三十一羽目
対抗戦という一つの区切りがついた帰り道、俺は普段となんら変わらずポンコツと帰路についていた。今日は本当に疲れた。疲労困憊という言葉を今使わずしていつ使おう。
「いやぁ、にしても今日は大変な一日でしたねぇ……」
「色々大変だったが、やっぱり最後の一戦がしんどかったぞ」
「あっははぁ……」
ちょっとした含みを持たせて言えば、ポンコツは苦笑いで誤魔化してきた。夕焼けが背後から今日を労ってくれる。それに照らされて全身の筋肉が悲鳴をあげている。いかに化物といえども負荷を与えられれば、それ相応の疲れが出る。今すぐにでも布団に飛び込んで、明日の昼過ぎまで寝ていたい。しかしながらまだもう少し部屋まで距離はあるし、何より腹も減った。
「なぁ、ポンコツ。今日の夕飯、何か食べたい物でもないか?」
「そうですねぇ」
夕飯を考えるのも面倒くさく、ポンコツに匙を投げることにした。普段なら間髪入れずにあれが食べたいこれが食べたいと要求を言ってくるが、今日はやけに時間をかけて考えいる。こいつもこいつで疲れているのだろう。俺と戦う前は一体どんな戦闘を繰り広げたのだろうか。当たり前だが自分以外の戦場は、何もせずに無条件で分かることではない。自分の中での主人公という者は、どれだけ卑屈になろうとも自分自身だ。とは言え、それも他人からしてしまえば、いくつもある脇話の一つに過ぎないのだ。俺という存在もポンコツからすれば、沢山ある中の一つに過ぎないのだろう。まぁ、監視対象という少しだけ重要な存在なのかもしれない。グダグダと考えているが、要するに聞けばいいだけの話である。今日は一体、誰とどんな戦いをしたんだと一言聞けばいいだけの事である。
「あの、飯ヶ谷さん聞いてます?」
「……ん?」
「もぉー、夕飯のリクエストを聞いたのは飯ヶ谷さんなんですから。ちゃんと聞いてくださいよー」
「すまん」
なんだか訳のわからないことを長々と考えていたせいで、ポンコツの話が一向に入ってきていなかった。どうやら俺は疲れると考え込む癖があるらしい。疲れている状態に更に負荷を掛けるなんてとんだマゾヒストじゃないか。いやそんなことはどうでも良い。夕飯の話だったな。なんだろう。ポンコツなら一仕事終えたのでとびっきり美味しいのが食べたいです。とでも言ってくるだろうか。そうなると一旦買い出しに行かないといけなくなるかもしれない。さぁ、なんでもこい。極限まで使い潰したこの身体、買い出しに行く程度には動くぞ。
「今日はうどんが食べたいです!」
「え、うどん?」
「うどんですっ!」
もうそれ以外は考えられないと言うような表情でリクエスト突きつけてくる。いやこっちとしては助かるのだが、本当にポンコツはそれで良いのだろうか。もっとこう何か他にあるだろうに。
「俺としては手軽でいいんだが、本当に良いのか?」
「まぁ、確かにもっとあるよなーとは思いますけど、奮発してちょっと高めなお肉とか食べたいなーとか思いますけど! あれだけ動いた後なのであまり食べられないというか、食べる気になれないというか……」
「なるほど」
言われてみれば確かにその通りだ。空腹感はある。でも食欲は湧かない。そんな時に食べやすいうどんというのは強ち間違ってはいないのかもしれない。とは言え、流石に単品だけでは物足りない。何かもう一押しあれば足しになる。冷蔵庫の中に牛肉ぐらいは入っていたかもしれない。それを玉ねぎと炒めて、うどんの頭にするのも良いだろう。ポンコツの言うちょっと高めなのではないが、それはまたの機会にしてもらおう。
「あの、飯ヶ谷さん」
「なんだ?」
「これから先、きっと色んなことが起こると思うんです。良いことも悪いことも。願わくば良いことが長く続いて欲しいなって思うんですけどね。でも私、全然知らないんですよ。知らないことばっかりで、今日も何も出来なかった」
斜め下に視線をやりながら、ポンコツはそうこぼした。らしくもなく自嘲気味にそう言う姿が妙な不安を誘う。知らないのは俺だってそうだ。どうしてメルムは俺を同胞と称すのか。始まりの魔女に対しても、泰樹に対しても詳しくは知らない。断片的にそれも恐らく一片程度の物だ。だからどうしてそんな表情をするのか問いただそうと思ったが、その前に部屋に着いてしまった。
「ささっ、飯ヶ谷さん。美味しいうどん頼みましたよ!」
ポンコツが世界で一番落ち着く空間の鍵を開ける。
「馬鹿言え。お前も手伝うんだよ」
「ちぇ〜」
普段通りのやり取り。だからこそ感じられる違和感がある。表情こそ取り繕えても、瞳は嘘をつけない。澄んだ蒼い瞳の奥に何を思っているのか、俺はまだ聞けないでいる。触れてしまうと痛みが広がってしまうような気がするから。卑怯な言い訳であり、我ながらなんとも情けない。
その後つつがなく夕飯の支度を終え、覇気のなくなった天使と悪魔は定位置に腰を降ろした。
「ん? 食べないんですか飯ヶ谷さん?」
「……なぁポンコツ」
「なんですか?」
「お前は今、幸せか?」
「え、急に何を言い出してるんですか。疲れ切ってるのなら私がそれ食べますから、布団に潜っても大丈夫ですけど?」
「最後ただの願望だろ。いやそんな突っ込みは良い。どうだ?」
「んー、そんな風に真正面切って真面目な感じで聞かれる答えるのも歯痒いですが」
うどんのつゆを飲み干してポンコツは言う。
