第三闇 志望の底、甘さ、旅人
「野村教授。レポートの提出、チェックできました」
ゼミ室から声を掛ければ、隣の教授室から野村教授が姿を現した。ふわりと、香ばしい匂いが微かにする。
「助かったよ。四限目の講義には間に合うかい?」
「大丈夫です。何かあれば、また言ってください」
野村教授へ名簿とレポート用紙の束を渡す。
一年生の必修科目、近代文学史の課題。レポート用紙に二枚、手書きで提出させるのは、三年前から変わっていない。
「どうして、データ提出にしないんですか? そのほうが提出チェックも、成績をつけるのも楽でしょうに」
「楽だからだよ、小野寺君」
野村教授が、ふくよかな腹を揺らす。
「人は楽をしたがる生き物だ。だから敢えて、私は困難を選択する」
さすが、カーネル・サンダースに似ているだけのことはあって、含蓄のある言葉だ。
野村教授がレポート用紙の束を机に置き、ぱらぱらと見る。おや、と眉を動かした。
「面白いレポートでもありましたか?」
「いいや、君ほどのものはないね。……全部、名簿順に並べ直してくれたのかい?」
「ええ」
ふふふ、と野村教授が目を細めた。
「そういう気の利かせ方、真面目さが君の良いところだ」
胸に小さな痛みが走る。
「どうかしたのかい?」
「……いえ。僕の中で、真面目は褒め言葉として認識できなくて」
真面目とは、誠実なこと。
真心がこもっているという意味。
だったら、はっきりとそう言ってほしい。「真面目だね」の後に、「でも、それだけだね。つまらないね」という声がどうしても聞こえる。被害妄想だとは思うけれど。
ほっほっほ、と野村教授が笑った。
「君は、言葉を大切にしている。言葉の重さを知っている」
息が詰まる。
そんなこと、初めて言われた。
「文学が何の役に立つのか。世間にそう問われて久しい。結果主義の向かい風が吹く今、君のような存在は嬉しく思うよ」
「僕は……ただ、好きなだけです」
文学。人が紡いだ言葉の数々。
時代を越えて読み継がれていく小説。
読んで嬉しくなったり、悲しくなったり。感動したり、共感したり。何十年、何百年も人の感情は変わらないんだと知った。古臭い言い回しや表現はあるが、人の想いは古びない。
「コーヒーを淹れたよ。一服するといい」
ことり、と机の上にマグカップが置かれた。湯気の立つ、ブラックコーヒー。
「砂糖とミルクは使わないんだったよね」
「はい」
同じように、野村教授がブラックコーヒーを啜る。インスタントとは違い、柔らかくフルーティーな香りが漂う。
不意に、昨夜の缶コーヒーの味を思い出した。
焚き火の傍で飲んだ、ぬるい缶コーヒー。あれはあれで、よかった。ひっそりと沈んだ夜には、華やかな香りは似つかわしくない。
取っていた講義を終えて、アパートに戻る。
簡単に夕飯を作って、読書して。明日の筆記試験に備えたかったが、別の企業の履歴書提出が明後日に迫っていた。筆記試験が終わってから書いても間に合うが、今日中にできるところまで完成させておきたい。
いつも、そうだ。
志望動機が難問で。
書けば書くほど、自分でなくなっていく。
本音をオブラートに包んで。耳触りのよい言葉に両替して。本物だけど、偽物。ぴかぴかの金メッキを必死で重ねる。
集中力が切れて、ボールペンを机上に転がした。時計を見れば、午前零時二十六分。日付はいつの間にか変わっていた。
気晴らしに本棚から一冊、適当に引き抜く。夏目漱石の『草枕』。机に肘をついてページをめくる。主人公の洋画家が山中の温泉宿に泊まり、そこで一人の女性と出会うという話。
文字を目で追うが、内容は頭に入ってこない。つるつると紙面上を滑っていく。自分の中の、何かが揺らいでいると感じるが、その正体がわからない。
僕は、何になりたいのだろう。
何者なのだろう。
