調子のいいやつ
鳴き疲れたこともあって、俺はしばらくの間厨房で眠っていた。
何時間か経って、秀一が家に帰ってくる音がした。奴の独り言を聴くところ、おやじは何日間か入院しなければいけないらしい。その準備をしているのだろう。
後をつけてみる。
俺が一晩過ごした部屋や狭い風呂場などを経由して、出てきたものは、使い古して穴の開いた、かび臭いバスタオル。水で薄めたシャンプー。薄くなった石鹸など、粗末なものばかりだった。
(こりゃ酷い)
もし夏樹に同じものを渡したら、二度と口をきいてくれなくなるな。あ、今の俺はチワワか。なら関係ないなぁ。
「……、仕方ねぇ。買ってくるか」
秀一が、今まで引き籠ってきた和室から何かを取り出してきた。そして、それを俺に見せびらかすようにひらひらとさせる。
「その日暮らしの犬ッコロとは違うんだよ。人間様は」
(! 貯金通帳だと!?)
記入されている年月日が大分前のものになっているから、おそらく学生の頃にアルバイトか何かで貯めたのだろう。その額、四百万円。
(うわーこんな奴に負けたぁ!)
でも良かったなおやじ。入浴セットを病院に持っていくってことは、命に別状はないってことだ。
しばらく会えなくなるが、良かった。本当に良かった。
「そんな犬ッコロにも報酬だ。食え」
パラパラと上から落っことされたのは、チョコクランチのような見た目の犬用の餌だった。もしかしてこれ、結構な値段するんじゃないのか。
よくテレビで見るようなメーカーの物っぽいぞ。うまそう。
「……、お前が煩いおかげで親父の病気に気づけた」
ほーほー、そういう事か。お礼を言いたかったんだな。素直じゃない奴め。でも一番に言わなきゃいけない奴が病院に居るよな。
俺は秀一を見上げて、キャンと小さく吠えた。奴の腹当たりしか見えなかったが、今度は秀一の方が俺に視線を合わせてきた。
「五郎。俺。やり直してみようと思う」
(ん。どうした突然?)
おやじの想いは前から知ってたんだろ。こうなる前からどうして動こうとしなかったんだ。
あと初めて俺を“五郎”と呼んだな。まぁ、俺の本当の名前じゃないが。
「医者が俺に言ったんだ。“貴方は素敵な息子さんですね”って」
冷静でいるようで、間違った判断をしているようにも見えたが、あの時の秀一の必死さは俺にも伝わった。
やっぱり家族だもんな。流れで犬猿の仲になっても、どこかでくっつく瞬間がある。
美香子と喧嘩したときもそうだ。きっかけは一本のそうめん。俺がリビングの床にこぼしたことから始まったっけ。
ティッシュにくるんでゴミ箱へ投げ入れるのに失敗したら火山が噴火したように怒られたとかいう下らない理由。
そこから数日間、口をきいてくれないってことがあったが、何かをきっかけに仲直りできた。うーん……、なんだっけか。
「その医者。めちゃくちゃ可愛かったんだよー」
――はぁ?
(おい秀一。目がハートだぞ。どうした?)
「あんな人がいるなんてな。世の中も捨てたもんじゃないなぁ」
(お前このやろう、おやじの担当医に勝手に恋してんじゃねーよ)
ほらほら早く入浴セットを買って来い、クズ野郎。俺はあきれ果てて、クゥと小さく鳴いた。
「俺、絶対痩せて告白するんだ」
はいはい。でもまぁ目標を持って生きてくれた方がおやじも嬉しいだろうしな。
――となると、今の俺の居場所はここじゃない。やっぱり夏樹と美香子の所だ。我が家だ。
俺は朝飯を食い終わると、空いていた玄関に向かって走った。秀一。後のことはお前が一人で見るんだぞ。
(淡いピンク色の、水あめのような瞳でな!)
俺が振り返ると、秀一は、何の迷いもなく玄関の扉を閉めた。
(何か一言ないのかよ!)
くそぅ、最後までどこかムカつく野郎だったなぁ……。
とまぁそんなこんなで、どうやって二人の元へと向かおうか模索しながら歩いていた。でも何かこう……、体臭を消せるような場所。そういうところへと、俺は行きたい。
といえば川か。近くに丁度いい場所がある。
そこでは、木目に光沢のあるギターを持った、大学生ぐらいの女性が、一人で弾き語りをしていた。