三十三羽目
例年よりも過ぎるのが早かった雨粒は、ジメジメした鬱陶しさの代わりに猛暑という凶器を落していった。六月から八月までの三ヶ月間は何度経験しても慣れることはない。なので本日も例外なく、暑い暑いとボヤきながら通学路に立っているわけである。
「……暑い」
「もぉー、朝から何度目ですかそれ。ほらほら交差点からはすぐなんですから、頑張りましょう!」
「なんでポンコツは平気なんだよ……」
「それはねぇ、魔力的な話だよ!」
「わひゃあっ!?」
茂みから飛び出して来たのは例にもよって泰樹である。
「もう、本当さ、止めない? 背後からにじみよるの? この暑さの中、お前の相手まではしきれんぞ泰樹」
交差点の信号が赤になった瞬間から予感してたのだ。無駄に茶目っ気があるようで、その実ただ煩わしいだけの存在である生徒会長。何度言っても背後から湧き出るのを止めようとしないので、もはや恒例となりつつあり非常に不本意である。仮にも信仰を集めていた対象であったならば、早急かつ迅速に止めて頂きたい。
「で、一体どういうことなんだよ」
「んー、歩きながらでも良いかい? このままだとあと数回は信号変わっちゃうし」
泰樹に促され足を動かす。白線と地面のコントラストの上は陽炎が揺らめいて、今日の気温の高さを物語っている。校舎内の空調が機能していることを祈ろう。
「さて、さっきの話の続きだけど姫路ちゃんは何か知ってることはない?」
「んんん? 思い当たることとすれば、属性?」
「正解! 流石は天界きっての天才だ!」
「えっへへ、それほどでも〜!」
「待て待て、それぐらいなら俺も知っているぞ。世界を構成してる四つだろう?」
この世界を作ったのは始まりの魔女である。そして世界を形成しているのは火と水と風と土の四つ。これらは言い換えれば、人間が生きていく上で最低限必要な四つでもあり常に魔力として溢れている。とは言っても時代が進むにつれて大気中の魔力は薄くなっており、今ではほとんど存在していない。ここまでが化物達に通ずる常識である。
「じゃ雫、この世界の構成魔力が本当に四つだけだと思っているのかい?」
「どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。よく考えてごらんよ。こんなにも広い世界がたった四つだけで構成されていると、本気で思っているのかい? それはなんとも君らしくない」
「ですねぇ。私はてっきり飯ヶ谷さんも知っているんだと思ってましたよ」
「何なんだ一体……」
「よしよし、じゃ説明してあげようー」
ワザとらしく人差し指を立て、泰樹は語り出す。それは妙に懐かしく納得する話だった。しかし、こんな朝っぱらの通学路で何を語っているんだろうか。認識阻害をかけてなかったら春先のヤバいやつだな。
「まずね、結論から話すとそれぞれの属性には裏側があるんだ」
「裏側?」
「順に言うと、火が照らす焔、水から成る氷、風に揺られる草、土に還る雷ってな感じで派生したのがあるんですよ」
「そうそう。で、姫路ちゃんが言ってくれたのを裏属性って呼んでるんだ」
「ほぉ」
初知りだと思う。一度同じようなことを誰かに聞いたような気もするが、もしそうならばこんなにも面白いことを忘れるはずがない。これは色々なことに応用できるだろう。いや実際に応用して来たから今の世界があるのか。まだまだ魔力云々に関しては知識が足りないな。道理でアレを読み解くのに苦労するわけだ。だが表と裏を合わせても、まだ分からないのもあるがそれは追々考えるよう。爽快感とかけ離れた状況で思考しても無駄なだけだ。
「でまぁ最初の話に戻るんだけど、姫路ちゃんの魔力は水系統の割合が高い。そんでもって魔力量は桁違いだから、それが原因でこの暑さにも影響されてないんじゃないかな。溶ける氷も沢山あれば溶けにくくなるしね」
「一理あるな。どうなんだポンコツ?」
「そうですね。私も東さんと同じような結論です」
「なるほど。そう考えると便利だな」
「飯ヶ谷さんも風を使えば良いんですよ」
「知ってるか? この時期の風って吹かせても不快感しかないんだぞ」
「既に実験済み!?」
春は花粉を夏は湿気を含み秋は乾燥し冬は寒い。風を吹かすのは簡単だが、そんなことをするくらいなら冷房や暖房を付けた方がいい。わざわざ魔力を熾してまでするのは馬鹿らしい。
