水あめの瞳
しばらくすると、玄関付近から音が聴こえる。きっとおやじの足音だ。人間の時だったら気付かなかっただろうが、あのおやじは、すり足の癖があるみたいだ。
「クソッ、帰ってきやがった」
クズ野郎の気まずそうな声もしっかり聴きとれた。はぁ、また喧嘩するのかこの親子は。そりゃ奥さんも逃げ出すわな……。
と思っていたら予想外。おやじはゆっくり家に入ってくると、何も言わずに、閉じられた和室の前に菓子パンを置く。そして俺を片脇に抱えて、隣の小奇麗な部屋へと案内した。閉じられたドア。
視界が高くなった分、見えるものが多い。どれどれ……。
「秀一は、やりゃぁできんだ」
おやじは俺を抱える脇をぎゅっと閉じた。そして、いろんな写真を見せてくる。お、この高校。俺の知ってる名門校じゃないか。あいつ、こんなとこ通っていたのか。
目が輝いている。若いな。それに、どこにでもいそうな、普通の青年だ。強いて言うなら、ちょっと気の弱そうな感じがするが、優しい目をしている、と感じた。
「なぁ五郎。どうして俺がイカ焼きなんてもん作ってると思う?」
俺相手だから話せるんだろ。いいぞいいぞ、聞いてやる。
おやじは俺を清潔な床におろしてドッグフードを用意していた。やはりどこか哀愁が漂う背中。
(息子がああなって寂しいのか? それとも悲しいのか?)
「ほら、食え。質より量だ。大きくなれよ」
やっとありつけた晩飯。独特な香りに混乱したが、食うしかない。初めて口にするそれは、空腹の効果もあったのか、腹があったかくなるほど旨かった。
俺が感動の中にいると、おやじは腕を組んで昔を懐かしがるように語りだす。
「秀一は、水あめが好きでなぁ」
離れた部屋から、ガサリという音がする。おそらくクズ野郎。基、秀一がさっきの菓子パンを取り出しているのだろう。
おやじは気付いているのかいないのか、無視して俺に話しかけてくる。
「あいつ、なんにでも水あめを入れやがる。普通、カレーは辛口だってぇのにな」
その他にも、杏仁豆腐・ヨーグルト・麻婆豆腐など、様々な料理を甘くするらしい。そんな秀一を語るおやじは皮肉交じりだが、どこか楽しげだ。
何となく察した俺は、
(本音を聞かせろよ!)
という気持ちを込めて、キャキャンとひと鳴きした。
すると、おやじは俺の頭をくしゃくしゃと荒く撫でて、「カッカッカッ」と、こどものように笑った。ほれほれ、本音を言ってみろ。俺とおやじの秘密だ。
「水あめの匂いを嗅ぐとなぁ。あの頃を思い出すんだよ」
(あの頃?)
ここからは、おやじの話。
それは30年ほど前に遡るという。
ある祭りに親子三人で出掛けた日。秀一が迷子になってしまったらしい。おやじと奥さんが必死になって捜したところ、秀一は、目を輝かせて水あめの屋台の店主と話をしていたという。
「よかった、秀一! 捜したぞ」
「父さん母さん。すごいよ!」
店主が器用に両手を使って水あめをこねている。秀一は、おやじと奥さんの裾を引っ張りながら、輝いた眼を見せて、練り上げられた黄金色の水あめを指さした。
「魔法みたいだね!」
そこで店主が一言。
「水あめは何色にでも染まれる面白い芸術品だ」
それを聞いて、秀一は、まるで宝石を見るかのように、棚に並べられていた水あめたちを眺めていた。という話。
何でもない思い出話だった。
おやじが俺を撫でる手が震える。それと同時にソワソワする体。何だろう。犬になってから色んなことに敏感になってきたぞ。
そんでもって、そろりと隣の部屋からあいつが出てくる音もする。床に菓子パンの袋を落とす音だろうか。そして踏んだな。ビニールのこすれる音が不愉快極まりない。
(……、ん? ゆっくり近づいてきている?)
「俺はなぁ。秀一にわかって欲しいだけなんだ」
そろりとした足音が止まる。微かに体臭のような脂っこい臭いがしてきた。間違いない。秀一だ。
「どんなになっても、あの時の水あめのような目になれるってことをな」
やっぱり親にとっては腐っても息子。ってところか。なるほど。ソースの隠し味は息子の好物からきてたんだな。おやじは、イカ焼きを作りながらそんなことを考えていたのか……。
(やい! 聞いてんだろ、クズ野郎‼)
俺はわざと秀一の立っている方に向かって吠えた。ちょっとした意地悪だ。奴は慌てて和室へかけていく。
知っているんじゃないか。おやじの気持ち。意地なんて張るもんじゃない。もっと素直になれよ。
それにおやじも。大事な息子が荒れていく様を見ながら、心に思いを秘めて生きるのは辛いだろ?
(しょうがないな)
俺に恩を売ってくれたお返しだ。何とかしてやるか。今の俺はチワワ。人間じゃない。きっと、犬だからこそできることがあるはずだ。
「悪ぃが、こん中で寝ててくれや。犬小屋は高くてよ」
お粗末な段ボールの中にゆっくり入れられる俺。中には毛布が敷かれていた。
(あれ、風呂は?)
なんて思いながらも、疲れもあってかその日はぐっすり眠れた。信じられない。これ、ここ数日の出来事なんだろ。今頃、夏樹と美香子はどうしているだろうか。
受験の忙しい季節に俺が死んで、大変なことは間違いない。本当に申し訳ないな。
でも、パパは必ずお前たちの所へ帰ってくるからな!