三十八羽目
突然だがこの時ヶ峰の授業形態は前期と後期で分けられる二学期制である。六月末に前期末の試験があり、そこから約一ヶ月特に何もなく七月末には夏休みなる。そして今日は全生徒が待ち侘びていた終了式。今日を乗り切ることさえ出来れば晴れて夏季休業となるので、教室の空気も少しばかり浮ついている。後輩たちと比べれば受験という枷を背負っているが故に、地に足はついているがそれでも多少は気が緩むらしい。
「雫―、体育館いくよー」
「嫌だ。俺はここから動きたくない」
「一応向こうも空調は入ってるよ?」
「馬鹿言え。あれだけ広い空間に全生徒が詰め込まれるんだぞ? どれだけ強風を送ろうとも蒸し暑いに決まっている」
教室は三十人程度の人数に対してかなり低めに温度が設定されている。受験生には万全の体勢で臨んで欲しいという教師陣の粋な計らいである。快適な環境もとい寝場所を提供してくれるのは有り難い。この時期だと屋上も無駄に暑くて休むに休めないからな。
「そうは言っても今日は校長が登壇するし、行かないと後が怖いよー?」
「……くそっ、しまったそうか。こういう日だけは登るんだったなあいつ」
「校長だからね」
時ヶ峰の魔女は学園の校長である。節目の日にはマイクの前に立って何かを語るのが通例であるから、今日サボるということは死を意味する。というかこの会話も聞かれているんだろうから、サボったら間違いなく殺される。
「……行くしかないよなぁ」
「天下の悪魔も死は恐れるんだね」
「天下にいる奴は上に負けてるからな」
くだらないやり取りをしながら、階段を降り体育館へと足を進める。泰樹が俺の真横ではなく半歩後ろにいるのは、俺の足を止めないためである。いらんプレッシャーがひしひしと伝わってくる。こうなってしまってはもう逃げられない。大人しく歩くとしよう。
「そう言や泰樹、魔女の方は片付いたのか?」
「んー、ようやく折り返しって所かなぁ。どうしても周りの環境に左右されちゃうというか、待ちの状況も多かったりしてね。そのくせ一つの仕事がとてもとても面倒だし、大変なんだよ僕も」
「苦労してんなぁ」
がっくりと肩を落とす生徒会長様に同情の目を向けつつ労っておく。ただ、こいつがここまで疲弊しきっている事がいつか俺にも雑務として回されるかもしれないと思うと気が重い。予期しない事を想定していない時に押し付けてくるからあの魔女は嫌いだ。
体育館に入ると思っていた通りむし暑く、シャツが身体に張り付いてきた。左を見ると後輩どもがうじゃうじゃしている。夏休みが始まるのが待ち遠しいんだろうな。君らも数ヶ月後には受験に追われて悲鳴をあげるんだぞとは言わないでおく。それにしても暑い。密度を加味しても暑過ぎる。
「本当にこれ空調入ってんのか……?」
頭上からやけに重苦しい音がぐわんぐわんと聞こえるからちゃんと機能してはいるんだろうが、側面の窓と出入り口を全開にしながらでは冷気も途端に逃げて行くというものだ。いや閉めろよ。それを泰樹に問えば、空気を循環させておかないと体調が悪くなる人が出てくるからと爽やかに答えられた。こいつよく見ると汗一つかいてないな。
「僕は魔力操作が上手いからね」
「君とは違ってという前置きが見えたぞ?」
「被害妄想だぁ」
「嘘つけ。顔に書いてあるぞ」
やたら大袈裟な仕草で口元に右手をやる泰樹を白けた目で見ていると最前列の方から黄色い歓声が上がった。どうやら校長が登壇したらしい。同種に対しては人使いの荒い魔女だが、一般生徒に対しては頼りがいのある校長として映っているのだろう。校長が廊下を歩いているだけで声をかけられているのを何度も目撃している。その度に何がそこまで慕われる要因になっているのか考えるが一向に分からないままである。
