三十四翼目
やかましいと言われればそうだし、風情があると言われればそうとも思える音が窓の向こうから聞こえてきます。暑さに強いとはいえ気怠さに強いわけではありません。日光を頭の上から浴び続けるのは、もう少し慣れが必要ですね。学生服は夏仕様になったものの、正装に比べたら風通しは幾分悪いです。¥現在時刻はまだまだ午前九時。午前中が終わるのにあと三時間はかかります。お腹が空きました。珍しく朝は私が作ったので、今日は飯ヶ谷さんの作る間食はありません。うーん。多少値は張りますが購買で何か買いましょうかね。
「上の空だね姫路ちゃん」
「いえまぁ、お腹が空いたなぁと」
「……早すぎないかい? ちゃんと朝は食べたんでしょう?」
「飯ヶ谷さんより早めに起きたので私が作りました!」
「珍しいね。てっきりいつもみたく、雫に叩き起こされてるのかと思ったよ」
「まぁ確かに珍しいですよねー。だからこそ校長の件も今日は心配ですよ」
「そう心配しなくても伝言を届けるだけだから大丈夫だと思うよ」
「それはそうなんですけど、なーんか嫌な予感がするんですよねぇ」
飯ヶ谷雫という存在はいささかイレギュラーなのです。存在そのものが周囲に悪影響を及ぼすわけではないにしろ、その起源というか生い立ちがかなり特殊です。まぁそれを言ったら私たちも、決して正常とは言えませんがね。
「シルヴァという精霊に面識はありませんが、向こうの湖って言ったら色々あったそうじゃないですか」
「待って待って。姫路ちゃん、君、どこまで知っているの?」
周囲の温度が降下する。東さんの目が物語っている。次の言葉次第では面倒なことになるよもしれないと。まぁ、こればっかりは仕方ないですね。私が知らされたことはかなり上位の機密事項扱いですし、ただの天使である私がそれを知っているんですから、警戒されるのも当然です。正しい反応です。とは言え、もう誤魔化しも効かないでしょうし正直に言ってしまいましょう。小さく息を吸って内なる憎悪を吐き出しましょう。
「一度、人間なんか殺してしまおうと考えるぐらいには知ってますよ」
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啖呵を切るような言い方をしてしまったので、頭を冷やすべく屋上に来ました。要するにサボりですね。あぁ、これ天使長に知られたら半殺しにされちゃいますね。うわぁ、今になって後悔しだしました。
「で、でもこの時間帯なら誰も来ないはず!」
「朝ぱっらからサボりとは上等じゃねぇか姫路」
「ぴぃやぁぁぁぁ!!」
「よっ!」
片手を上げて私を見下ろすのは時ヶ峰の魔女であり、この学校の校長でもある魔女です。私の背丈は小さい部類にあたるのか、大抵は首を上げなければ会話が出来ません。飯ヶ谷さんより少し小さめな校長ですから、私が見下ろされるのは当然のことなんですけどね。飯ヶ谷さんなんて私の後頭部を眺めてますし。と言うか立場上は校長という肩書きの人がダメージジーンズにプリントシャツなんて雑な格好で良いのでしょうか。普通はスーツなんかを着ているはずなんですけど。
「で、姫路。授業中にも関わらず屋上で油を売ってるとはどういう身分だ? え?」
「いやぁ〜、はっはぁ……」
「まぁ、泰樹から聞いてるんだけどな」
「ですよねぇ!?」
東さんにあんな言葉を放った手前、こうなるのは目に見えてました。きっと色々聞かれるだろうなと思ってましたよ。えぇ、はい。
「聞きたいことは多々あるが、どうせ聞いても答えないだろ。というか答えられないだろ?」
「んー、別に答えられないわけではないですけど、そういう体でお願いします」
「オーケー。私も別に面倒な事を進んでする馬鹿じゃないからな。答え合わせはせん」
「その口振り全部わかってますよね……」
「そりゃ私だからな」
当然のようにこの魔女は言う。確か固有魔法だったかな。他人の心が読めるだとか理不尽な魔法。魔女だけに許される世界の根幹を揺るがす魔法。ただし私の認識も完全ではない。魔女の固有魔法について完璧に、一切のズレもなく把握しているのは魔女だけだ。
「ただまぁ、一つだけ聞いておこうか」
「なんですか?」
「お前、飯ヶ谷のことはどう思っている?」
「どうって言われても……」
