第二闇 缶コーヒー、猫と猫
「よう」
「……こんばんは」
男が手招きをする。
「そんなとこにいないで、こっち来いよ」
怪しさ満点だが、足はある。ひとまず幽霊ではなさそうだ。空き地の隅に自転車を停めて、焚き火に近づく。
「座れば?」
男が向かいの丸太を指で示す。言われた通りに腰を下ろした。丸太はよく乾いていて、ジーンズが湿ることはなかった。
「コーヒーはブラックと加糖、どっちがいい?」
足元に置いていた白いビニール袋から、男が缶コーヒーを取り出した。右手に黒い缶、左手に青い缶を持つ。
「……ブラックで」
「おっ、大人だな」
切れ長で、少し垂れ気味の目が笑う。黒い缶を僕へ差し出した。礼を言って受け取りながら、男を観察する。
年齢は兄と同じぐらい、二十六、七歳ほど。
黒髪をうなじでひとつに結んでいた。気づいたら伸びていたけど切りに行くのは面倒くさい、というような長さだった。黒のウィンドブレーカーに動きやすそうなカーゴパンツ。キャンプをしている人に見えるが、テントはどこにも張られていない。
「牧島雅文。言いづらいだろ? マキさんって呼んでくれ」
そう言って、彼は青い缶コーヒーのプルタブを起こした。
「お前のことは、何て呼べばいい?」
「あ、えっと。小野寺隆です」
「そっか。じゃあ、リュウだな」
よろしく、とマキさんは乾杯するように缶コーヒーを掲げた。あっさりと名前呼びに決めた彼に面食らう。マキさんのほうが年上のようだが、その人懐こさが羨ましい。
「……あの。こんなところで、何をしてるんですか」
「うん? 焚き火」
ちびちびと缶コーヒーを飲みながら、マキさんは太い枝を使って薪の位置を変えた。手慣れている。
「それは、見ればわかりますが。こんな時間に?」
「こんな時間だからだよ」
答えているようで、答えになっていない。意図的なのか、無意識なのか、わからない。
腕時計を見れば、日付が変わっていた。
ぱちり、と焚き火の炎が爆ぜる。
手持無沙汰に、貰った缶コーヒーを見る。
有名飲料メーカーが出している、セドナという缶コーヒー。
青空に岩山のデザイン。アメリカのアリゾナ州にある観光地の名前から取った。その澄み切った風景と同じ、コクとキレのあるコーヒーを目指しているから、と会社説明会のパンフレットに記載されていた。エントリーシートで落ちた。
蓋を開ける。口をつければ、ぬるいブラック。苦味のある香りが夜に溶けていく。
沈黙が下りる。
ぼうっと焚き火の炎を見つめれば、体の強張りが解けていく。薪が燃える音と、渡る風に揺れる木々、幽かに鳴く虫たちの声が聞こえる。
頭上には晴れた夜空。三つ四つ、星が輝いている。梅雨に入る前の、中途半端な季節の途中。寒くもなく、暑くもない。
僕にとって沈黙は苦にならないが、マキさんはどうなのだろうか。
ちらと彼を窺う。マキさんは缶コーヒーを置き、代わりに手に持った、小さな弁当箱のような古い革のケースを撫でている。
マキさんが顔を上げた。僕と目が合い、小首を傾げる。
「……俺でよければ、話を聞こうか? それとも、何か話そうか?」
彼の申し出に戸惑う。ふらふらとやって来たのはいいが、自分が何をしたいのか、わからない。
「そんな気分じゃないのなら、黙っていても全然オーケーだけど」
焚き火の炎が揺らぐ。
「あ……ええと」
言い淀む僕を、マキさんは待っていてくれる。
「……聞いても、いいですか」
「うん」
「マキさんは……何をしている人なんですか」
「何に見える?」
「不審者」
ひどいな、とマキさんが苦笑した。
「こんなところで、こんな時間に焚き火をしているから」
「夜の焚き火は男のロマンだろ?」
わかるような気もするが、頭の中で常識が警鐘を鳴らす。
「ここ、伯父の別荘でさ。あの藪の向こうに家があるんだ。川も近いし、ガキの頃はよく遊びに来たよ」
マキさんが指を差す方向は、生い茂る木々と暗闇に完全に埋もれていた。目を凝らしても、何も見えない。
マキさんの言う通り、別荘があるのなら。
「どうして入らないかって?」
びくりと体が震える。考えを言い当てられた。
「鍵は持ってる。でも、入らない。あそこは、宝箱みたいな場所だから」
マキさんは口元だけで笑った。目は伏せて、焚き火を見つめる。
がさりと、草を踏む音がした。
蛍に似た光が二つ。闇の中で黒い塊が蠢いている。
「よう、クロ」
にゃあ、とマキさんへ挨拶を返した。夜が凝ったような、黒い猫。焚き火の光を受けて、グリーンの眼がきらりと輝く。
黒い猫はマキさんの足元に擦り寄った。マキさんは白いビニール袋からキャットフードの小分けパックを一つ取り出し、切り株の上へ開ける。黒い猫が切り株へ飛び乗り、カリカリとキャットフードを食べ始めた。
「マキさんの猫ですか」
「ん? 違うよ。たぶん野良。俺が勝手にクロって呼んでいるだけ」
黒猫だからクロ。安直だ。
マキさんが唇の端を吊り上げる。
「――『名前はまだない』ってな」
「『どこで生まれたのか、とんと見当がつかない』……ですか」
へぇ、とマキさんが目を丸くした。
「お前、面白いやつだな」
「そう言われたのは初めてです」
嘘だぁ、とマキさんが笑った。本当のことなのに。
「クロ。こいつ、リュウ。大学生っぽいぞ」
マキさんが僕を指差せば、クロがキャットフードを食べるのを止めた。じ、とグリーンの瞳が僕を見る。
「……人畜無害な大学四年、就活生です。こんばんは」
クロは無言で食事を再開した。カリカリと、音を立てて餌を噛み砕く。
「嫌われちゃいました?」
「猫はそっけないもんだよ」
マキさんが片手で缶コーヒーを飲む。セドナの加糖コーヒー。
食べ終えたクロが、ぺろりと舌で口元を舐める。ついでとばかりに毛繕いをして、やがて切り株の上で丸くなった。
しん、と夜の静寂が戻ってくる。
暗闇の中で燃える焚き火。オレンジ色の炎が、マキさんの顔を照らす。
「ここで……焚き火を囲んで、何をしているんですか」
訊ねれば、彼の目が瞬く。
「何も。ただ、やり過ごしている」
「何をですか」
「何かを。というか、リュウもそうだろ?」
当たり前のように言われた。
「僕は……ただの酔い覚ましです」
「でも、焚き火を見つけた。引き寄せられた。そういうことだ」
勝手にマキさんが納得した。
そうして、静かに告げる。
「眠れない夜は、ここに来ればいい。誰もお前を拒まないし、誰もお前を待ってはいない」
焚き火の炎が爆ぜ、夜の端が揺れた。