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第七闇 続く呼吸、意味、劇作家


 夕飯の買い出しをしてからアパートに戻ったら、ちょうど宅配便の人と出会った。そう言えば、兄から荷物を送るという連絡を受けて、そのまま忘れていた。


 大小二つの段ボールを受け取って、玄関で開ける。

 大きい段ボールは母に送るよう頼まれたのだろう。中身は米、蕎麦、レトルトカレーなどなど。


 食品以外では、地元のご当地キャラのマスコットがついたボールペン、ノート十冊、タオルが入っていた。兄が任されたプロジェクトのひとつだと推測するが、使わない物を押し付けないでほしい。


 小さい段ボールは、冷凍便だった。

 冷凍のおやき。小麦粉の皮に野沢菜、餡子、かぼちゃのあんが包まれている。段ボールに、小分けになって三十五個、ぎっしりと詰められていた。ちょっと途方に暮れる。いくら冷凍とはいっても、この量は飽きる。


「……ゼミ室に寄付しよう」

 冷蔵庫も電子レンジもあるから、保存も食べるときも困らないはず。かぼちゃのおやきを二つ、キッチンに転がして自然解凍させる。残りは冷凍庫へ。


 適当に夕飯を作って、おやきも食べて、片付けて、読書。漱石の『明暗』の文庫。就活も準備しないといけないが、卒論も進めないと卒業できない。テーマにした夏目漱石は、先達たちにやり尽くされた感じは否めないが、それでも研究する価値はある。


 文学は、人によって捉え方が違う。

 その違いを許される懐の広さがある。だから、自分なりに漱石を解釈できる――ふと、引っ掛かった。


 自分なりにって、何だ。

 自分って、何だ。


 頭の片隅で警鐘が鳴る。

 それ以上は考えるな。深みにはまってしまう。

 考えすぎ、真面目すぎ。よく言われるが、その通りだ。考えを止めることができない。

 思考が巡る。


 僕は何者なのだろう。

 何になりたいのだろう。


 若者が抱く典型的な悩みだとしたら、答えがあってもいいんじゃないのか。典型的、ありきたりなのだから。きっと、差し当たりのない答えが見つかっているはずだ。誰か教えてほしい。


 苦しくて、溺れてしまいそうで、息ができない。

 どろりとした重い夜気が、窓を(とお)って侵入してくる。水のように部屋を満たす。息ができない。文庫が手から落ちる。

 

 ――頑張ろうぜ。

 尾崎の言葉が脳内で響く。

 頑張れって、どうやって?

 時計を見ずにアパートを飛び出した。




 林道を抜け、真っ暗な空き地に辿り着く。

 一切の明かりがない空間で、ただ闇が揺蕩(たゆた)っていた。

 焚き火が消えている。


 自転車を停め、ふらふらと歩く。石で囲われた跡には、灰だけが残っていた。燃え尽きた薪や炭は見当たらない。

 しん、と静寂が占める。風もなく、虫の声も聞こえない。


 唐突に、闇が蠢いた。

「にゃあ」

「……クロ?」


 よくよく目を凝らせば、グリーンの眼が二つ足元で揺れていた。思った以上に近くて驚く。まったく気づかなかった。

 がさり、と地面の枝葉を踏む音に振り向く。長身の人影。


「お? そこにいるのは……リュウか」

 マキさんだった。


 いつものウィンドブレーカーにカーゴパンツではなく、シャツにスラックス。若手実業家のような、立派な社会人の姿だった。白いビニール袋を持っている。


「なんだ、今日は早いな」

「マキさん……」

 みっともなく声が震えた。


 にゃあ、とクロが足元で存在を主張する。

「あぁ、お前もいたのか。ちょっと待ってろ」


 マキさんが白いビニール袋を丸太へ置く。

 突っ立って見ていると、どこからか木の枝と新聞紙を抱えて来た。石で囲われた場所に置き、スラックスのポケットからマッチを取り出す。マッチを擦り、手際良く新聞紙へ火を点けた。