「さてお前ら、明日からは待ちに待った夏季休業だ。好きなことを突き詰めるもよし、何もしないもよし。好きに生きろ。学校に縛られていた時間が解放され、気持ちが昂るのは重々理解できる。だが羽目を外し過ぎるなよ? 私の仕事が増えるからな」
生徒に向かってお前らと呼ぶ校長は世界中どこを探してもここだけだろう。そこに痺れる憧れると宣う生徒もいるのだから、ここ時ヶ峰の生徒は侮れない。佐伯のファン然り薬師院の親衛隊だったか何だか然り、まともな奴はここにはいないのか。
「ま、長々と話していてもお前らからしたら退屈だろうからな。空気の読める私の話はこれで終わろう。後は適当に主任たちの話を聞いてくれ」
その言葉に、恐らく次に話すであろう学年の主任が苦笑いを浮かべている様は最早恒例となっている。直属の上司にあいつらの話はつまらない上に長いから流していいぞと言われているものの、毎回手を変え品を変え連絡事項と伝えてくれる姿には尊敬すら覚える。俺なら確実にやる気を失くして職務放棄まっしぐらだろう。
「えー、校長先生に面白くないと言われ続けた結果、面白い話をしようと一から勉強している学年主任の佐藤です。えっとですね、まず皆さんに謝罪しないといけません。面白い話を考えすぎた結果、本来話すべき内容がすっ飛びました」
おいおい何だそれは。その場の全員が同じツッコミを入れたと思う。
主任の連絡もつつがなく進み、程なくして終了式の全行程が終わり解散となった。各生徒達はぞろぞろと体育館から教室へと向かっていく。その流れに身を任せ俺と泰樹も教室に向けて足を進める。この状況を上から見たらさぞ気持ち悪い光景のだろうなといつも思う。同じような黒い頭がひしめき合っているのだから、集合体恐怖症は悲鳴をあげてしまうだろう。
「あ、雫に姫路ちゃん。後で校長室に行ってね。こわーい魔女様がお呼びだから」
教室に着くなり泰樹は俺とポンコツにそう告げた。その瞬間、がらがらと俺の休暇が崩れる音がした。
「い、嫌な予感しかしないんですが……」
「その予感は正しいぞポンコツ。またこき使われるんだろうな」
「私の夏休みは!?」
「そんなものはない」
そんなぁと悲鳴混じりに崩れ落ちるポンコツを見下ろしながら、一体どれほど労働力を提供しないといけないのかと俺も憂鬱になる。今年は何日休めるのだろう。せめて一週間は欲しい。
「し、失礼しまーす」
「遅いぞお前ら。まぁ逃げなかっただけ良しとしてやる」
高圧的な言葉が重い四肢を切りつけていく。呼んだのなら珈琲ぐらいは提供して欲しい。
「それもそうだな。淹れてやるよ。全員ブラックか?」
「構いませんよ」
「構わん」
「あ、私はミルクをください」
「オーケー。そこら辺、適当に腰掛けとけ。すぐに持っていく」
振り返ることなく校長は右手を軽く振り上げる。するとあれよあれよと言う間に床からは立派な机とソファが出現した。この光景だけを切り取るとやはり目の前の魔女は凄まじい魔力と知識を持っているのだと再確認させられる。言葉遣いと人使いが荒くなければ、それなりに尊敬できるんだけどなぁ。魔女という生き物はどうしてこうクセがある奴らばかりなのだろうか。
聞こえているぞという視線と共にカップが飛んできたので、この話は一旦置いておこう。
「さて、全員揃ったな」
