では冷える。貴子は服を着ようと手に掴む。そして服の下に置かれていたポテチを発見した。
「どういうことだろう?」
不思議すぎた。男は姿を消した。ポテチを残して。体力が削られた状態の自分への回復アイテムとして置いていったのだろうか。気の利く男だ。
時刻は夜だったが、ポテチを食って僅かな回復を終えると貴子はなんとか山を降り、無事家に帰ることが出来た。
後日、貴子が会社で昼休みを過ごしている時のことである。貴子達OL軍団がテレビを見ながら昼ごはんを食べているとテレビからこんなニュースが聞こえて来た。
「連日世を騒がしている不審者についての情報です。この不審者は、建物の上からロープにぶら下がって若い女性の部屋、主に着替えシーンを覗くことを常としています。また、隙あらばベランダに干した女性用下着も奪っていくということです。犯人は依然捕まっておりませんが、先日〇〇山付近で、犯人が用いたものと同じロープを抱えている普段着姿の人物を見たという情報が複数寄せられています。〇〇山付近にお住まいのうら若き女性の皆さんは今後の生活に注意してください。以上、身近な犯罪者お知らせニュースでした」
「あぁ!」と一声上げると貴子は勢いよく椅子から立ち上がった。一緒に食事をしていた同僚達は何事かと思って貴子に視線を集めた。
まさかな……先日自分が入った山だ……不審者ロープ男の仕事道具があの蜘蛛の糸だったのでは……
貴子は色んなことを思ったが、真実はそれこそ蜘蛛の糸が垂らされる地獄の奥に閉じ込められているのであった。