隣の藤田君
スマホのアラームの音が鳴る。ちらりと見上げるとカーテンが黄金色に輝いていた。
朝か。
目をこすりながら布団から出て俺の頭を撫でる歩ちゃん。
彼女は、基本的な身支度を済ませると、朝ごはんも食べずに俺を抱いてギターケースを背負い、玄関の方へと向かっていった。
――ピンポーン
チャイムの音がした。
それを聞いた彼女はドアホンの方に行き、すぅっと大きく息を吸い、
「わたしはお騒がせしておりませんので!」
と、突然叫びだす。
(なんだ、ご近所トラブルか?)
ドアホンのモニターに映っている男性は、見たところ歩ちゃんと同じくらいの年頃だろう。
黒いパーカーに特徴のないどこにでもいそうな顔。言ってしまえば、今時の若者。耳には緑の耳かけ型のイヤホンをつけていた。
「ねぇ、毎日楽しい?」
片方のイヤホンを外して、男性がそっけなく尋ねる。
(もしかして、ストーカーか苦情か?)
俺にはいい予感が浮かばなかった。
「これはこれは、隣の藤田君」
(え?)
もしかして、昨日の壁ドンをしていた住人は、この人だったのだろうか。やばい、刺されるかもしれないから絶対に外に出るなよ、歩ちゃん。
「今日はどこで迷惑行為するの」
藤田と呼ばれた男性は、もう片方のイヤホンも外して、皮肉めいた口調で彼女に言い放った。いつものことなのか、歩ちゃんはふてくされることなく、
「商店街。わたしの音楽は迷惑じゃない。全人類へのエールだよ」
と返していた。
ため息をつく藤田君。
(気持ち、わかるぞ)
でもこの子には絶対に伝わらない。気の毒だが、引っ越すしかないんじゃないかな。あぁでも、そんなお金、学生ぐらいの子には無いか。
「まぁ、親子喧嘩を聞かされるよりかはよっぽどマシだったけどね」
(?)
その話題は彼女の琴線に触れたようで、少し悔しそうな顔をしているのがうかがえる。肝心な目は見えなかったが、唇をかみしめているのが見えた。
秀一の場合は、社会に対する憎しみや嫌悪感からの逃避だったが、もしかしたらこの子の場合は、その反対かもしれない。
社会に対して、夢や希望を与える。そんな人になりたいという夢を、親が許さないのかも……。
(俺だったら夏樹になんと言うだろうか)
芸能の世界は甘くない。本人もきっとそうやって言ってくるだろう。だが、まだ社会の仕組みを知らない女の子が、一人であの世界に入ろうというのを、俺だったら許せるだろうか。
そういえば、俺は夏樹がどんな人になりたいかをまだ聞いていなかった。
俺が死んで、受験の予定も狂って夏樹の人生が大きく変わってしまっていたら……。
「せいぜい頑張りなよ」
俺がいろいろ考えている間に、藤田という男性はイヤホンを両耳にかけてその場を去っていった。
俺を抱える腕がふるふると震えている。伝わってくるぞ。これは、怒りじゃない。
「親に認めてもらおうなんて思ってない。気にしてないもん……」
悔し泣き。だろう。空いている手で目のあたりを、ちょちょっと拭う歩ちゃん。肝心な表情が見えないが、昨日の“捨てられた”という意味が何となく分かった。
この子は自分の夢の代わりに、親という宝物との縁が切れたのだ。いや、完全に切れたかは分からない。俺にとっては他人事だからなぁ……。
(うまくいえないけど、元気出せ!)
俺がキャンキャンと気持ちを込めて吠えると、思い出したように俺の頭を撫でて、そのきれいな目を見せる。まだ穢れを知らない、無垢な瞳だと思った。少し赤がかっていたが。
「そうだね、ソラ。栄光に満ちた架け橋を見るまでは諦められないね」
(そうだな!)