それぞれのカップが行き渡たった所で校長は本題を切り出してきた。クッキーの封を切りながらという些か緊張感に欠けた切り口ではあるが、まぁ多分重要なことなので気を引き締めておこう。などと思っているのは俺だけのようで、甘味に弱いポンコツは速攻でクッキーを食べているし佐伯は未だに本を読んでいる。なるほどこいつら話を聞くのは俺の役目だと思っていやがるな。
一生懸命に佐伯をお昼に誘ったり放課後デートに誘っている奴ら覚えておけ、佐伯が本を読んでいる時は本当に興味がないだけで鬱陶しいとさえ思われていないんだぞ。
「椿がいることで気が付いているとは思うが、今回は魔女関連だ」
「具体的には?」
「大昔に始まりの魔女が暮らしていた場所に行ってもらう。そして忘れ物を取ってこい」
「忘れ物? 魔女のか?」
「あぁ。あのまぬ……偉大な魔女様が置き忘れたらしくてな。自分で取りに行けよとも思ったんだが、どうもあの魔女は自分の部屋から出られないそうでな。だから外部の奴らに持っていくしかないんだよ。不承不承だが」
こいつ始まりの魔女のことを間抜けと言いそうになってなかったか。お前らの始祖に対して不敬極まりないぞ。
「で、その外部の奴らってのが俺らだと」
「あぁ。私が出向こうとも一応は思ったんだがな、どうもあの場所は同族を嫌うらしく弾かれてしまったんだ」
「同族を嫌う?」
「魔女の結界ですよ。私たちは各々何かしらに対して強い抵抗を持っていますからね。始祖に当たる彼女も例外ではありません」
ポンコツと俺の疑問にはようやく活字から視線を外した佐伯が答えた。それに同意するように校長が顔を顰めていることからそうなのだろう。魔女は固有魔法の他に結界まで持っているのか。優遇されていると捉えるべきか制約が多いと捉えるべきか悩ましいが、普段から身近にいる魔女達の様子を鑑みるに前者であろう。
「あの、同族を嫌うというのでしたら佐伯さんも行くことが出来ないのでは?」
「あぁー、椿は特例だ。こいつは何かが始まることを嫌う、最後の魔女だからな。謂わば始まりの魔女の対極に位置する魔女だから影響を受けないんだ」
全くもって意味が分からないが佐伯がいるのは心強い。暴発の危険も付き纏うピーキーな魔女ではあるが、詳しい奴がいるのは精神的にも助かる。
「まぁもうこの際、行きたくないと駄々をこねることはしないが、労働の対価はしっかりもらうぞ」
「チッ、がめつい悪魔だな。まぁ良い。金はやれんが休暇ぐらいは別に作ってやる。それで良いだろ?」
「だそうだ。良かったなポンコツ。お前の夏休みは無くならないぞ」
「わーいわーい! やったぁ!」
両手をあげて喜ぶ姿は普段と変わらず子供じみている。普段はこんなに能天気な成りをしているくせに、時たま何かを憂いるように遠い目をするのだから分からない。いつまで経っても俺はポンコツに対しての理解が足りないのだ。或いは理解しようとしていないのか。
「出発は明朝。時計台まで来い。道は作ってやるから安心しろ。他に何かあるか?」
「特に何も」
「右に同じ」
「ラグイル了解しました!」
「何もないな。よし、解散っ!」
陸軍式の敬礼をするなポンコツ。ここはいつから軍隊になった。いやこれ前にもあったな。
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翌朝、普段よりも早めに朝食を済ませ、まだ暗い時間帯に玄関を開けた。朝焼けに照らされる一本道は普段の忌々しさとはかけ離れ幻想的な道であった。その光景に心を落ち着かせている俺の横で、ポンコツはまだ開ききっていない目を頻りに擦りながら歩いてる。校長からの依頼しかり、何かしら動き回る必要性がある場合は決まってボトムスを履いているポンコツだが、今日に限って洗濯が間に合わなかったようで珍しくスカートを履いている。
