第2章
「お疲れ様でーす」
「はい、気を付けて」
寺田さんに変なことを突っ込まれた以外は特に問題も起こることはなく、仕事は終わりを告げた。あるものを手に入れるためにホームセンターによる。それから自宅に帰った。
「ただいま」
「おかえり」
母さんが帰ってきているようだった。母さんの仕事は昼過ぎには終わる。だから帰ってくるのは一番早い。
食事を食べてから、風呂に入ってからはすることもないので寝ることにした。夜は早く寝て睡眠時間をとるのが一番いい。九時過ぎくらいだからちょうどいいんじゃないかな
「おやすみおばあちゃん」
「はいおやすみ」
おばあちゃんは寝なくても済むらしいけど、暗い中で座ってもらうのもあれだから寝袋を用意しておいた。
「……」
寝ようと思ったけど眠れなかった。疲れているはずなのに眠くはならない。それを察してかおばあちゃんが話しかけてきた。
「ねえゆいくん」
天井を見つめているとおばあちゃんが口を開く。暗い世界に音が響いた。生者くをつきゃぶる音の振動。それだけで世界は広がっていくのだ。不思議なものである。誰かが隣にいるというのは。
「起きてるよね」
「うん」
まず確認してくる。寝てしまっていたら多分話はそこで終っていた。けど眠れないがゆえに話が成立しているのだ。おばあちゃんは昔からあんまり眠れないし眠らないといっていた。ただそれは夜の話であって、普通に昼寝はしていた。
「お祖母ちゃん提案があるんだけどさ」
「なにかな」
「明日はお仕事あるの?」
「休みだよ」
それを聞いておばあちゃんは一瞬黙る。何かを考えている。
「じゃあさお弁当を作ってみない?」
「お弁当?」
「そ、つくり方教えてあげるから。やってみないかい」
前だった断ってた。だけど今はやってみようかという気持ちになっているのも事実。眠いから判断力がそこまでないっていうのもあるかもしれない。けれどそれ以上におばあちゃんの存在がある。いつまでいるか分からないのだから。今いるのは若い姿だとしても、それはきっと永遠ではない。ある日突然別れがやってくる。ならばとる答えは一つだけ。
「やってみるよ」
「じゃあ決まりだね。大丈夫、最初からむずかしいものは作ったりしないから」
「なら明日は早く起きないとね、お休み」
「はいおやすみ」
目を閉じて、ラジオのスイッチを入れる。お決まりの文句と軽快な音楽で番組が始まった。寝る前に聞くのが習慣になっていた。別に有益な情報があるわけでもない。でも夜中に聞くラジオなんてそんなものだと思う。安眠のための補助的な役割尾果たすためのもの。流れている音楽とは裏腹に穏やかな内容に耳を澄ましながら徐々に意識があいまいになっていく。そして気が付いたら僕は寝ていたのだ。
3
朝になった。休みというだけで心が楽になっているというのは素晴らしいことだ。いくらか仕事が楽になった後もそれは変わらない。両親が出かけたのを見計らって一階に降りていく。まだ時間は朝八時くらい。早いっていうほども出ないのだが弁当を作るとなると話は別。料理なんてあまりしないのだからどれくらい時間がかかる分からない。
「玉子焼きと野菜炒めにしようか」
おばあちゃんがキッチンに立つ。見慣れた風景ではある。小さい頃からおばあちゃんが料理を作る風景を見ていたから懐かしい気もするのだ。
作ったお弁当を持っていく先は市民公園だった。僕の家から電車に乗って大体30分くらい。図書館とはまた反対の方向で開発エリアの先端あたり。電車はその先まで走っていて山の中まで線路が伸びていた。ハイキングとか登山で訪れるようなエリアなのでおいそれとは生きづらい。聞いた話によるとケーブルカーで山に登れるらしいけど、そこから先にもまだ登らなくてはいけない。ただ山頂からは市内一帯を見渡す絶景が見られるとかいう。それを目当てに他県からもいろんな人がやってくるのだ。土休日には山へと向かう電車は観光客で満員だ。特急電車も運転されていることから盛況ぶりがうかがえる。 ここら辺のニュータウンは戦後になってから切り開かれた街並みであるのだがこの山だけは、江戸時代から人気があったのだ。霊峰
