第五闇 夜の底、ライカ
スーツのまま、アパートの机の上に買った雑誌を広げる。
特集を隅から隅まで読む。
インタビューの中で、マキさんは新進気鋭の写真家として紹介されていた。先月、病気で他界した牧島武司の甥。二人とも、自然や動物をメインに撮っているとのこと。
マキさんが撮影した写真も掲載されていた。
緑溢れる山奥の獣道。
真っ直ぐにこちらを見つめる、一匹のエゾシカ。
その視線が、見る者の胸に突き刺さる。黒い眼が何かを訴えている。声なき声が聞こえそうで、思わず耳を澄ませてしまう。
写真から滲み出る気配に肌が粟立つ。圧倒される。
見せつけられた。
才能。
自分にはないもの。程遠いもの。知らない業界で光る才能に、仄暗い炎が腹の底を焼く。その炎の名は知っている。
嫉妬。
必要とされているのは、いつも自分以外。
平々凡々。つまらない者より、何かに突出した者が世界を作る。
サイレントの不合格通知。あなたは不要ですと、それすらも教えてくれない。どこにも居場所がない。世界から弾かれてしまうのなら。
遠くに行きたい。
消えてしまいたい。
ひとりぐらい居なくたって、世の中は変わらないだろう。
胸の底が冷たくなる。息が吸えない。苦しい。苦しいのは嫌だ。やめてしまいたい。息をするから苦しいのか、苦しいから息をするのか。得体の知れない何かに押しつぶされそうで、思考はぐるぐると巡る。
気がつくと、カーテンを引くのを忘れた窓に、しっとりとした夜闇が張りついていた。時計を見れば、あと十四分で今日が終わる。
スーツを着替えて、自転車に飛び乗った。
爪のように細い月が空に架かっている。
明かりのない林道を自転車のダイナモが照らす。木々が途切れた場所から、オレンジ色の炎が見えた。焚き火の前に、マキさんが座っている。
自転車を空き地の隅に停め、近づく。
マキさんは焚き火で何かを燃やしていた。木の葉だと思ったそれは、オレンジ色の炎に照らされると、鳥の姿を浮かび上がらせた。
海上を滑空するオオワシ。
「なっ……に、してるんですか!」
彼が写真を燃やす手を止めた。きょとんと僕を見上げる。
「ひっどい顔してるけど、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですよ! 何してるんですか!」
「焚き火」
けろりと答えるマキさんに怒りが湧く。
「写真!」
「うん? あぁ、失敗作だよ」
耳を疑った。
思わず、マキさんの手から写真の束をひったくる。
曇天を切り裂くように飛ぶオオワシ、サケを口で引きちぎるヒグマ、草むらでじゃれ合う二匹のアカギツネ。動物たちの生き生きとした姿が写し出されている。
「どこが、失敗作なんですか」
「俺の写真じゃない」
マキさんの眼差しが鋭く、冷たい。
「俺が撮ったが……違う」
「違うって、何が」
「世界の切り取り方」
哲学的なことを言って、マキさんは眉を寄せた。その表情は、途方に暮れた迷子に似ていた。
「牧島武司は、伯父なんですね」
マキさんが目を見張る。
「それ、言ったっけ?」
「いえ。……今日、本屋で。大和カメラって雑誌を見て知りました」
あぁ、と合点が入ったようにマキさんが頷いた。
「そうか。もう発売日か」
そうして、ばつが悪そうに頭を手で掻く。
「インタビューなんて、受けたくなかったんだけど。大和カメラの編集者さんには、俺もタケさんも、お世話になっていたから断れなくて……って、自己弁護になっちゃってるな。格好悪い」
「マキさんは……写真家、なんですね」
「その端くれ。駆け出し。くちばしが茶色い雛鳥」
「その消極性は、なんですか」
「夜の底でみっともなく足掻いている、ただの若造だから。写真家ですって、胸張って言えないのさ」
「……謙遜ですか?」
「まさか。謙遜なんて不遜、したくないね」
マキさんが手を差し出す。揃えた指を動かし、促す。しぶしぶ写真を返した。
焚き火の向こう、丸太に座る。
「リュウ」