「あら、早いのね二人とも」
時計台の下にはすでに制服姿の佐伯がいた。相変わらずその小さな片手には、厚手紙に包まれた文庫本が重々しく鎮座している。
「一秒でも遅れたら殺されるからな。賭け金が大きすぎる賭けは趣味じゃない」
「今日においては懸命な判断ね。けどギャンブルにしては小心者過ぎて悪魔とは思えないわ」
「ほっとけ。そういや皐月くんは来ないのか? お前がいる所には常にいるだろあいつ」
「場所が場所だしアレは連れて行けないわよ。ただのお荷物を持っていけるほど私の腕は強くないもの」
アレ呼ばわりされているのは佐伯椿の付き人である近衛皐月。俺からしたら後輩であり、佐伯からしたら使い勝手の良いおもちゃである。おもちゃという表現が自他ともにそう公言するしかない状況であるのだから、皐月くんには同情する他ない。ただまぁ、それでも楽しそうにやっているのだから彼は案外マゾヒストなのかもしれない。
「おぉ、ちゃんと揃ってるじゃないか。感心感心」
振り返るとやたら機嫌の良さそうな校長が手を振っていた。
「にしても椿。お前まーた制服か。ちったぁ着飾んねぇとせっかくの顔が台無しだぞ。少しは姫路を見習ったらどうだ」
「それ、貴女だけには言われたくないわ」
佐伯が眉を顰めるのもそのはず、今日も今日とて校長は白シャツに黒のスキニーという何とも言えない格好なのだ。年中同じ服装をしていることに関しては佐伯と同じである。
「けど確かに佐伯はいつも制服だよな。他に服を持ってないってわけじゃないんだろ?」
「服装を考えるのに時間を割きたくないだけよ。ただそれだけ」
この話はこれでおしまいとでも言うように佐伯は再び活字に目を下ろす。これは佐伯の癖のようなもので、この魔女はバツが悪くなると本の世界に閉じこもり出すのだ。一度閉じこもったら梃子でも動かない。対抗できるのは皐月くんぐらいなのだが、頼みの彼も今日はここにいないのでどうしようもない。同じことを校長も思ったのか、苦笑いを浮かべながら説明を始めた。
「言っておくが今から作るのは一本道だ。引き返すことは出来ないからな」
「ならどうやって帰ってくるんだよ。まさかお前がもう一度開けるのを待って言うんじゃないだろうな?」
「馬鹿いえ。この私がそんなチンケなことをすると思うか? 帰り方は椿が知っているから安心しろ」
そう言われ佐伯の顔を見るとめちゃくちゃ得意気な表情だった。いつの間にか本も閉じているし。佐伯、お前は時代が違えば絶対嫌なタイプのお嬢様だよ。飢えに苦しむ民衆に対して別の物を食べれば良いじゃないとか言い出した挙句、最後には民衆に殺されるお嬢様だ。
「飯ヶ谷、私は人の心を読むことは出来ないけれど、物凄く不名誉な事を思われているのは分かるわよ?」
「おっと」
「飯ヶ谷さん顔に出やすいですからねぇ」
キュニアス然り佐伯然り俺の表情はそんなにも分かりやすいのだろうか。今後の生活に影響が出ないとも考えられないので、帰ったら鏡と睨めっこでもしてみよう。多少はマシになるかもしれない。
「何してんだお前ら。早くこっち来い。門を開くぞー」
手招きをする校長と俺らの間にはうっすらと白く輝く陣が展開している。腰に当てを当て、全員の顔を満面の笑みで確認するやいなや校長は勢いよく地に両手をついた。そして小さく息を吸い長く荘厳な言を編みだす。音に呼応した空気が揺れそれに答えるように目下の陣が強く光だす。輝度は徐々に強さを増し目の前に大きな門を創り出す。あの長い一本道の背後で幾度となく見た大きな門を。
魔女が大きく息を吸う。そして決定的な一言を口にする。
「目を閉じ過去を開け」