「てかお前ら、認識阻害とかかけてんのか? 朝っぱらの通学路でする話じゃないだろこれ」
「私は別に起動してませんね」
「僕もしてなーい。だから今この場に雫はいないんだよー?」
「いや阻害してるだけで消えてないからな?」
「もしや目の前にいる飯ヶ谷さんは最初から存在していなかった!?」
「何だその不吉な物言い! いるからな俺!?」
自分の存在を周囲も含めて誤認しているとか怖すぎる。ずっと自分は皆と同じだと当たり前のように思っていて、それがずっと続くと疑いもしていなかったのに、ある日突然お前の在り方は嘘だらけだと言われるのは誰だって残酷だ。ならば幸福が不幸に転じる時よりも、初めから不幸な方がある意味では幸せなのかもしれない。そんな事よりもこの暑さがうざったいが。
「おい泰樹、教室に入ったら速攻で冷房付けてくれ。昇降口の感じからしてまだ何処の教室も付いてないぞ」
「あー、流石の僕も昇降口の通気だけでそこまで分かるのはドン引きだよ……」
「飯ヶ谷さん素質は高いはずなのに、そのベクトルがアレですからねぇ」
「アレとは何だアレとは」
これぐらい風を使ってるやつなら誰でも出来るだろ。失礼な奴らだな。
「ま、素質の無駄遣いは飯ヶ谷の特権だからな。仕方ないぞ」
「ですよねぇ。やっぱり校長も……ってわぁ! ど、何処から出て来たんですか!?」
「なんでそう泰樹といいお前といい、気配を経って背後から湧くんだ? 流行ってるのかそれ?」
「いやぁ、僕なんか塁に比べたら全然だよー」
「そうだな。私よりも塁の方が上手いし、何なら塁が最初だぞ」
何でこんな所で新しい発見があるんだよ。しかも驚きの元凶身近な奴だし。朝比奈のことは泰樹と同じようによく知らないから、何がどうして気配を絶って背後から忍び寄るようになったのか気になる所だ。聞いても適当にはぐらかされるんだろうけど。
「まぁそんなことはどうでもいい。飯ヶ谷、お前今日学校休め」
「何でだよ」
「んなもん仕事に決まってんだろ。安心しろ公欠にしといてやるから」
「重要なのそこじゃねぇ……」
「頑張ってくださいね飯ヶ谷さん!」
「帰りたい。頑張りたくない。涼みたい」
「ごちゃごちゃ言わずにさっさと準備しろ。時間は有限だぞ。ほら、早く!」
この一睨みで一体どれだけの人数が難題を突きつけられ苦労して来たのだろう。下手をすれば暴君よりも酷い。拝啓、先代の小間使い諸君。どうやら俺も君たちと同じ道を辿ることになりそうだ。いつの日にか出会うことが叶うならば、この愚痴を語り合おう。
「おいおい飯ヶ谷、もう三つぐらい雑用するか? ん?」
「あぁー、分かった分かった。で、内容は?」
「別にそこまで大変なことじゃない。シルヴァに伝言を頼むだけだ」
「……あのあの、シルヴァってどなたですか?」
「俺も知らない名前だぞ」
「ん? 何だお前ら知らなかったのか?」
いやそんなさも知ってて当然みたいな顔をされても困るんだよな。いかに化物は人に比べて数が少ないとはいえ、知らない奴も普通にいる。接点がなければ人間と同じように認識できないのだ。でもって俺の記憶を辿る限りシルヴァという名前に聞き覚えはない。
「シルヴァはな、ナトゥーラの姉だ」
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この季節の不快感は一時間ごとに倍増していく。結局俺はあの後も校長の頼み、もとい強要を断ることが出来ず伝言を届けにひとっ飛びしているわけで、つまり空調の恩恵を得る事は出来なかったわけだ。ちくしょう。炎天直下で黒い羽を出して飛ぶのは自殺未遂に近いので、代用である魔力を足場にして跳躍する移動法を用いている。面積の広い黒色は熱をすぐ閉じ込めてしまうから困ったものだ。
「さて、目的地は……?」
校長から渡されたのは紙切れに書かれた大雑把な地図。いやもう地図と呼ぶのもおこがましい。ただの落書きだ。そのせいでさっきから一向に目印が見当たらない。何だよバーっと飛んだら湖が見えるって。かなりの距離を跳んで来たが湖なんて何処にもないぞ。見渡す限り緑しかないじゃないか。というかこの森、こんなに広かったんだな。
「おっ、もしかしてあれか?」