色んな言葉が頭をよぎる。私は一度、飯ヶ谷さんに会っている。そして助けられている。今となっては古い記憶の羽売り事件。天使の間では一時期かなり大事になったこと。人間に羽をもぎられ、それを売られる。字面だけで見れば単純なことだけれど、実際に見た感想を言えばいっそ死んだ方がマシだと思うほどには怖かった。だからそんな状況を打破してくれた飯ヶ谷さんには感謝しているし、幼い頃の私の記憶に深く残っている。
「お前の返答次第では、大神にも話を聞きに行かないといけない」
「校長って脅し文句得意ですよねぇ」
少しお茶らけてみる。それでも私を見る校長の視線は変わることはない。さて、ちょっと真面目に考えてみよう。いえ、考えるまでもなく答えは出ているんですけども。それでも一度、本気で考えてみるとしましょうか。どうして私がこんな感情を持っているのか。あー、その理由も既に分かっているような気がしますね。だってあんなにも絶望的な状況で颯爽と助けに現れてくるんですよ。それはもう、幼い私の心に強く印象付けられるってもんです。えぇ、えぇそうですよ。そのために私はこの監視役なんてのに立候補、もとい直談判したんですから。
「私は飯ヶ谷さんのこと、大好きですよ」
うん。自問自答を何度繰り返してもやっぱりこの結論に行きつきますね。我ながらなんとも単純なようで、こればっかりは呆れられても仕方ありません。
「ま、そんなとこだろうとは思っていたがな」
「知ってて聞いたんですか!」
「さっきも言っただろうが。お前らの考えることなんて手に取るように分かるぞ」
「もうやだこの魔女……」
言われ慣れているのか校長は、それがどうしたと言わんばかりに私の背を叩いてきます。非力なはずの魔女にしては痛いです。
「お前にあれこれ吹き込んだのも大方、あのちっこい神様もどきだろう?」
「そうですね。天使長を説き伏せるのに苦労したそうです」
「だろうなぁ。他の天使にさえ言いたくないのに、よりにもよってお前だからなぁ」
飯ヶ谷雫という存在を紐解くということは少なからず、この世界の裏側を知ることになる。大神様にそう前置きされた時は甘く見ていましたが、聞き終えると言葉の重みが増したましたね。しかもそんな大事を当の本人は知らないのだから驚きです。いえ、知らないと言い切ってしまうと語弊がありますね。知っているけれど思い出せないと言った方が正しいでしょう。
「お前も既に知っているようだが今の飯ヶ谷は不安定だ。キッカケさえあればすぐに壊れる」
「だと言うのに対抗戦で古代種が現れてしまったと」
「何だ姫路、古代種まで知ってんのか?」
「いえ。それに関しては名前程度しか」
「んぁ? あいつは全容を伝えたんじゃないのか?」
「いやぁ、あくまで飯ヶ谷さんのことがベースですからねぇ。終末から後のことと私達の成り立ちぐらいですよ。あとはまぁ、私の昔話を少しって感じですかね」
「だったら余計に知らないといけないはずだが……あいつもしかして、途中から端折りやがったな? 師匠の封が解かれることは想定できなくても仕方ないが、中途半端に教えるんなら全部教えろよ馬鹿が。責任感のクソもねぇな」
うっわぁ、校長が本気で怒っています。ドス黒いオーラが見えますよ。私の中で絶対に怒らせてはいけない人に認定された瞬間です。天使長は怒っても優しさがありましたけど、校長は本気で殺しに来そうですね。言動には気を付けましょう。
「あ、あの〜、校長?」
「後で絞めに行くか。ん、どうした姫路?」
「物騒な言葉が聞こえましたがスルーします。続きをどうぞ」
「懸命だな。だがちょっと待て。この際だから全部教えてやろう」
「全部とは……?」
「全部って言ったら全部だ。どうせ受験勉強なんてお前らには必要ないんだからサボっても構わん」
「おやおやぁ、面倒なことはしないんじゃなかったですか?」
「それとこれとは話が別だ。あの馬鹿が適当に知識を放り込みやがったから、こればっかりは仕方ない。良いか姫路。知識ってのは中途半端に持っている時が一番危ういんだ。対処法も知らん馬鹿が高度な機材を触っても事故るだけなんだよ」
「それはそれは何とも、重みのある言葉ですねぇ」
年長者の言葉には自然と重みがあります。実体験があるからでしょうか。それとも誰かの失敗を目の当たりにしたからでしょうか。まぁ、どちらにせよですね。
「それで、具体的には何を教えてくださるんでしょうか。よもや一から十とまではいきませんよね?」