若者が抱く典型的な悩み、と片づけてほしくない。その悩みに溺れかけている。苦しくて息ができない日がある。逃げ出したい日がある。どうして自分だけと思う日がある。
いっそ足掻くのをやめて、溺れ沈んでしまえば楽になるのだろうか。重力に引かれるままに、深い深い暗闇の底へ落ちていく。黒い黒い水の底へ落ちていく。肺の中の空気を吐き出して、手足を投げ出して。何もかもを放り投げて。深海に降り積もる生物の死骸、マリンスノー。その一握になれたら。
本を閉じる。
机の上には、書きかけの履歴書がある。
空き地に行けば、焚き火は燃えていた。
「よう」
マキさんが片手を挙げる。
「……こんばんは」
乗ってきた自転車を停め、マキさんの向かいに座る。彼の傍では、クロが丸くなっていた。もうキャットフードを食べ終えたのか、満足そうに眼をつぶっている。
「ブラックでよかったよな?」
マキさんが黒い缶コーヒーを投げた。慌てて受け取る。
「ちょ、危ないですよ」
「ナイスキャッチ」
子どものように笑い、マキさんは青い缶コーヒーを開けた。
「……甘党なんですか?」
「うーん。たぶん、そうかもな」
こくり、とマキさんの喉が動く。深い香りと、微かな甘さが夜に溶ける。
「コーヒーの香りは大好きなんだよ。ただ、苦くて飲めない」
「それ、たぶんじゃなくて、本物の甘党じゃないですか」
「大人になれば、ブラックでも飲めると思っていたんだがなぁ」
やっぱり駄目だな、とマキさんが呟く。
「無理して、飲んでいた時期もあったよ」
「そんなことして、何の得になるんですか」
にや、とマキさんが唇を吊り上げた。
「わかるだろ?」
「いや、わかりませんよ」
「格好つけたかったのさ」
コーヒー如きで。
焚き火の炎が揺れる。ぱちり、と薪が爆ぜた。
「ムーミンを読んだことはあるか?」
唐突にマキさんが訊ねた。
「イラストなら、見たことありますけど……」
「スナフキンが言っていた。『大切なのは、自分がしたいことを知っているということ』、だってさ」
スナフキン。自由と孤独と音楽を愛する、世界の放浪者。その生き様はかっこいいと思う。憧れすら覚える。
大切なのは、自分がしたいことを知っているということ。
「……そんなの、当たり前じゃないですか」
「そうだよ。でも、それが難しいんだな。できそうで、できない。哲学だな」
スナフキンは偉大だ、と訳のわからないことを呟いて、マキさんがコーヒーを飲む。ぬるくて甘い、セドナのコーヒー。
「お前、本読みなのにムーミン未読って、損しているぞ」
「専門は近代文学なので。……というか、何で本読みって決めつけるんですか」
「においだよ」
「におい?」
服の袖に鼻を近づける。毎日洗濯しているが、それでも本の埃っぽさは染みついているのだろうか。
「あー、違う違う。そういう意味じゃないんだ」
すまなそうに眉を下げて、マキさんが手を振る。
「読書が生活の一部になっている者の気配だよ。リュウは一日、どれくらい本を読むんだ?」
「少なくても……二時間ぐらいは」
本を読まないと、ページをめくらないと落ち着かない。単なる活字を目で追えばいい訳じゃない。ネットでニュースを読むのとは違う、確かな身体感覚が読書にはある。
「物事を深く考えすぎるクチだろ?」
「ええ、まぁ。考えすぎ、真面目すぎだって、よく言われます」
「いいことじゃないか。思考が深いのは、立派な武器だ」
武器。
自分には不釣り合いなその言葉が、胸を引っ掻いた。
驚きが顔に出たのだろう、マキさんが小さく笑う。
「一日の読書時間がゼロという大学生が、五十パーセント以上だってさ。他人がやらないことをやる。それが強みになる。やがて武器になる」
「……何のための武器ですか」
「そりゃ、もちろん。理不尽や不条理や困難に立ち向かうための」
武器。
それは、僕が手にできるものなのだろうか。