朝から跳び続けてようやくそれらしきものを見つけた。言われた通りそこは確かに湖で、それを取り囲むように木々が生え連なっている。そんな中で一つの切り株が異様なほどに目立った。校長から預かった封書を手に持ち、足を地に降ろして湖へと向かう。しかし、もう少しの所で透明なナニカにぶつかった。押せども叩けどもナニカは壊れることはなく、まるで結界のように俺を中に入れてはくれない。
「おいおい何だよこれ。進めないじゃないか」
「そこから先に入っては駄目」
大地の底から声がしたような気がする。ナトウーラよりも重く根強い声。
「わっ!?」
「ここはあの人との約束があるから……あら?」
「どうしてこう、視界の外から現れるんだお前らは」
大地から声がしたのは比喩でも何でもなく、ただの事実だったらしい。そりゃ下から出てくるんだから足元から声がするだろう。キュニアスと言い精霊ってのはまともな奴がいない。
「何だがとても失礼なことを言われている気分なのだけど、こんな辺境に一体何の用?」
「時ヶ峰の魔女から伝言を預かっている。俺はそれを届けに来ただけだ」
「時ヶ峰の魔女から? あの魔女も随分と成長したのね。ちょっと前だったら考えられなかった」
「そうなのか?」
「えぇ、あの頃は何も考えずに突撃して来たのだから困っていた」
しみじみと言う彼女は、仕草の一つ一つが妙に洗練されている。今まで出会ってきた誰よりも無駄がない。動作と言うのは確かにやり続けることでスムーズになる。ただ彼女に関しては、これが全ての動作の教科書ですと言われても納得してしまうレベルだ。自然すぎるが故に不自然で少々不気味だ。文末が統一されているのも不気味さを際立てている。
「そう言えば名乗っていなかった。私の名前はシルヴァ」
「やっぱりアンタがシルヴァか」
「私のことを知っているの?」
「アンタのことは名前しか知らんが、ナトゥーラとは何度か面識がある」
「そうだったの。あの愚妹は元気?」
「愚妹て、まぁ森の修復に勤しんでるよ」
ナトゥーラの活発さとは違いシルヴァの口調は少々雑である。でまぁ話の対抗戦で主に校長が荒らした場所はまだまだ修復され切ってはいないらしい。泰樹とメルムの一戦で被った被害はほぼ修復したそうだが、校長の檻によってできた溝を修復するのに時間が必要らしい。あの魔女の魔法、一つ一つが桁違いだからな。ナトゥーラの苦労が目に浮かぶ。
「それで、件の伝言とやらは?」
「あぁ、これだ」
「……相変わらず汚い字」
手渡した封を破りシルヴァは書かれているであろう文字に目を落とした。校長の字が汚いのは俺の錯覚だと思っていたが、どうもそうではないらしい。ここは心地の良い風が吹いている。向こうのジメジメした風とは違いとても澄んでいる。マイナスイオンが凄いな。浄化されてしまいそうだ。ポンコツをここに連れてきたら騒がしくなりそうだが、あいつの魔力とは色合いが落ち着きそうである。
「……私の知らない間に大変なことになっている」
どうでも良いことを考えていたらナトゥーラが深刻そうな面持ちで嘆息した。
「なんて書いてあったんだ?」
「他人の伝言を聞くのは野暮だと思わない?」
「む。それもそうか」
あくまで俺は校長からの伝言を届ける役目を追っただけだ。ただの運搬屋が運んだ物の中身を尋ねるのはマナー違反だろう。それでもまぁ、朝一から強制的に働かされているのだからそれぐらいはいいじゃないかという気持ちもする。
「ねぇ貴方。貴方の記憶は何処から始まっているの?」
「そりゃ一体どういう意味だ?」
「そのままの意味。他意はない」
「そう言われてもなぁ」
「何でも良い。貴方が思いつく記憶を適当に言ってみて」
「んー、親父に鍛えられて、母親に家事を鍛えられて、最近じゃポンコツに手を焼かされてることぐらいしか思い出せん」
「最後以外は至って平凡。他には?」
「特には……?」
長い時を生きる精霊からしてみれば俺の記憶は平凡らしい。平凡で悪かったなと嫌味を言おうと思ったが、多分ナトゥーラは終末の頃から生きている。そんな精霊からしたら確かに俺の生命は平凡だろう。それこそ仕方ない。生きている時間が違うのだから。
「そう。そうなの? 貴方にあるのは、そこから先しかないのね」
