第八闇 持たざる者の反撃
大量のおやきをゼミ室に寄付し、文学部棟を後にする。
煉瓦敷きの道を歩いて、本部棟へ向かう。
昼下がりのキャンパスには、ちらちら学生の姿がある。同じように歩いている尾崎の姿を見つけた。その手には漱石の『行人』を持っていた。
「おー、小野寺。図書館?」
「いや、キャリア。手持ちの企業が少なくなったから、募集を探さないと」
「それなー。オレも図書館で本返してから行くわ。出版社関係の情報あるかな」
「出版社に希望をしぼるの?」
「そ」
歩きながら尾崎が頷く。
「……出版不況だよ?」
ぼそりと呟けば、尾崎は乾いた笑みを浮かべた。
「知ってる。だから、挑戦してみたくてさ」
――人は楽をしたがる生き物だ。だから敢えて、私は困難を選択する。
野村教授の言葉に似ていて驚く。
「もし、オレが現状打開できたら……カッコイイだろ?」
声音は軽かったが、尾崎の目は真剣だった。
「たぶん、出版業界って本が好きなやつらが集まってる。小野寺みたいに読書量がハンパないやつらがいる。だから逆に、あまり本を読んでこなかったオレにしか、できないことがあるんじゃないかって思った」
本部棟の前で、尾崎も立ち止まる。
「本を読まなくなった、本が売れなくなったと言うけれど、それでも出版社は商売していかなきゃいけない。だったら、本に興味のない人間の気持ちがわかるのが、オレの武器かなって」
武器がないから諦めるのではなく、持たざることを武器にしてしまうその強かさ。
「でも、本のすごさを知らないわけじゃないぞ」
にやりと、尾崎が不敵に笑った。
「そんなに漱石の言葉が響いたの?」
「まーな。エントリーシートのお題通り、今までに読んで影響を受けた本だったよ」
んじゃ後で、と尾崎は図書館のほうへ歩いて行く。その背中を見送って、本部棟のドアを開けた。
就活支援をしてくれるキャリアセンターは、小洒落たブックカフェのようである。
入ってすぐ、今は誰もいない椅子やテーブルが置かれたスペースを通り抜け、企業情報がファイリングされた棚へ向かう。パンツスーツ姿の女子学生がひとり、SPIなど筆記試験の対策本が詰まった本棚にいた。
部屋の奥にあるカウンターで、職員と話を終えた学生が席を立つ。見覚えのある顔。
「よー、小野寺じゃないか。久しぶり」
正岡がメッセンジャーバックを肩に掛ける。三年生の頃は明るい茶髪だった頭は、今は黒い。
「久しぶりって、この前のサークル飲みで会ったよ」
「そうだっけ?」
悪いやつじゃないが、きっと彼の中で僕は印象に残らないのだろう。
「内定もらったって聞いたけど。まだ他の企業を探しているの?」
「あー、違う違う。キャリアから就活アドバイスを書いてくれって頼まれた。今の三年生向けに、先輩がどんなことやって成功したかーってアレ。ほら、オレらもスタートのときに就活手帳もらっただろ」
大学のロゴが入ったスケジュール帳。ご丁寧にエントリー解禁日から、大学主催の合同説明会の日程や履歴書の書き方、身だしなみのイラスト、よく使う敬語一覧などなど、これでもかと就活生を応援してくれる。
その巻末に、そうそうたる企業から内定をもらった先輩からのアドバイスが、コラムとして掲載されていた。
「そこそこ名の知れた企業じゃないと箔がつかないってさ。せっかく書類書きから解放されたってのに。書くのめんどくさー」
「大変だね」
「そうだろー。卒論も忙しいのに。小野寺は内定いくつもらった?」
首を横に振れば、正岡は笑って僕の背中を叩いた。
「まだ焦る時期じゃないから、頑張れよ」
「……うん。ありがとう」
うまく笑い返せただろうか。作り笑顔は就活でも必須だが、なかなか身につかない。
「じゃーな」
手を振って、正岡がキャリアセンターを出ていく。就活のために染めた黒髪は、正直似合っていない。また明るい茶色に戻りそうだ。
唐突に、ジーンズのポケットに入れていたスマホが振動した。
引っ張り出してディスプレイを確認する。電話だ。尾崎からではない。
兄からだった。
一番隅のテーブルに荷物を置き、立ったまま電話に出る。
「……もしもし」
『あぁ隆か。今、平気か? 講義中だったら悪い』
「ううん、大丈夫。何?」
『荷物が届いたか気になって。食品もあったし』
世話焼きの兄らしい気遣い。
「届いたよ。おやきも、ありがとうって母さんに伝えておいて。かぼちゃのやつ、久しぶりに食べた」
『あー、それ、おれが送った。お前、かぼちゃのおやき好きだったろ』
鼓膜を震わせる、兄の笑い声。
別に特別なことじゃない。
自分の好きなものを覚えていてくれた。
ただ、それだけだ。
別に特別なことじゃない。
それなのに、熱いものが喉元に込み上げてくる。
『就活は、どうだ。こっちには戻って来るのか?』
「いや。たぶん……戻らない。やりたいことがある」
電話の向こう、驚いたような気配がした。
『そうなのか?』
驚いたのは僕も同じだった。自分の口から出た言葉が信じられない。
『何だ、やりたいことって。力になるぞ?』
「い、今はまだ秘密。言えるようになったら、言うよ」
会話を切り上げて、通話を終了する。ため息が出た。心臓がばくばく暴れ狂っている。
やりたいことがある。
無意識に言葉が出たのは、それが身の内にあったから。確かに存在するから。
「何だ、やりたいことって」
零れ落ちたのは、兄と同じ言葉だった。