第一闇 お祈り、分かれ道、炎
「小野寺は? 何回、祈られた?」
飲んでいたレモンサワーが気管に入った。
「おっと、タイミング。すまん」
咳き込む僕に、向かいに座る尾崎が新しいおしぼりを投げる。有り難く受け取り、口元を拭く。
「……さっき、十三通目が、来た」
「マジか。しんどいな」
どっと笑い声が上がった。居酒屋の同じテーブル、サークルの誰かが面白いことでも言ったのか。三年生をはじめ、後輩たちが爆笑している。みんな楽しそうでなにより。
「尾崎は就活、どう?」
ポテトを口に放り込んだ尾崎が、手で胸の前にバツを作る。咀嚼しながらの無言。それを見て、ため息が出た。
「僕は……サイレントお祈りも数えたら、三十は超えそうだけど」
「それな。オレも似たようなもんだ」
――今後のご活躍を、心よりお祈り申し上げます。
オブラートに包んだ不合格通知。それすら、教えてくれないところもある。
企業側にも事情はあるだろうが、通知の予定日を過ぎて何のリアクションもないと、気持ちの切り替えが上手くいかない。
「何が、就活生の売り手市場だよ。世知辛い世の中だ」
尾崎がグラスに残っていたビールを一気飲みした。どん、と空のグラスをテーブルに打ちつければ、すかさず三年生の後輩が声を掛ける。
「尾崎先輩、ビールでいいっすか?」
「そー、頼む。小野寺は?」
「まだあるから、大丈夫」
「りょーかいっす」
すんませーん、と後輩が通り掛かった店員を呼び止める。ラミネートされたメニュー表を片手に、ビール以外の注文もしていく。適度に騒ぎながら、周りの注文をまとめていたらしい。よくできた後輩だ。
「なんかさ、虚しくなんねえ?」
「珍しい。尾崎が弱気」
茶化すなよ、と尾崎が眉を寄せた。
「そりゃ、へこむわ。ぶっちゃけ余裕こいてたわ。有名大企業とかじゃなきゃ、なんとかなるだろーって。なんとかなってないのが現状じゃん? 正岡なんて、もう内定もらったらしいぞ」
「へぇ」
今は六月上旬だから、早い。
別のテーブルにいる正岡の姿を探す。三年生の頃は明るい茶髪だった頭は、今は黒い。後輩たちに囲まれて、笑っている。
「営業職だってさ。いいよな、後は卒論を片付ければ、遊び放題」
「ふうん。知らなかった」
同じ国文科だが、ゼミが違うと頻繁には会わない。それは僕だけかもしれないが。じわり、と腹の底に嫌な冷たさが広がる。
「あっ、そーだ。小野寺、卒論なんだけどさ。もうテーマ決めた?」
「うん。だいたい」
そう答えれば、尾崎が両手を合わせた。頭を下げる。
「真似してもいいか?」
「……全く同じは、駄目だよ」
「そこはちゃんとやる、上手くやる。テーマが似てても、野村教授は見逃してくれるはず」
カーネル・サンダースのような、穏やかな野村教授の顔が思い浮かぶ。
「別にいいけど……夏目漱石だよ」
「おお、メジャーどころ。それなら、被っても不思議じゃないだろ」
「やり尽くした感があるから、どういう切り口で研究するのかが難しいんだってば。……尾崎は漱石の作品、どれぐらい読んだ?」
尾崎が手で、胸の前にバツを作った。
ため息が零れる。
居酒屋を出れば、駅前の明るさで夜空が霞んでいた。
眩しいネオン。道行く人が多い。適当に停めた自転車の鍵を外し、手で押す。乗りはしない。さすがに飲酒運転で警察のお世話になりたくない。乗れば軽車両、押せば歩行者だ。
「小野寺は真面目すぎ」
赤い顔の尾崎が笑う。
「田んぼに突っ込んだら嫌だし」
「そりゃそーだ。ウケるけどな」
「尾崎も気をつけて。電車のホームから落ちて、明日の朝刊に載らないでよ」
「おう。落ちるのは面接だけで十分だ」
「それ、うまくないから」
ジーンズのポケットでスマホが震えた。メッセージが一件。兄から、近い内に荷物を送るとのこと。有名私立大卒で、地元の県庁に勤めるエリートからの連絡は、それだけで心をざわつかせる。わかった、と一言だけ返信。