として知られており由緒ある地の名で古文書にも載っている。
「ここらへんでいいかな」
芝生の上に腰かける。世間的には今日は平日なので、公園にはあまり人もいない。ここら辺オフィス街でも官庁街でもないので昼飯を食べに来る人もいない。いるのは子連れの親子くらいだ。緑色の芝生が目に染みる。もう少し時間がたって午後になれば来る人の層ももう少し変わり始めるのだ。学校帰りの学生とか、サラリーマンとか。ベンチに座っている人の中にはたまにサラリーマンが時間つぶす目的でいるみたいだけど。
「いただきます」
「はい」
おばあちゃんは食事が必要がないので、僕の隣に座っているだけ。暇だったみたいで部屋にあった漫画本を持ってきていた。生前はその手のジャンルにほとんど興味がなかったはずだから読んでいるのを、見たことがない。子供の時に少しだけ読んだことがあるって言ってたけどそれっきり。何でも僕の部屋に置いてあったのを読んでからのめりこんだという。人生に周目があるとすれば、おばあちゃんはきっとまた別の人生を歩んでいたのだろうということが容易にわかる行動だった。
「おいしいね。おばあちゃんがつくり方を教えてくれた玉子焼き」
橋でつまみながら感想を述べる。甘味は少ないわけで、そもそも僕の味覚に合っているのは多分小さい頃から食べなれているものだから。おばあちゃんが僕が食べている様子に口をはさんだり話しかけてくるなんてこともないから、黙々と食べ続ける。
「ゆいくんは絶対に残さずに食べきるよね」
空になった弁当箱を眺めながら、おばあちゃんが言う。いつの間にやら漫画は読み終わっていたみたい。
「普通でしょ」
「好き嫌いが多い大人も結構いるんだよ」
「そんなの些細な問題だって」
正直、結果が残せれば何をやってもいいわけで。それに結びつかないことなんて正直無駄だ。僕は役に立つようなことがなにもなかった。どうでもいい方向に延びた能力。一体どうしてこうなってしまったのやら。
「寝るね」
「風邪ひかないように気を付けるんだよ」
芝生の上に横になる。温かいけど油断はできない。上着を自分の上に置く。これである程度はましになる。竹が長い上着を持ってきたので結構役に立つのだこれが。横になって目を閉じてみたのだが、眠れそうにない。こうやって適当に何もしないっていうのも多分悪くない。
「西崎君?」
お弁当を食べて横になっていると話しかけられた。人違いかなと思って無視してたらおばあちゃんに小突かれる。面倒だなと思ってまだ眠る。そしたら首筋を指で思いっきり刺された。凄い痛い。
「なにするのさ」
「ゆいくんのことでしょあれ」
飛び起きて正面を見ると、女の人が立っていた。目を閉じてたせいで若干焦点が合わない。ぼやけている目を何とか正常に戻す。
「……」
こちらを見て笑っている。美人というべき綺麗な人だ。けど僕の知り合いにはいない。誰なんだ、分からない。けど僕のことを知っている。
「ゆいくん、もっと近くに行ったら」
「えー……」
おばあちゃんの提案は乗る気にならない。そもそも知らない人の間近には行きたくないっていうか。
「私のこと分からないのかな。じゃあこの呼び方なら分かるかな、ねえゆーりん」
「ゆーりんって」
記憶を辿る。しかし辿るまでもなかったかもしれない。この名前で僕のことを読んでいた人間なんて一人しかいないのだから。
「佐伯さん?」
疑問形になっているが、ほぼ確認レベルだった。ゆーりんというあだ名で呼んできたのは佐伯さんだけだった。油淋鶏が由来だとか言っていたがかなり微妙な由来だと思う。裏ネーミングがあるらしかったけど、当時はそこまで追求するつもりもなかった。だっていくら聞いても油淋鶏の一点張りだったんだもの。
「そ、久しぶりだね。元気だった?」
「まあ普通かな」
一時に比べればまあまあマシな精神状態だった。
「私は大学院言ってたから、二年長く通ってるんだ」
「佐伯さんって専攻なんなの」
「美術だよ。イラスト系の」
佐伯さんと僕が仲良くなった理由はアニメが好きだからだった。接点が一つだけでも人は案外、仲良くなれるものだと思う。
