第九闇 陰鬱な夜、世界の端、焚き火
自転車のダイナモが暗い林道を照らす。
日付が変わる深夜。
頭上に覆い被さる枝葉で、星は見えない。
木々が途切れた場所、ぽかりと空が開けた場所で小さく炎が燃えていた。
空き地の隅に自転車を停める。燠火のように、ちろちろと弱々しく燃える焚き火の傍には、マキさんの姿はない。いるにはいるらしい。丸太の横に白いビニール袋が置いてある。
しん、と夜の静けさが耳を刺す。
風はなく、虫の声も聞こえない。
見上げれば、漆黒の夜空。焚き火が小さいせいか、瞬く星々がよく見えた。
星の鷲が一羽、天を舞っている。
アルタイルを有する鷲座。七月になれば、ベガが輝く琴座が見えるようになる。琴座は鷲座と対となり、ヨーロッパでは落ちる鷲と呼ばれている。これに白鳥座のデネブを加えたら、夏の大三角形のできあがり。
焚き火の横に積まれた薪をくべる。弱くなっていた火が息を吹き返し、薪を舐め始めた。オレンジ色の炎が夜闇を照らす。
「にゃあ」
闇が鳴いた。
蛍のような光が二つ、グリーンの眼がきらりと光る。
「クロ」
定位置の丸太に座り、手と声で呼んでみる。
「おいで」
猫はそっけないものだから。来ないかと思ったら、意外にも擦り寄って来てくれた。嬉しくて、頬が緩むのが自分でもわかる。
喉を撫でてやると、眼を細めた。気持ちが良いらしい。ごろごろと喉を鳴らす。
チヂッ、と小鳥が囁くような音がした。
クロが僕の手から離れ、丸太に飛び乗る。
振り向けば、マキさんが立ったままライカを構えていた。いつもの黒のウィンドブレーカーに動きやすそうなカーゴパンツ。
「……盗み撮りですか?」
「まさか。対象物に気づかれないように、予告なくシャッター切っただけ」
「それを世間では盗み撮りと言います」
「固いこというなって」
マキさんが焚き火の向かいに座る。
「撮りたかったから、しょうがない。写真家の性ってやつ」
ライカのレバーを操作してフィルムを巻く。その表情が柔らかくて、虚を突かれた。
「現像したら、やるよ。それまでのお楽しみ」
「……撮れたんですね」
「うん?」
彼が目を瞬かせる。
「マキさんの写真」
託されたカメラで撮らなければならないと言っていた。牧島武司の真似ではなく、写真家・牧島雅文としての作品。
にや、とマキさんが唇の端を吊り上げた。
「さぁな。フィルムカメラは現像してみないと、わからない。真っ黒でした、ってこともある」
「プロですよね?」
「失敗は誰にでもあるさ」
予防線を張るのは、世知辛い社会を生き抜く大人の知恵。ずるいとは思うが、同時に逞しいと思う。
憧れを感じる。
世界の切り取り方。
自分と、世界との関わり方。闘い方を知っている。
「マキさんの写真のように……僕は言葉で闘ってみたい」
呟けば、焚き火の炎が揺らいだ。マキさんの視線を感じる。
文学が何の役に立つのか。それは命題であり、迷題。考えれば考えるほど、わからなくなる。
でも、人は言葉で考える。
言葉で伝える。
――君は、言葉を大切にしているね。
野村教授の声が耳に蘇る。
「僕にとって、言葉は大切だから。だから、言葉を伝える、その手助けをしてみたい。そんな仕事がしてみたい」
静かに見つめるマキさんの目に、じわじわと頬が熱くなる。
「……こんな、ちっぽけな理由だけど」
勢いで口に出してしまったが、青臭い戯言だ。
ふっと、マキさんが口元を緩めた。
「他人からすれば、そんなこと。でも、本人からすれば、大切なことだ」
いつかの言葉。じんわりと胸の内が温かくなる。
「リュウなら、そうだな。出版社、編集者……校正者とかぴったりだと思うが」
「校正者?」
「雑誌に記事を書くこともあるから、よくお世話になる。名前は表に出てこないけど、心強い影の味方だよ」
お前は変に理屈っぽいし、とマキさんが目を細めた。
「誰もがなれる仕事じゃない。楽な仕事じゃない。それでも、挑戦してみたいのなら、目指してみる価値はあると思う」
「――はい」
胸の内に小さな火が灯った。
吹けば消えるような、弱い火。だけど、その小さな熱に奮い立つ。見つけた。大切なこと。自分がやりたいと思えること。
マキさんが何かを言いかけ、けれども口を閉じた。
「なんですか」
「ん……いや」
「途中で止められると、気になりますよ」
「リュウには、掛けられない言葉だなって思ってさ」
マキさんが眉を寄せた。
「どんな言葉ですか」
「頑張れ」
ありきたりで、普通に使う応援フレーズ。
でも、僕の胸にひどく突き刺さる。
「社交辞令で使ったりするけど……俺もな、苦手なんだ。この言葉」
マキさんが口元を歪めた。
「だって、もう頑張っているだろ。それなのに頑張れって言われて、どう頑張ればいいんだ? もちろん、無意識で。単なるグットラックという意味で使われているかもしれないが、言われたほうとしちゃ……しんどいときだってある」
それは理解できる。
「じゃあ、何て声を掛けますか?」
焚き火の炎を挟んで、マキさんと目が合う。
剛い光を宿した、それでいて静かな目。
「負けるな」
彼の声が闇を打つ。
「理不尽に、不条理に、世の中に。あと、自分に」
負けるな。
鼓膜が震え、胸の奥底へ言葉が刻まれる。焼印のように消え難き声。
ぱちり、と炎が揺らぐ。
たぶん、ありふれた夜なのだろう。
誰しもの上に、夜は来る。それをどう乗り越えるかだ。
自分なりの方法で足掻いて。導べとなる言葉を胸に抱いて。
陰鬱な夜をやり過ごす。
今日も何処かで。
世界から弾かれたような場所で。
きっと、焚き火は燃え続けている。
〈了〉




