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第六闇 相反接続詞、目次、刃


 アパートに戻っても、焚き火に燻された匂いは消えなかった。


 机の上には開かれたままのカメラ雑誌がある。溢れる緑を背景に、エゾシカの黒い瞳がじっと僕を見つめている。


 丑三つ時を過ぎた午前三時。変わった日付を確認して、思い出す。企業に提出する履歴書の締め切りは今日だ。


 眠気の靄が掛かる頭で雑誌を片付け、書きかけの履歴書を引っ張り出した。

 志望動機の欄があと四行空いている。

 面接官の心証に悪いから、最終行の八割まで文字を埋めないと。ボールペンを握って、差し当たりのない文章を捻り出す。興味を引こうと奇抜なことを書いても、面接で聞かれたら答えられない。


 なんて、くだらないのだろう。

 やりたくないことを、やっている。


 でも、就職浪人にはなりたくない。社会人にならないと。でも、正社員じゃなくても派遣だってあるじゃないか。アルバイトだってあるじゃないか。頭の片隅で、何かが囁く。


 でも、周りはみんな就活しているし。就活をしている間に、やりたいことだって見つかるかもしれないし。でも、時間制限があるんだよ。


 彼とは違って、突出した才能のない自分に何ができる?

 兄とは違って、明るくもなくエリートでもなく、誰からも期待されていない自分に何ができる?


 でも。

 でも。

 でも。

 でも――肯定するも、反する意見を述べる接続詞。


 ぐるぐると思考は堂々巡り。時間だけが過ぎていく。カーテンを開けっ放しにした窓の向こうでは、漆黒の闇が薄まり、藍色になり始めていた。夜が明ける。


 朝が来れば。陽が昇れば、何事もなかったように新しい一日が始まる。深く沈んだ焚き火の夜は、光に射られて消える。

 輝かしい朝は欲しくない。

 ずっと、深く沈んでいたい。弾かれた世界の片隅で。息を殺して。


 書き上げた履歴書を封筒に入れ、切手を張る。あとはポストへ投函するだけ。今日は昼前にゼミ室へ行くから、ついでに出せばいい。

 そう思うが。


 なんとなく、履歴書を手元に置きたくなかった。耳触りのいい言葉を連ねた書類たち。本や小説とは違って、書いてある言葉は誰の助けにもならない。


 寝坊して、出し忘れるのもまずいし。自分自身に言い訳を呟いてアパートを出る。


 駐輪場に停めた自転車のカゴに封筒を入れ、缶コーヒーに気づく。マキさんにもらい、そのまま飲まずにいた、セドナの黒の無糖。

 プルタブを開ける。口をつければ、ぬるいブラック。苦味と香りが脳を覚醒させる。


 見上げれば、雲一つない空。夜と朝、狭間の藍色をしている。

 缶コーヒーのパッケージのように、陽が昇れば澄み切った青空になるだろう。飲み終えた缶を駐輪場の塀の上に置いた。あとで片付けます。

 自転車に乗り、ペダルを漕ぐ。


 凛とした朝の空気が風となって肌を撫でる。

 新聞配達のバイクの音とすれ違う。姿は見えない。しんと大気が静まり返っているから、音がいつも以上に響く。駅から離れているのに、電車の音が聞こえる。雀が二羽、鳴き交わしながら飛んでいく。

 東を見れば、空の端が白み始めていた。




 ゼミ室で、尾崎に捕まった。

「頼む、小野寺」

「卒論の次は、何?」


 野村教授は講義で不在だった。教授部屋のドアポストへ卒論テーマを書いたプリントを入れる。

 尾崎が手を合わせ、頭を下げた。


「今度、出版社にエントリーしようと思ってるんだけど。エントリーシートのお題が、今までに読んで影響を受けた本を四百字で紹介なんだ。オレ、そんなに本読んでねーし。ネットから本の内容をコピペしても、バレるだろ。頼む、助けてくれ」

「それなら、どうして出版社なのさ?」

「カッコイイだろ。華やかな業界だし、国文科だから入り易いかなって」

「……現実は甘くないよ」

 尾崎が頷く。


「わかってる。でも、チャレンジだ。書類の締め切りはまだ時間あるし、やれることはやってみる。だから、良さそうな本を教えてくれないか?」


 思いの外、真剣な尾崎の眼差しに気圧(けお)された。

 焦りと、不安と、自身を奮い立たせる何か。胸に抱く熱量が僕とは違った。

「いいけど」

「やった! サンキュ!」


 手放しで喜ばれると後ろめたい。尾崎が僕を頼ってくれるから、自分が存在していると確認できる。突き放せない。


 ゼミ室の資料棚から夏目漱石の全集を引き抜く。机の上に積み上げれば、尾崎が顔をしかめた。


「えっ、何。全部読めと?」

「違うよ。本当はそうしてもらいたいけど……まず、目次を見て」

 尾崎を促し、椅子に座る。


「面白そうって思ったタイトルがあれば、僕がどういう話か説明するから」

 夏目漱石でエントリーシートを書けば、卒論のテーマと絡めて、履歴書とも整合性が取れる。


「タイトルで決めていいのか?」

「小説の顔みたいなものだから、いいんだよ。ただ、誰でも知っているものは外そう。『猫』や『坊っちゃん』や『こころ』は避けて、他の就活生と差別化しないと」

「あー。オレ、それぐらいしか思い尽かない。すまん」

 国文科のゼミに所属する文学生としてはどうかと思うが、尾崎らしい。


「まぁ、選び放題ってことで。はい、やってみて」

 ぱらぱらと、尾崎が全集の目次をめくり始める。


 尾崎がタイトルを指差す。その話を要約して説明する。ただ、最後はどうなるかは話さない。読んでからのお楽しみだ。


「もったいぶらずに、教えてくれよ」

 不貞腐れた顔で尾崎が言う。

「ネタバレしたら、つまらないだろう?」

「そうだけど。あっ、さては読まそうって魂胆か!」

「バレた」

 ちぇ、と尾崎が全集のページを適当にめくる。

 その姿を見て、ふいに思い出す。


「……武器なんだってさ」

「は?」

 尾崎が眉を寄せる。


「ある社会人が言ってた。一日の読書時間がゼロの大学生が、五十パーセント以上。だから、他の学生がやらないことをやる。それが強み、武器になるって」

「武器ねぇ……」

「少なくとも、尾崎の言葉で書いたもののほうが、人事課の印象は良いと思う。ネットからコピペって、ずるしているだけ」

「まーな。楽したいって気持ちに負けそうになるよ。しんどいから」

 尾崎の手が止まった。視線が紙面上で釘付けになる。


 ――『自分のしている事が、自分の目的になっていない程苦しいことはない』。


 漱石の後期三部作のひとつ、長編小説『行人』の一節だ。

 思わず尾崎と顔を見合わせた。


「……夏目漱石って、すげぇな」

「……文学って、すごいだろう」

 時代も場所も飛び越えて、言葉の(やいば)を突き立てる。


 はー、と尾崎が深く息を吐いた。全集を閉じ、椅子から立ち上がる。

「あ、ちょっと」

 声を掛ければ、資料棚へ全集を返した尾崎が振り返った。


「図書館行って、借りて来る」

「……『行人』?」

「そ。付き合ってくれて、ありがとな」

 ひらひらと、尾崎が笑って手を振る。ゼミ室を出て行く。

「頑張ろうぜ」

「うん」

 胸に小さな痛みが走る。





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