「隣の子は? 親戚かな」
「従姉妹。姉のほう」
「いや、何言ってるのおば」
最後まで言い切れなかった。肘鉄を食わされて、その場に横たわる。なんだか凶暴すぎやしないか、どうなってるのさ一体。
「保護者みたいなものだから」
僕を抜きでおばあちゃんが話し始める。てか姿消してなかったの。どういう理由があって姿を消してなかったんだろう。ていうか僕の眼からだと、おばあちゃんが姿を消しているのかどうかは判断できない。
「面白いお姉さんだね」
「まあ、ね」
お姉さんと来たか。実際は九〇歳超えてるおばあさんなんだけども。知らぬが仏ってこういうことなんだろうね。っていうか真実を言ったところでどうせ信じてもらえる気がしない。
「そうだゆーりん」
早速その名前で僕を呼ぶか。距離感というのは時間すら吹き飛ばす。
「これ興味ないかな?」
肩から掛けていたカバンから封筒を取り出す。取り出された封筒が僕の手の上に置かれた。中身を確認するよう手で促される。
「チケット?」
「そ、展示会。湯口れたす先生っているでしょ」
「ゼノン商会のイラストレーターの」
僕が中学のころから追っかけてる人だ。当時熱中していたライトノベルの表紙とかアニメのキャラクターデザインも担当していた記憶がある。最近も活躍しているはずだ。イラスト全集が発売しているのを本屋で見たし。ちなみにゼノン商会っていうのは湯口先生が所属しているゲームの会社のこと。
「チケットが二枚あってさ、一緒に見に行こうよ。私は土曜日なら、都合がいいんだけどどうかな」
「土曜日か」
その日は確か非番だった。ていうか土日がその日は珍しく連休みたいに休みになってた。けれど決め手に欠ける。いまいちこの返事に皇帝の石を足せないというのか。
「都合悪い?」
佐伯さんが不安そうな表情を浮かべる。中学生の頃はこんな表情見たことなかった。考えてみればそうか、二人でアニメの話をしていればそれで楽しかったんだから。
「いや悪くないけど」
むしろ開いている。しかしどうして僕はこの一歩が踏み出せないのだろう。一緒に行くと行
ってしまえばいい。なのにその一言が出てこない。それを見かねた佐伯さんが次の句を切り出す。恐らくは僕が悩んでいてこの場では答えが出せないと踏んだのだ。
「じゃあさ、電話して」
「うん、まあいいけど」
「行くにしろ行かないにしろ教えてほしいな。これ私の電話番号ね」
といって手帳に走り書きで書いた番号を渡された。僕の番号も渡しておく必要があると思って、カバンの中に入っていたノートに書いて代わりに渡す。ちょっと前までは会社の人にも教えていたから、電話自体が好きじゃなかった。特に知っている人から電話が来ることがあると心臓が止まりそうになるものだったし。
「じゃあ私行くね」
「うん」
「絶対電話してね」
「わかったよ」
歩いていく佐伯さんを見送る。その歩き方は僕が知っていた中学生特有の浮足立ったものではなかった。落ち着いた歩き方。数年あわないだけでここまで人は変わるものだ。僕もきっと変わってしまった面があるのだろう。
「明るい子だね」
一連の様子を見守っていたおばあちゃんが、感想を述べる。それは一面的に見た印象に過ぎないと思う。僕の記憶だとアニメとかが絡まない限り、佐伯さんはすごいおとなしい性格だった。授業でも積極的に発言するわけでもないし、委員長とかクラスの要職に就くとか立候補するわけでもなかったから。
「さて、と」
僕は横になった。そして目をつぶる。もともと寝るつもりだったから。風邪をひかないように防寒対策はしっかりと。おばあちゃんが僕の額辺りに手を置いた。そのままなにかをするわけでもない。なんか昔僕がもっと小さい時、こんな感じのこともあった。昼寝をさせられたんだけども僕が寝ようとしない。そういう時決まっておばあちゃんは僕のことを横にして無言で頭をなでてくれたのだ。そうされていると自然と眠くなっていき、気が付いたら寝てしまうのだった。
「後悔、しないようにね」
おばあちゃんがそう呟いたような気がする。朦朧とする意識の中で聞いたから定かではないけれども。