今日は素敵なライブにしよう。俺も出来るだけのことはする。ギターはアレだが、彼女の声は透明感があって良い感じだぞ。
みんなに受け入れられたらいいな、お前の夢。あぁ、なんだか本当に夏樹のお姉さんのように思えてきた。
夢を追っている者が輝いて見える。
(若い。若いっていいなぁ。人間っていいなぁ!)
あぁ、元に戻りたい。いや、戻ったら死んでこの世からいなくなっていると思うのだが……。
「じゃあ、行こう。商店街へ!」
歩ちゃんが玄関を開けたとき、一人分の足音が聴こえた。彼女は気付いていないようだが、今の俺は耳がいい。商店街への道のりは静かだったから、余計にその音が聴こえる。
(この子。本当にストーカがいるんじゃないのか?)
段々人気のない所へと向かうにつれて一定の距離を保ちつつ付いてくる。
俺がキャンと吠えると、足音は止まる。
「おなかすいたの?」
歩ちゃんはのんきに俺の頭を撫でながら商店街へと向かう。この商店街への道は俺も知っているが、変質者が多いことで有名だ。
彼女の身に何かがあったら大変だ。俺は商店街につくまでわざと大きな声で近隣住民に聴こえる様に鳴き続けた。
そして、やっとのことで商店街に着く。
そうなんだよなぁ。ここは田舎だから、あまり繁盛していない。いくつか閉まったシャッター。そして、歩ちゃんを見るとため息をつく商店街の人々。
彼女はそんなことなど気にもせず、ギターケースを床に置き、取り出したギターで、早速でたらめな曲を歌う。思っていた通りだったが、さっそく苦情が来た。
「お願いだからよそでやってくれない?」
古い美容室のおばさんが店から出てきて、わざとらしく耳を抑えてやってくる。
「わたしは、みんなに活気を取り戻してもらいたくて歌っているのです」
「もうここは無理だよ。せめて静かに暮らしたいね」
「音楽は希望を与えるの。だから、わたしは歌います」
「この有名人気取りの小娘が! うるさいんだよ‼」
(そこまで言わなくても……)
そしておばさんは俺のことを見ると、近くの果物屋に、
「たーいへん、毛が混入するよ!」
といった、いちゃもんをつけてきた。マーキングしてやろうかババア。ああだこうだ言う人がいるせいで、路上ライブができなくなってしまっている。
――ザッ……
(?)
わざとらしく地面をこするような足音が聴こえた。
「一曲。歌ってもらえませんか」
どこかで聴いた声がした。振り向くと、フードを深くかぶったペンギンのような男性が、ギターケースの選曲表の『栄光の架橋』を指さしている。
(こいつは……)
今の俺は犬だから下からフードの中身をのぞける。そのため、それが藤田という男性であることが分かった。
「またあなた? 誰か知らないけど、この子を調子に乗らせたらだめ……」
「歌います。“ゆず”。『栄光の架橋』」
歩ちゃんは、おばさんの声を遮り、そう言うと、とても上手とは言えない演奏を始めた。正直、彼女が歌い始めてやっと曲が始まったのだと理解できる。
頭を抱える商店街の人たち。藤田という男性は、静かにその演奏を聴いていた。
「いつもありがとうございます!」
演奏を終えると、歩ちゃんは、頭を下げる。
そして彼のフードを上げようと藤田君に近づく。彼はそれをスッとかわし、ポケットから五百円玉をギターケースに入れて、走り去っていった。
あんなこと言っていたのに、実は彼女のことを応援していたんだな。でもどうして……? そんな疑問を抱きながら、今日の商店街でのライブは終わった。
次は公園でのライブだそうだ。俺は今日得た報酬で、ビーフジャーキーを買ってもらえた。
最初こそは独特の香りに抵抗があったが、最近の犬用の餌ってうまいんだな。これでビールが飲めれば最高なんだが……。
と、肉のうまさを噛みしめたりして。昨日と同じように一晩を過ごした。




