分娩室での奇跡
「――あのね、あのね!」
健斗君が、俺の今の気持ちを美香子に伝えてくれている。
具体的には、こんなことになって申し訳ないとか、もう一度人間の姿で会いたいとか。その他諸々。沢山話した。少年を通して。
長くなってしまったが、一番言いたかったことは、
――ただいま――
その一言だった。
それを聞いた美香子は俺を両腕でくるむように抱き、痩せこけた頬に俺の額を押し付けて、大きな声でわんわん泣きだした。
「おかえりなさい。パパ」
違うんだ。俺は、俺は……、
「おばさん、泣かないで」
(うん。そうだ少年!)
俺は笑っていて欲しいんだ。
美香子にも、夏樹にも。
愛しているから。
(大事な存在だからこそ、太陽に向かって咲くひまわりのように笑っていて欲しい)
これは、夏樹が産まれたときに、俺たちで考えた我が家の家訓だ。覚えているか、美香子。これが、俺たちの宝。“夏樹”の由来だということを。
俺たちにとって、ひまわりは夏に咲く“樹”なんだ。太陽に向かって、強く、太く、たくましく育ってほしいという想いがこもっている。大事な名前だ。
(そういえば、夏樹はどこだ?)
「お子さんはどこにいるんですかー?」
健斗君が高校生の娘のことを“お子さん”と言うのには少しだけ違和感があるが、そんなこと誰も突っ込まない。先生も佳奈さんも。
あの暴れん坊のマーガレットも、暗い所が怖いのか、大人しくしている。
「お昼になるまで勉強しているわ」
美香子が俺を優しくリビングテーブルに戻しながら言う。少し元気が出たようだ。笑顔が自然になってきている。
「時間をご確認ください」
スッと俺にスマホの画面を見せてくる先生。時刻は、十一時半ごろだった。
しかし……。
歩ちゃんといい先生といい。人間というものは、犬は鼻もとが焦点だと思っているんだな。見づらくて仕方ない。もとは俺も人間だったから気持ちはわかるが。
きっと今、寄り目になっているだろうなぁ……。
(いや、そんなことどうでもいいだろ俺!)
「むー。俊介、独り言多いー」
「こら! 呼び捨てにしちゃだめでしょ」
いや、それもどうでもいいです、佳奈さん。俺が心配していることは、もっと違うことだ。問題は、チワワに為った俺を二人が受け入れてくれるかどうかだ。
美香子は大丈夫そうだが、夏樹の反応が気になる。
(もし拒絶されたら、俺は……)
明日からの希望が無くなってしまう。
俺は事故に遭ってから、いろんな人に出会って、奇跡的に美香子に会えた。その軌跡が、ここで途絶えてしまったらどうしよう。
そんなことを思うと、自然と尻尾が垂れ下がってしまう。
「ケッ、情けねぇ奴」
つまらなさそうに先生に抱かれているマーガレット。
多分、本当に情けない鳴き声を出していたと思う。
(だって、俺。今犬だもん)
働いてお金を貯めることもできないし、夏樹に勉強を教えてやることもできない。
(まぁ、それは昔からだったが)
とにかく今俺が二人のためにしてやれることなんてないんだ。
ごめんな。本当にごめんな。
「すごく謝ってるよ、俊介さん」
健斗君が言うと、その場が静まった。お昼だというのに暗いリビング。空気が重くなってきた。うぅ、すまない。みんな……。
「こう暗くては会話も弾みませんね」
気を利かせた先生が、リビングテーブルに、自身のスマホの明かりをともして置いてくれた。俺には少しきつい照明だが、きっとみんなからは、怪しい占い屋のように見えているだろうな。
そして妙に怖いのがマーガレットの顔。ぶちが血糊のように見えてしまう。
より一層話しかけにくくなってしまった。
「あ、そうだ。俊介さん言ってたよ。夏樹の由来!」
(ナイスタイミング!)
伝えてくれてありがとう、少年。
こどもというものには、その場の空気というものが無いらしい。思ったことを思ったときに発言する。短絡的に見えて、意外と重要なことだ。
「そうね。あの時も大変だった……」
思い出すように美香子が俺の頭を優しく撫でる。体毛にイガイガしたものが絡みつく。もしかして、手が荒れているのか。
ここからは、夏樹が産まれる前の話になる。
それはそれは、暑い暑い真夏のこと。一つの命が失われようとしていた。その子にはまだ名前が無かった。
だが、すでにママが決めていた名前があった。
“愛”。
いろんな人に愛される人に育て、という意味が込められた、大切な名前だった。
分娩室で悲鳴が上がる中、パパは何もすることができなかった。
ただ、別室に通されて、“流産かもしれない”という言葉を聞いて、それを頑張るママに隠しながら、必死に応援していた。
それしかパパにはできなかった。
「頑張れ! 頑張れ‼」
必死に犬のように吠えるパパ。全身に大粒の汗をかいていた。ママもそうだった。握りしめられた手は、ぐっしょり濡れていた。それでも、愛は産まれてこない。
「もう駄目よ! 私たちは死んじゃうの‼」
「嫌だ! そんなの認めない‼ 絶対に産まれてくる‼ 信じるんだ‼」
パパは、ずっとずっと吠えていた。新たな命が産まれると信じて。
ママの手の力が徐々に抜けてくる。
そこでふと、パパは走馬灯のように思い出した。
病院の入り口にあるひまわりの花壇を。
(あの花たちは強く太く生きているのに……!)
パパは、突然ある名前が浮かんだ。
――夏……、夏の花……、まるで樹のような……、夏樹‼――
「あ! 頭が出てきましたよ! 倉田さん‼」
まるでそれは、呼ばれて飛び出てきたような感覚だった。
産まれてきたこども。それはとてもとても愛おしい花のようだった。
のどがかれたパパとママは、保育器でスヤスヤ眠る我が子を見ながら、名前を考え直すことにした。
「俺がひまわりを想いながら、夏樹っていう名前を浮かべたら、まるで魔法のようにポンっと出てきた。縁起がいいし、夏樹にしよう! な。な!?」
パパは興奮しながら、まだ体が弱っている妻に繰り返しそればかり言っていた。
「愛じゃだめだっていうの? 産んだのは私よ?」
うんざりした顔でママが言う。
そこで喧嘩になり、二人はしばらく口をきかなかったとか。
ではどうして、赤ちゃんが夏樹という名前になったのかを教えよう……。
「もー、よそ様に恥ずかしい話しないでよ~」
二階から降りてくる夏樹の声と足音がする。少し軽快な足取りのように感じるが……、
(大丈夫なのか?)
話が途切れてしまった。
でもこれで俺の悲願は達成されたわけだ。
いや、ここからが本番か。
夏樹の生活は、俺が死んでどう変わったんだ。教えてくれ。