※
適当に昼寝をしていたらすでに夕方になっていた。とっとと、帰ろう。暗くなってから帰ると色々面倒だから。社会人だから門限なんてものはないけど明日に備えるためにも用がないんだったら早く帰ったほうがいい。
家に帰ると既に母さんが帰宅していてご飯を準備していた。たわいない話をして食事をとり
風呂に入った。別に何もしてないし、疲れてもいるわけじゃないんだけどベッドに入って携帯をいじる。おばあちゃんのために寝袋を用意しておくのも忘れずにしておくこと。
「用意できたよ」
「ありがと」
おばあちゃんには僕が高校の時使っていたジャージを貸した。幽霊だから別に着替える必要なんかないんだけど、それはまあ気分。おばあちゃんが寝袋に入るのを見て僕ぼ、ベッドに入った.。といっても寝るのはまだ先でケータイをいじってる。二人の間を終始無言の時間が流れていたのだけれど。
「ゆいくん」
「なに」
「ただ好きってだけで一緒に居られるのは今だけだよ」
いつものようなおどけた調子なんかではなくまじめな声音で言う。後にも先にもおばあちゃんにこういう接し方をされた記憶はない。何か悪いことをしても、どこか暗くなりすぎずに接してきていたからだ。
「何の話?」
「昼間あった、女の子のことだよ。佐伯さんだっけ、好きだったんでしょ」
「い、いきなり何言ってるの」
突然、言われてしまい戸惑ってしまう。そもそもこういう話を誰かとしたことなんてなかったから。
「そのまんまの意味だよ。佐伯さんと話しているときのゆいくん、いつもと違う目の輝き方をしていたからさ」
そこまで見抜かれていたというか、感づかれていというか。お祖母ちゃんの眼はごまかせないなと思う。年の功というのは偉大なものだ。当時のことを考えてみれば佐伯さんには友情以外の感情があったように思う。
「白状するよ、佐伯さんのことが好きだったかもしれない」
「じゃあ自分の気持ちに素直になりな、後悔してからじゃ遅いんだよ」
「おばあちゃんも後悔したことあるの?」
「いっぱいあるよ。そのうち教えてあげるから。早くした方がいいよ」
気持ちが変わらないうちにね、と付け足してくれた。ベッドから這い出ると発信番号を入力する。電話する先は決まっている、佐伯さんの携帯電話だ。
『もしもし。ゆーりんどうしたの?』
「昼間の話なんだけど、行くよ展覧会」
『本当に? じゃあ一〇時頃に新都心駅の南口に来てね』
「わかったよ」
『遅れちゃだめだよ。じゃあね』
軽快な喋り方になった状態で通話が切られた。これでやること自体は一つ達成した。振り返ると寝袋から出てきたおばあちゃんが、僕の使っている椅子に腰かけた状態で、こっち側を見ていた。
「よかったね」
「おばあちゃんのおかげだよ」
「孫が幸せならそれが一番」
伸びをすると、再び寝袋に潜り込む。寝なくていいとはいうものの、夜には横になっているのが一番落ち着くようだ。
「ねえ、おばあちゃん」
「なんだい」
「ありがと」
「お礼を言われるほどじゃないって」
嬉しかった。素直に。多分僕一人だけだったら電話もしないはずだ。勇気がないしもっと言えば佐伯さんと出会った時に、気が付かずに寝ていたかもしれないし。
「おばあちゃん」
また呼んでみる。
「なに」
「成仏、しないよね」
「これくらいじゃするわけないよ。なんせゆいくんはまだまだ心配の多い子だからね」
ちょっと複雑な気持ちだが、お祖母ちゃんと一緒に居られるのは素直にうれしい。その気持ちをかみしめて僕は本日二度目の眠りについた。
4
土曜日がやってきた。約束の日である。着替えて出かけるのだが傍らにはおばあちゃんがいる。なんか心配だから一緒に来ると言い出した。断るべきなんだろうけど、この手のことを一度決めて覆したためしがないから。無駄な努力はしないことにした。姿を消した状態で近づくっていうし。別にいいか。
「ゆいくん、ファイトだよ」
「絵を見に行くだけだって」
おばあちゃんと過ごす日々はまだまだ終わりそうにない。いつか終わる日が来るんだろうけど。それはいつだか分からない。
願うならもう少しだけ続いてほしいなって。