田村と別れて、アパートへ帰る。
飲み会の雰囲気は嫌いじゃない。
大人数に囲まれて、それなりに会話して。それでも、自分は独りなんだと不意に思う。プラスチックのような薄い膜が、自分の周りにだけ張り巡らされている感じ。
ネオンが眩しい大通りから裏道へ曲る。
人通りの少ない裏道を、さらに曲る。曲る。
明りの少ない、先の見えない道を歩けば、思考は後ろを向く。十三通目の不合格通知、今後の活躍を祈られた。祈られて何になるのか。
独りになると、現実が憎たらしくなる。
四つ歳の離れた兄。
明るくて、勉強ができて、世話焼き。仕事で何かのプロジェクトを任されたとか聞いた気がする。期待された若手。期待なんかされず、お祈りメールまみれの自分がみじめに思えてしまう。
独りになると、何もかもが嫌になる。
このまま、どこか遠くへ行きたい。
自転車のペダルを漕いで。夜が続く限り走って。すべてを忘れて。
どこか、遠くへ行ってしまいたい。
その甘い思い付きは、容易く暗い衝動へ昇華する。
消えてしまいたい。
たとえ僕が消えてしまっても、世の中は変わらずに機能するのだろう。当然のように、陽は昇るのだろう。
独りになると、思い知らされる。
暗い夜道を行けば、胸にぽかりと穴が開いた感覚がする。寂しさとは違う。虚しさとも違う。言葉で表現できない無力感。
からからと、車輪が回る音がする。
こんな夜は、うまく眠れそうにない。酔い覚ましをしてから帰るのがいい。
薄くアルコールの靄が掛かる頭でそう考え、アパートとは反対方向へ向かう。街中を抜ければ、一気に田畑が広がる。典型的な地方都市の風景。栄えているのは駅前だけ。川沿いの道を行く。手で押す自転車の回る車輪の音。明かりはダイナモのみ。
からからと、車輪が鳴る。
さらさらと、水が流れる。
川沿いを十分も歩けば、道が二手に分かれた。
小高い丘の展望台へ続く坂道と、鬱蒼と木々が茂る暗い林道が伸びている。
いつも酔い覚ましは展望台に行くので、林道は一度も通ったことはない。大学にも、僕のアパートにも辿り着けないので、通る必要がない。廃屋がひとつふたつあって、肝試しスポットになっていると、サークルの誰かから聞いた。
自転車の前輪を上り坂へ向ける。
ちらっと、オレンジ色の光が目の端に引っ掛かった。
「……うん?」
薄暗い林道。小さく、何かが燃えている。
林の向こう。木々の隙間で揺れている。
――人魂。
空気を吸い損ねて、ひゅっと喉が鳴った。背筋が凍り、全身が総毛立つ。今は六月上旬、肝試しにはまだ早い。
僕のように気鬱を抱えた誰かが、川に飛び込んだのか。呑まれた水の冷たさに苦しみ、迷い出てきたのか。酔いが一気に覚める。暗闇に、よくよく目を凝らせば。
本当に小さな炎が見えた。
木々の隙間から、ちろりちろりと燃えている。火事ではない。静かに、人の手で燃やされている。夜のすみっこで揺れる炎。
「……なんだ」
安堵の息が零れた。ただ同時に、なんで、と疑問が湧く。林道の向こうには、人が住んでいる家などはない。
日付も変わる、深夜。
誰かが、焚き火をしている。
むくりと好奇心が疼いた。
自転車を林道へと向ける。薄暗い道をはじめて通る。
からからと、車輪の音が闇に響く。さらさらと、川の流れが遠ざかっていく。両脇から木々が迫る。枝葉が頭上に覆い被さり、夜空が見えなくなった。自転車のダイナモが、前方を頼りなく照らす。
息を殺して歩けば、左手の木々が途切れた。ぽっかりと夜空が見える。
小さな空き地で、焚き火が燃えていた。
子どもの頃にやった華やかなキャンプファイヤーとは違う。静かで小さく、重い夜の底でひっそりと燃えている。
ひとりの男が焚き火の前に座っていた。炎を見つめる横顔は若い。
バキッ、と自転車が枝を踏んだ。
その音に男が振り向く。