ゴキちゃん退治
「それじゃあパパ。行ってくるわね!」
身支度を終えた美香子が、俺を優しく抱き上げて頬ずりをする。保健所の山田という男からされたときは殺意を覚えたが、この感触はとても心地がよい。
仕事で手は荒れていても、顔は卵のようにすべすべで、綺麗だ。さすが俺の妻。出会ったころのことを思うと、少しだけふっくらとした。
決して太ったわけではないからな。
「家を守ってね! ファイト!」
励ましたいのはこっちの方だ。ありがとな。
感謝の気持ちを込めて、靴置きの所まで妻を見送る。美香子は明るい顔で鼻歌交じりに玄関の扉に鍵をかけた。
(一人ぼっちになってしまった)
俺は家族ができてから、一人を経験したことが無い。産まれたときからこのかた、親や親せき、友人、職場の人など、多くの人に囲まれて暮らしてきた。
流されて生きてきたといえば聞こえは悪いが、そう悪くはない生き方をしていたと思う。
(……さて、これから何をしよう?)
そういえば、夏樹は、俺が妻にばかり家事を押し付けていたと言っていたな。
この際だからやってみようか。
……、とはいえ、洗濯や洗い物、掃除機がけなどの家事全般は人間の体でないと行えない。そもそも掃除機の操作の仕方すらもわからない俺だ。
(んんんん……)
――ガサガサ……
(?)
不気味な音が聴こえてくる。何かがこすれる音。
俺がバッと振り返ると、後ろに、床に落ちていたパンくずを貪り食っているゴキブリが一匹いた。
「わぁああああ‼」
俺は思わず叫んだ。
苦手なんだよ虫は。しかもゴキブリ。害虫じゃねぇか。一匹いたら百匹いると思えってやつだろ。どうして秀一の所では出なくて我が家で出るんだよ。ふざけんなよ。
しかも、でけぇんだよ。
人間の時に見たのとは比べ物にならないぐらいに大きくて気持ち悪ぃ。
――ブーンッ
(うわっ! 飛んできた‼)
どうしてこんなに動きが不規則なんだ。
でも目で追えるぞ。これがチワワの能力か。美香子は俺に家を守ってと言っていた。ここは、俺の出番か。うー……。
「あのー、他所の家に行ってくれませんか?」
――ガサガサ
俺の前をうろちょろするゴキ。虫の声は聴こえないのか。あぁ、人間だったら、殺虫スプレーやスリッパで仕留められるものを。
俺にはあいにく、この貧弱な肉体しかない。
(見逃すか、それとも……)
でも、二人がコイツを見つけたら、どうなることだろう。きっとパニックになるに違いない。ここは一家の主であるパパが立ち向かわなくては。
――ブーンッ
「あひゅっ‼」
急なゴキの接近に、情けにない声を出してしまった。完全に尾を巻いている俺。それにしても、動き方。一体どこに行くんだよコイツ。
せっかく触覚があるんだから、アリのようにまっすぐ歩けばいいのに。
「やい! ここから出ていけ!」
――ガサガサ
必死に吠える俺のことを無視してリビング中を駆け回るゴキ。
たとえ相手が俺の大嫌いなゴキでも、我が家を汚す奴は、許さないぞ。やっつけてやる。
(勇気を出すんだ、俺!)
今、夏樹は学校で勉強中。美香子は近くの定食屋で働いている最中。くたくたになって帰ってきて、ゴキが居たら嫌だろう。
(頼りになるパパになるんだ!)
俺は動き回るゴキをジッと見つめ続けた。吐きそうになるくらいの気落ち悪さだが、次第にそれにも慣れてきた。あとは、行動するだけだ。
前足を一歩動かす。
ゴキの触角がびょんっと動いた。
(動揺するな俺。大きさでは俺の方が勝ってる)
向こうはいきなり羽を広げて戦闘態勢に入ろうとしていた。
まてまてまてまて、まだ心の準備ができてな……、
――ブーンッ!
(いぃいいいいい‼)
俺のデコにめがけて飛んでくるゴキ。まるでマタドールのようにギリギリかわした。俺が動くのをやめたら、再びリビング中を闊歩していた。
(バケモンかよ……)
目の前の敵にただただ為すすべもなく、立ち尽くしていた俺だが、ふと夏樹と美香子の笑顔が浮かんできた。
(二人の笑顔を守るために、俺はここに居る!)
決心がついた。やるぞ。
いつでも来い。来ないならこっちからやってやる。
「うりゃぁあああ‼」
リビングテーブルの脚によじ登っていたところを、デコでゴツンとかましてやった。当たった。当たったはいいが、ゴキの体液が俺のデコにかかる。
(うわあぁぁぁああああ‼)
最悪だ。
オマケにテーブルのギリギリに置いてあったテレビのリモコンが頭上に落ちてきた。デコはマーガレットに鍛えられていたから、何ともなかったが、頭は痛い。
(きっとこぶができただろう。どうしてこんな目に……)
とりあえず行儀は悪いが、分厚いカーテンでゴキの体液を拭う。それでも気持ち悪かった。
(死骸は悪いが二人に片付けてもらおう……)
とにかく、やれるだけのことはやった。偉いぞ俺。
テレビのリモコンのスイッチを強く押して、適当にチャンネルを回す。偶然俺の好きなアイドルが映っていたから、それを見ながら、二人が帰ってくるまで爆睡することにした。




