ファニーヒューマン
とにかく俺は浅い川面に行き、初めて自分の姿を見る。ぴょこんと突き出したふわふわな耳。今にも飛び出しそうな黒豆みたいな瞳。全身が綿毛のようにもこっとしている。
なるほど、確かに典型的なチワワの姿だ。事故の時にいたチワワもこんな感じだった気がする。といっても、視界がぼやけていて細かいところまでは見ていないから、確証はないが。
(それよりも、体を洗おう!)
俺は鼻先からゆっくりと顔を水に浸す。
(さ……、寒い!)
けれど、俺には毛皮のような体毛がある。きっと大丈夫だろう。不潔よりかはマシだ。
少しずつ体が冷たさに慣れていくように、ゆっくりと手・胴体・脚の順番に浸かっていく。あっぷあっぷする。溺れそうになるが、犬掻きだけは昔からできた俺だ。
短い脚でちゃぷちゃぷ水中の小石を蹴り上げながら、不器用ながらにもちゃんと体を洗う。
水中から上がった時、冬の風が全身を撫でまわすかのように、行ったり来たりする。
どうしてこんな抽象的に言うのかというと、さっきから俺のことを見ながら、これまた不器用なギターの音と共に、こんな曲を歌う女性がいたからだ。
あなた捨て犬ね
まるで今の私のよう
夢を黒く塗りつぶす
冷たい風を浴びながら
必死に足を動かし
もがいてる
時に社会は残酷で
幼き夢も露と消ゆ
さよならギター
それでも私は捨てられず
今も必死に
もがいてる
明日はきっと
暖かな光に包まれると
信じて
――長いので割愛。誰もいない河川敷で一人熱唱している。さっき見かけた大学生っぽい女性だ。冷たくなった体でもう一度水面をのぞき込む。
さっきのふわふわ感は消えて、割れた風船のようにぺしゃんこになってしまった俺。毛がなかったらエイリアンみたいだ。
「ねぇ、寒くないの」
背後に影が映る。振り返ると案の定変な曲を歌っていた女性だった。そんなことより暖かいものを恵んでくれ。凍死してしまう。
俺はキャンキャンと鳴きついた。女性のキュロットスカートを濡らす形になってしまったが、命には代えられない。気づいてくれ。俺は今とっても寒いんだ。
「やっぱり。動物でも感情はあるのね……」
(⁇)
俺にはさっぱりな言葉だったが、一応理解してくれたらしい。俺を拭くのにはちょっと小さ目なハンカチを出して、体。主に背中の水分を払ってくれた。
感覚的には美容院で髪を洗った後みたいなスース―した感覚がある。ドライヤー……、は無いか。ここは我慢。
「犬とのセッション。いいかも」
女性はぶつぶつと独り言を呟いている。何か嫌な予感がしたが、寒くて足が震えて動けない。ちょっとまてこれ、低体温症じゃ……。
華奢な片腕で俺がひょいと持ち上げられる。そしてジッと見つめられた。その子の瞳は茶色がかっていて、宝石のようにキラキラしていた。
背中には大きなギターケース。おそらくアーティストとかいう芸能関係にあこがれる乙女であろうことは理解できた。
「行くとこないなら、家に来な。わたしが、冷たい現実に射す光になってあげる」
(……)
正直何を言っているのかがわからない。そしてちょくちょく当たる女性の胸。ふかふかで暖か……、
(いや。俺は美香子一筋! ちょっとチワワになったからって調子に乗るなよ俺‼)
そうだ。この子は夏樹のお姉さん的な立場。そう思おう。決して下心なんてないんだぞ。本当だぞ。あぁ、でも秀一と違って、いい香りがする。さすが女性だ。
「濡れ犬拾った~河川敷ー、これは一人と一匹の~壮大なものがーたーりー」
突然道端で歌いだす女性。まだ生乾きの俺と、変な曲を歌う彼女。周囲の視線が痛かった。俺は耳がいいから色んな声が聴こえる。
「また、ファニーヒューマンの一人ミュージカルが始まった」
「町から出て行ってくれないかしら」
「うるさいなぁ」
など。
なんだ? この子周囲の人から嫌われてるのか。それとも呆れられているのか。どっちにしてもいい声を聴かない。なんだかなぁ……。
しかし、歌っている本人は満足そうだ。鼻歌交じりにスキップを踏みながら俺を家まで運ぶ。
そこは質素なワンルームマンション。外壁は黒く塗られていて、窓が東側にある。どうしてわかるかって? もう夕方で日が沈んでいるからだ。
鍵も簡素なもので、ドアは閉めても隙間風が入ってくる。まるで木造の家みたいだなぁ。
「まずはドライヤーしないと死んじゃうね」
女性はフフッと笑いながら、コンセントにドライヤーを繋ぐ。ブオーという大きな音。女性の細かな指が俺の体毛を優しく解きほぐす。
そして残った水滴を飛ばしながら、手櫛でもこもこに復活した毛を整えてくれた。正直、気持ちいい。いや。嫌らしいことではなく、美容院に行った気持ちってことだからな。
「改めまして。わたし、歩っていうの」
こんにちは、俺の名前は……、って言っても伝わらないか。
「きっと名前無いと思うから今から考えるね。名前は大事だから」
うーん、どんな名前になるんだろうか。そもそもこの子がどんな系統のミュージシャンに憧れているのかがわかれば、予想も出来そうだが。変な名前だけは付けてくれるなよ。
「無限に広がる空。よし、今日から君はソラだ。何色にでも染まれるチワワだよ」
いやー、思っていたより普通の名前で良かった。
これからどんな生活が待っているのだろう。もしかしたらこの子は路上ライブまがいのことをしているのかもしれない。
だとしたら、二人と接触することもあるかもしれない。お願いだ。一瞬でもいい。二人の顔が見たい。今頃どんな生活をしているのだろう。
夏樹は、受験勉強できているだろうか。美香子は一人で家計を回さなくてはいけない。火の車だ。
この子の行動範囲が広いことを祈って、俺は彼女に飼われることにした。