序
からからと、手で押す自転車の車輪が鳴っている。
さらさらと、川の流れが鼓膜を震わせる。
月のない夜の下、胸の内に冷たい水が広がっていく。
――消えてしまいたい。
回る車輪。繰り返す思考。
歩いていた川沿いの道が、前方で二手に分かれた。
小高い丘の上、展望台に続く坂道。
駅前から随分と離れているので、さすがにネオンの光も届かない。雲のない夜だから、星座の三つ四つは見えるかもしれない。
もう一方は、薄暗い林道。
大学の方向でもなく、僕のアパートにも辿り着けない道。飲み会帰り、酔い覚ましには展望台へ向かうので、一度も通ったことはない。通る必要性もない。廃屋がひとつふたつあって、肝試しスポットになっていると、サークルの誰かから聞いた。
自転車の前輪を上り坂へ向ける。
ちらっと、オレンジ色の光が目の端に引っ掛かった。
見間違いだと思った。
薄暗い林道。小さく、何かが燃えている。林の向こう、木々の隙間で揺れている。
――人魂。
空気を吸い損ねて、喉がひゅっと鳴る。全身が総毛立つ。今は六月上旬、肝試しにはまだ早い。
僕のように気鬱を抱えた誰かが、川に飛び込んだのか。呑まれた水の冷たさに苦しみ、迷い出てきたのか。酔いが一気に覚める。暗闇に、よくよく目を凝らせば。
違った。
木々の隙間から、本当に小さな炎が見える。
ちろりちろりと燃えている。火事ではない。静かに、人の手で燃やされている。夜のすみっこで揺れる炎。
なんだ、という安堵と同時に。なんで、と疑問が湧く。林道の向こうには、人が住んでいる家などはない。
日付も変わる、深夜。
誰かが、焚き火をしている。
単なる好奇心で、自転車を林道へと向けた。はじめて通る道。
からからと、車輪の音が闇に響く。さらさらと、川の流れが遠ざかっていく。両脇から木々が迫る。枝葉が頭上に覆い被さり、夜空が見えなくなる。
自転車のダイナモだけが唯一の明かり。