悲しそうな表情でナトゥーラは俺の両目を見据える。この表情、あの魔女と同じだ。申し訳なさそうで苦しそうな表情。やはり俺には知らないことがある。それを知っている化物は何人かいて、けれどもどう言うわけか俺にそれを教えることは出来ないらしい。誰かから口止めでもされているのだろうか。そうなると考えられるのは大神ぐらいしかいない。ただアイツに直接聞いた所ではぐらかされるか、ぶん殴られるだけだろう。
「そんなに難しい顔をしなくて良い。貴方が知りたいことはそう遠くない内に分かる」
「そう封書に書いてあったのか?」
「……」
無視。まぁ良い。精霊と意思疎通ができること自体が特殊なのだ。今更こんな状況なんともない。
「ここはいい場所だな。空気も美味しいし、心が落ち着く」
「そう? 今の貴方にそれを言われるのは複雑だけれど嬉しい」
沈黙。風が木葉を揺らす音が異様に大きく聞こえる。どうして俺はこんな所で気まずい思いをしているんだろう。いや普通に届け終わったから帰るべきなのだが、どうもナトゥーラの圧があるのかここから離れられない。じっとりと俺を見上げる桜色の双眸から、何故か責められているようでつい逸らしてしまった。
「貴方、本は読む?」
「まぁ、それなりには」
「そう。じゃあ、大図書の方には足を運べた? あそこはかなり良い書物があるわよ」
「あ、あぁ。興味を惹かれたのはいくつかあった」
「そう。司書は貴方でも迎え入れてくれるの。いえ、寧ろ貴方だからかしら」
意味が分からん。こいつが喋っているのは俺とは違う言語なんじゃないか。キュニアスの時もそうだし、ナトゥーラの時もそうだ。アイツらはたまに可笑しな独り言を呟いている。もしかしたら俺に対して語りかけているのかもしれないが、こっちとしては意志の疎通が出来ないので独り言として取り扱うしかない。
「ねぇ、貴方が本を読むのは何故?」
「何故って聞かれてもな。知的好奇心?」
「ふーん」
もしかして今、回答間違えたか。いやいや、聞かれたことに対して答えたのだから間違えも何も無いだろう。素っ気ない態度を取るシルヴァの方が間違っているはずだ。自分から聞いたのだから、少しは興味を持ってくれよ。あんまりぞんざいに扱われると泣いちゃうぞ。
「昔、こう言った化物がいる」
おいおいこの精霊、一人でに語り出したぞ。俺のことはお構いなしか。
「自分が本を読むのは書いた人間がその物語にどんな結末を付けるのか、それを見届ける為だと。中々面白いことを言うと思う。私はもう、自分で自分の結末を紡げないからあの化物の言葉がよく分かった」
「どうして、自分で終わらせられないんだ?」
「あら。それを貴方が聞くの?」
「……ん?」
一瞬の煌めきにも似た、微かな怒りがシルヴァの瞳に宿る。けれどもそれはすぐに消えて、次の瞬間には桜色をした綺麗な瞳に戻っていた。
「まぁいい。時ヶ峰の魔女からの伝言、確かに受け取った。近いうちにそちらに向かうと返答しておいて」
「それは別に構わないが……」
「ありがとう。何か聞きたげな表情だけれどごめんなさい。私も教えられない。そういう取り決めだから」
取り決め。教えられない。俺についての何かを知っている奴は決まってそう言う。何だか気味が悪い。俺の知らないことを知っている奴は一定数いるにも関わらず、何も知らないままで今日まで生きて来た。俺の中に欠損は見当たらない。少なくとも俺はそう思っている。それとも違うのだろうか。今朝の泰樹が言っていたように、ここにいる飯ヶ谷雫は実際は存在していないのだろうか。
「そんなに思い悩まなくていい。私は何も教えられないけれど、一つだけヒントをあげる」
「ヒント?」
「貴方、もうそれほど時間が残っていない」
「え……?」
「何かを成したいのなら、なるべく急ぐこと」
ヒントと言ってシルヴァの口から出たのは更に俺を追い詰める言葉だった。何故かその一言が胸に強く刺さった。鎌を首に添えられているような絶望感が背後から漂う。俺が知らないことはなんだ。俺が知りたいことはなんだ。誰が何処まで知っている。誰が何を隠そうとしている。そんなことが頭を巡る。巡りながら脳を焦す。
「まぁ、好きに生きて。私は貴方の味方ではないけれど、それと同時に今は敵でもないから」
じゃ、と一言放ちシルヴァは再び地に消えた。風の通るはずのない湖の水面は静かに音を立て波打っていた。