顔を上げれば、黒い缶コーヒーが飛んできた。
「だから、投げないでください。危ないですって」
「ナイスキャッチ」
まったく悪びれた様子もない。そうして、一枚ずつ写真を燃やし始める。淡々としたマキさんを前に、飲む気にはなれなかった。
缶コーヒーを手の中で転がす。
「……カメラ、武司さんから教わったんですか」
「うん。ガキの頃に触らせてもらって、それから少しずつ」
マキさんが写真の束を足元に置く。傍らの小さな弁当箱のような、古い革のケースを手に取った。その存在は自然に彼と一体化していたから、今まで気づかなかった。くたびれた革のケースから、マキさんが黒いカメラを出し、レンズの蓋を外す。
「タケさんが、スナップ撮るときに使ってたライカ。これぞカメラって感じで、格好よくて、憧れだった」
マキさんがカメラを構えた。
焚き火の炎にレンズを向け、ぴたりと静止する。その身に馴染んだ動作と、ファインダーを覗く鋭い視線に、写真家である牧島雅文を見た。
カシャッ、という音ではなく、小鳥が囁いたようなチヂッ、という音が鳴った。
ファインダーから顔を離して、マキさんがレバーやつまみを操作する。その表情は曇っている。
「やっぱり駄目だな」
「写真、見せてください」
そう言うと、マキさんはきょとんとした顔になった。
「見せろって、今? デジカメじゃないから、無理だよ」
「え……」
ほら、とマキさんがライカの裏を向ける。ディスプレイがない。
「フィルムカメラは現像してみないと。どう写ったのかなんて、わからないさ」
羞恥で頬が熱くなる。撮ったらすぐ写真を確認できる、デジタルカメラに慣れ過ぎていた。
「で、でも。やっぱり駄目だって、言いましたよね?」
「現像しなくてもわかる。シャッターの、指の感覚っていうのかな。撮った、って感じがしない」
俯いて、マキさんがライカの黒いボディーを撫でる。
「タケさんが亡くなってから、ずっとそうだ」
焚き火の炎が揺らぐ。
「写真が好きだったから。あの人の背中を追いかけて、同じ世界に飛び込んだ」
好きなことを仕事にしているのは、幸せなことだろう。
その才能があるのは、恵まれているのだろう。
「……だけど」
マキさんが続ける。
「俺は、俺が、わからなくなった」
足元の写真の束を掴み、彼は焚き火へ放った。
炎が猛り、火の粉が舞い上がる。何十枚もの写真を炎が呑み込む。
「シャッターを切ると、構図が同じなんだ。無意識に真似をしている」
写真のオオワシが、溶けるように燃えていく。
「伝え方が、切り取り方が同じでは駄目なんだ。タケさんのほうがずっと優れている。シンプルだけど、胸の奥まで届く」
牧島武司の写真を思い出す。
青い空に突き出した、枯れ木とオオワシ。
その力強く、美しい姿。
風を掴む瞬間、広げた翼。
羽根の一本一本まで、細かくリアルに写し出していた。空を見つめる、鋭い眼差し。飛び立つ躍動感が伝わってきた。
「だから、挫折の真っ最中さ」
マキさんが肩をすくめる。
「でも……マキさんの写真も、すごいと思います」
同じ雑誌に載っていた、エゾシカの写真。こちらを見つめる、訴えるような黒い眼。
「あれは撮ったんじゃない。撮らされた」
「撮らされたって、誰に」
「エゾシカに」
冗談のように聞こえたが、マキさんの目は真剣だった。
「撮りにいかなきゃ駄目だ。写真家なら、その一瞬を自分で掴まなきゃ駄目だ」
駄目、駄目、駄目。
「そんなに、自分に厳しくしなくても……」
冷徹なまでに、己へ容赦のない目を向けている。ストイック過ぎて、こっちが恥ずかしくなる。才能ある者は皆、そうなのか。
「タケさんから言われた」
ライカを持つ、彼の手に力がこもる。
「形見にするなって。ちゃんとお前のものにしろって。だから俺は、このカメラで俺の写真を撮らなきゃいけない」
「……そんなことで」
マキさんが頷いた。
「そう。他人からすれば、そんなことだ。でも、本人からすれば、大切なことだ」