「二度も言わせるな。全部と言ったら全部だ。一から今に至るまでだ。お前がただの天使であるなら一から十でも十分過ぎるが、お前は飯ヶ谷の監視者だ。いやそれ以上にお前はラグイルだ」
「いやははぁ……」
「あいつに向き合うよりも先に、お前は自分と向き合え」
風が長い髪を揺らす。私の愛する風は、どうも今日は吹いていないようです。
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その昔、それは神様が変わる時。神様の隣には一人の天使がた。その天使は新しい神様を導き、一つの大きな争い終わらせた。やがて神の友人と喩えられたその天使は、ずっと調和の取れた世界が続くものだと思っていた。堕ちていった仲間ともケジメをつけた。もう何もこの和を乱す者はいないだろうと、そう思っていた。けれどもそれは淡い幻想で、甘いだけの妄言だった。その天使は気付いてしまった。己の在り方と、守護すべき彼らの愚かさを。それは直視するには残酷で、軽視するには重過ぎたのだ。
キャパシティを超えた天使は堕ちた。前例に違う事なく緩やかに転落した。
天使と悪魔の二者は表裏であって乖離しているわけではない。故に天使は時として悪魔へと堕ちる。だがその逆は長らくなかった。考えたこともなかった。神聖さを失った者が取り戻せる物など一つもないと誰もが思い込んでいた。けれども神様だけは違った。世界一の技術者と信頼する魔女に頼み込み、堕ちた天使を引き上げた。
かくして異端で特例で突飛な二代目が生まれた。多少なりとも姿は違えど本質は削がれていない。完全ではないにせよ見劣りはしない。そんな天使が。
「━━━━とまぁ、そういうわけで、お前は今ここにいるわけだな」
「うわぁ、改めて聞くと凄まじいですね」
「唯一の不幸と言えば、あれだな。一度ならず二度も裏切られたことだろう」
「ですねぇ。あの時に飯ヶ谷さんが駆けつけてくれなかったらと考えると身震いしますよ」
「それが良いのか悪いのかは知らんが、あのまま羽をもがれてたら今度こそ本当に終末だったろうな」
寒過ぎるぐらいに冷房の効いた校長室。相変わらず書類でごちゃごちゃと散らかった机に結露の付いたグラスを置くのはどうかと思うし、出来れば私にも机を出して欲しいです。
「まぁ今の私は覚えていませんが、当時の私からしたら発狂ものですよね……」
「だろうな。何せ生死を賭けて戦ってた奴らの一人に救われてるんだからな」
「ですよねぇ」
今の私でもそれが異常なことだと瞬時に理解できます。いやぁ、時代は変わったなぁ。
「記憶を無くしてるって事に関してはお前ら二人は同じだな。おめでとう」
「いやいや何が良いのか全く分かりませんよ!?」
この校長、たまに意味のわからないことを言いますよね。思考回路が壊れているというよりは、分離に分離を重ねているというか。
「お前らが理解しようとしないからだ」
「あぅ、聞かれてるんだった!」
恐ろしい方ですね。これでは迂闊な事を考えられません。
「気を抜くなよー? 今お前が対話してるのはこの私だ。ま、飯ヶ谷みたく開き直るのも一つだがな」
「どちらかと言うと諦めているような……?」
飯ヶ谷さんは何とかして読まれないように策を練っているようですが、これはちょっと厳し過ぎませんかね。私に出来る最上級の思考プロテクトも突破されましたよ。精神防御の苦手な飯ヶ谷さんではどれだけ頑張っても無理でしょう。
「さて、ここまでが姫路。お前にまつわる全てだ。あの馬鹿神が言ってない事も薄々勘付いていたこともあっただろうが、今日の本題はそこじゃない」
「飯ヶ谷さんについて、ですね」
「そうだ。お前も大概だが飯ヶ谷に関して言えばそれ以上だ。あいつを知ることはこの世界を知ることだ。純粋な時間だけで言えば、あいつは誰よりも長い時間をここで過ごしている。だからこそ、これからお前に伝える事は知ってる奴が少ないんだ。知られたくないんだ」
「一応聞きますけど、それを教えてくれるのは私が監視する役目だからですか?」
「もちろんそれもあるが、お前の抱く感情を知っちまったらなぁ」
「……む、それ関係ありますか?」
「悪い悪い。お前のそれを茶化すわけじゃないが、ちょっとした冗談でも交えないとこっから先はしんどいんでな」
双眸に映る魔女は重い口を開き語り出しました。私が知らなかった事。私が知らなければいけない事。そのどれもが壮絶な歴史であり、悲壮な過去であることを私はきっと忘れないでしょう。




