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厳が倒れた!

 漂ってきた甘い匂いで目が開く。人間だったら真っ先に明かりをつけて時計を見るところだが、段ボールの中にいる俺には出来そうもなかった。

 

 だが、いろんな音が聴こえるぞ。おやじのすり足の音。金属が触れあい、グルグルと回っているような音。そして、何かが煮込まれているグツグツという音。

 おそらくイカ焼きのソースを仕込んでいるのだろう。俺の朝飯がまだということは、夜中か? ご苦労なことで。

 

 俺は黙って丸まりながら、芳ばしく甘い香りを楽しんでいた。おやじの想いのこもったイカ焼きのソース。どうやったらあのクズ野郎はおやじと和解できるだろうか。

 そもそも、社会と縁の切れている一人の男にしてやれることってなんだろうな……。言葉で説得しようにも、俺はもう人間じゃない。一匹の非力なチワワだ。

 

 なんて考え事をしていると、突然バタンと大きな音がして耳がピーンと立ってしまった。


(何事だ!?)


 俺の聴覚が正しければ、その音はおやじがソースを仕込んでいる場所から聴こえた。


(もしかして、倒れたのか?)


 俺は何度も激しく鳴いた。けれど、あのクズ野郎。一向に自分の部屋から出てこない。


(おい! 様子を見に行ってやれよ‼ 家族だろ!?)


 俺が執拗に鳴いたからか、やっとクズ野郎は部屋の外に出てきた。そして、


「おい、親父! どうしたんだ‼」


 という声が聴こえてくる。動揺しているようだ。


(こんな時は救急車を呼べ!)


 あぁ話せない俺がもどかしい。何とかしてやりたいが、暗い部屋では、おやじがどんな状態かもわからない。

 頼りになるのは秀一しゅういち、お前だけだぞ。おやじの想いを知ってるんだろ。意地でも助けろ。助けろ!


「……脈はある。手足の末端に多少の痙攣あり……」


(ん?)


 クズ野郎はぶつぶつと呟きながら、おやじの状態を確認していた。そして、誰かに電話をかけている。それは、救急ではなく、どうやら脳外科の医者だった。

 秀一しゅういちは、ハキハキとおやじの様態を伝えると、慌ただしく俺のいる部屋にやってきた。そして、明かりをつけると、臭う両腕で俺を抱え、厨房の方へと駆け出す。


「いいか、クソ犬。さっきみたいにギャーギャー吠えろ」


 何だかむかつく言い方だが、非常事態だ。俺はおやじの意識が戻るように甲高い声で延々と鳴き続けた。その間、秀一しゅういちは例の医者と話をしながら応急処置ともとれる動作をしていた。

 正直俺には何をしているのかがわからなかった。介護職をしていて、急に入居者が倒れることがあっても、対処するのは看護師だったからだ。

 

(もしかして、こいつ。そっちの道に詳しいのか?)


「俺だって……やればできるんだ。まだ見せてねぇ。くたばんなよ、クソ親父」


 クズ野郎から意地のようなものが感じられた。


(よーし、こうなったら俺も気合を入れて鳴いてやる! 頑張れおやじ! 頑張れ、秀一しゅういち‼)


 そうこうしているうちに、救急車が来た。秀一しゅういちは、自分の身なりなど構いもせず、救急隊員におやじの症状と病院名を告げている。

 さっき話していた医者は、あいつの大学時代の友人らしい。なんだこいつ。人間との繋がり、あったのか。


「私たちが判断しますので、あなたは父親の側で声をかけてあげてください」


「俺が言うんだ! 間違いない‼ 親父は脳梗塞だ!」


「だから、それを今から見ようって……」


「早く! じゃないと手遅れになっちまう!」


 そろそろ吠えるのも疲れてきた。秀一しゅういちの声は俺よりも野太く、広範囲に響いている。ざわざわという近隣住民の声も聴こえてきた。


(……ん?)


 やばい、手が曲がってきている。これは俺も見たことがあるぞ。脳梗塞の後遺症でなる症状だ。奴の言う通り、早くしなければ本当に死んでしまう。

 そして、漂う焦げた匂い。


(火事か!? そうか、火を消してなかったんだ!)


「親父のソース!」


 秀一しゅういちは、隊員を引き連れておやじのもとへと走ってきた。状態を見た隊員は、すぐさま脳外科のある病院へと連絡を取っていた。

 秀一しゅういちはというと、先ほどの煩さとは打って変わって、静かに火を消して、


「苦ぇ……」


 と呟いた。


(舐めたのか? 焦げたソースを)


 秀一しゅういちは、救急車に乗って理屈をこねながら家から出て行ってしまった。床には瓶詰になった水あめがこぼれている。

 ひと舐めすると、とても甘く感じた。今の俺にできることは、おやじの無事を祈ることだ。

 

 厨房から朝日が射す。

 太陽の光は、俺の体と瓶詰の水あめを暖かく照らしていた。

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