 小さな炎は、やがて木の枝に燃え移る。ぱちぱちと音を立て始めた焚き火が夜を退ける。


「その格好……今日は、どうしたんですか」

「うん? 仕事の打ち合わせ」


 いつものように、焚き火の前に座ったマキさんが缶コーヒーを投げる。

「だから、危ないですって」

「そう言いながら、落とさないんだもんな。ナイスキャッチ」


 切り株の上に、小分けパックのキャットフードを開ければ、クロが飛び乗った。一瞬だけマキさんを見て、それから食べ始める。


「座れば?」

 いつかと同じ、マキさんの声。

 ゆっくりと丸太に腰を下ろす。ぱちり、と焚き火が燃えている。オレンジ色の炎に、何かが緩む。


 ちら、とマキさんが視線を走らせた。

「……俺でよければ、話を聞こうか?」

 その声に目の前が滲む。


 ぼやけた視界の端で、キャットフードを食べ終えたクロと目が合う。焚き火に煌めくグリーンの瞳が、僕を見つめている。

 重たい胸の内から言葉が溢れる。


「生きるって、難しい」

 息を吸って、吐いて。心臓の鼓動を続けて。

 でも、それだけじゃ、駄目だ。

 何故か、苦しい。

 僕である理由が、見つからない。


「生きることに意味を求めるな。生きることをやめないと決めた、自分に意味がある」


 静かな声に頬を打たれた。

 言葉が胸をえぐり、臓腑を掻き乱す。

 夜から一切の音が消える。


「タケさんの、受け売り」

 痛みを堪えるように、マキさんが眉を寄せた。


「いつも言ってた。人は意味を求める動物なんだって」

「……求めたら、駄目なんですか」

「そうじゃないけど」

 唇を歪めて、マキさんが呟く。


「苦しいだろう?」

 吸い込んだ息を吐き出せない。


「何故、どうして、なんで。……問い続けた先に、得られるものはあるかもしれない。でも、今の自分に満足することも、必要なんだと思う」

「僕は……何者にも、なって、いません」


「もしかしたら、まだ気づいていないだけかもしれない。これから、何かになれるかもしれない。生き続ける限り、可能性はあるんだ」

 綺麗事だ。

 けれども、不思議と腑に落ちる。


 やめてしまえば、それまでで。続いていれば、いつか、どこかで、答えを手に入れられるかもしれない。そんな希望が生まれる。


 求めれば苦しい。

 でも、それは悪いことじゃない。

 見落としがちな、今に気づくこと。

 それも、必要なこと。


 マキさんが目を細めた。

「大切なのは?」

「……『自分がしたいことを、知っているということ』」

 わかっているじゃないか、とマキさんが微笑む。


「スナフキン、好きなんですか?」

「うん? あー、タケさんが好きだったから」

 これは真似なのかな、と独り呟く。


「それなら……マキさんは、何をしたいんですか?」

「想いを引き継ぐこと」

 恥ずかしがる素振りもなく、言い切った。

「それは、人間にしかできない」

 むくり、と反抗心が(こうべ)をもたげる。


「……何かで、ゾウは墓参りをするって読んだことがあります。仲間の骨がある遠い場所まで、会いに行くって。それは……違うんですか」

 どうだかな、とマキさんが小首を傾げた。


「確かに、動物にも感情はある。感情があるなら、死を悼むことだってできるだろう。けれども、死んでいったものたちが考えたこと、やりたかったことを代わりにやるだろうか。縄張りを引き継ぐとは違う、感じていたことを感じる。想像する。それは、人間が一番できているような気がする」

 黙り込んだ僕の上に、マキさんの声が降る。


「もちろん、異論反論は受け入れるさ。個人的に俺がそう思っているだけの話だ。――『世界の狭間には、考える以上にいろんなことがある』」

「ハムレット」

 間髪入れずに答えれば、マキさんが目を丸くした。ふはっ、と笑い出す。


「なんだ。ちゃんと外国文学も読んでいるじゃないか」

「有名どころは、さすがに知っていますよ」

「これだから本読みの大学生は怖い」


 焚き火を囲んで、マキさんと話すと、胸の内が少し軽くなる。押し潰されそうな夜をやり過ごせる。

 何かが、特別なのだろう。

 どうして特別なのだろう。

 深い夜の底で、焚き火を囲む。世界に弾かれた場所。


 ぱちり、とオレンジ色の炎が爆ぜる。






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