「私は今、とっても幸せですよ!」
「そうか。なら良いんだ」
どうしてこんなことを聞いたのか、俺自身も分かっていない。それでも綺麗な顔で笑うポンコツを見て、ひどく安心した。
「疲れが溜まっているのかもしれん。これ手を付けてないから、食べたかったら食べていいぞ」
「わーい! じゃなくて飯ヶ谷さん!?」
「よく言うだろ。疲労は思考を貪り尽くすって。まぁ、そういうことだ」
「いやいやどういうことですか! あ、ちょっと、飯ヶ谷さん!? ねぇってば!」
「おやすみポンコツ。良い夜を」
どうせポンコツも起きたら忘れている。俺だって明日の朝まで覚えていられる自信がない。もう瞼が意思に反して落ち始めている。布団に崩れ、ピクリとも動かない四肢を投げる。薄れ行く意識の外側で、ポンコツが不思議がりながらもうどんを美味しそうに啜る音だけが最後まで残っていた。
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夢を見ていた。荒野を駆ける四つの影。世界を彩ったそれらは、やがてポツリポツリと消えていく。一つは人間の世界に溶けた。一つは世界のために命を賭した。一つは人間に憎悪を抱いた。一つは知られぬまま消息を絶った。彼らのことを人間は知らない。彼らが今の根底を築いていることを知ろうとしない。
『あーあ。アタシらの仕事って結局なんの意味があったのさ。こんな風に足蹴にされちゃってまでする価値あったの?』
『仕方ないわよ。エマのお願いなんだから。エマが望んだ世界を彩るのが私たちの役目でしょう?』
『アンタよくその性格で生きていけるわよね。息苦しくないの?』
『まぁまぁ、二人ともその辺にしてねー。そろそろエマも帰ってくるだろうし、聞いてみようよ。もうこの仕事を終えても良いのか、それともまだ続けなければならないのか』
そんな会話を眺めている。彼らの名が分かるようで分からない。それでも何故か、ひどく懐かしいと心が訴える。安らかな日の光に伸びる三つの影がこちらを向いた。
『ちょっと黙ってないでアンタも何か言いなよ。不満とかないわけ?』
『こら。彼を困らせないの。誰だって多かれ少なかれ不満なんて持っているわ。私だってそうだもの』
『不満っていうことに関しては僕も同感かなー』
『アンタの場合、特に深く考えてないでしょ』
強い言葉に含まれる愛情で戯れ合うような不思議な感覚。嘘偽りない純白の一ページを覗き込んでいるようだ。しかしその愛おしさを感じる声たちも次第に遠のいていく。徐々に日は沈みやがて月が昇る頃には、もう何も聞こえなくなっていた。それでも悲しさはなかった。脱力した身体が、夜に響く呼吸が、弱々しく脈打つ心臓がこの結果に納得していた。あぁ、これは仕方のないことだと。
周囲にいた者がいなくなれば、当たり前だが一人になる。もうあの賑やかな声は聞こえない。出来ることは頭の片隅でゆっくりと反芻することだけ。彼らのことを少しでも長く覚えていたかった。忘れたくなかった。留めておきたかった。それでも時間の流れは手ひどく過ぎ去っていく。声が聞こえなくなった。姿が見えなくなった。体温を感じなくなった。囲った食の味を思い出せなくなった。最後に、彼らの匂いが霞んでいった。胸に宿る苛立ちと哀情を薪にくべても、燃え上がる記憶は何もなかった。力が抜ける。世界から色が落ちていく。灰色の視界に残ったのは、春の小雨にも似た憂げな声だった。
『こんな世界を描かせてしまって、ごめんなさい』
泣きながら目の前の彼女は言う。見覚えのある顔が遠のいていく。意識が物凄い速さで落ちていく。まただ。超磁気にでも引っ張られる感覚。あの場所から帰る時と同じだ。それならどうして夢を見ているのだろう。まるで記憶を辿っているかのように、丁寧になぞっているのだろう。些細な違和感は大きな疑問を呼ぶ。もう少しで何かが思い出せる。いかないでくれ。置いていかないでくれ。どうか、どうかもう少しだけ━━━━。
「おっきろー!!」
「ぬぉっ!?」
焦燥感と夢の出来事を考える間もなく、真っ黒な意識に眩い白色の爆弾が投下された。急激な環境の変化に耐え切れず、思わず変な声が出た。うっすらと開きだした視界の全面に、ポンコツの得意気な顔があった。
「おはようございます飯ヶ谷さん」
「……あぁ、おはよう。もっとマシな起こし方はなかったのか?」
「起こしてもらった立場で何を言っているんですか。というか私、普段からこんな起こし方されてるんですからちょっとした仕返しです。飯ヶ谷さんが遅いのがいけません」
「いやまぁ、そう言われるとぐぅの音も出ないんだが」
「でしょう! そうでしょう!? 少しは私の気持ちが分かりましたか? 今度からはもっとマシな起こし方でお願いします。私は叩き起こされないことを所望します」
「体を揺すっても起きないお前が悪い」
「確かに!」
しまったと言いながら頭を抱えるポンコツ。こいつ朝から元気だな。昨日あれだけ体を動かし魔力を消費したのだから、もう少しぐったりしていて欲しい。
「ほらほら、なーにぐったりしてるんですか。時計見てくださいよ」
「おぉう、もう昼過ぎなのか」
促されて確認した時計の針は既に正午を通り過ぎ、十三時三十分を示していた。まさかポンコツに先を越され、こんな時間に起きてしまうとはな。少し前の俺が聞いたら笑われそうだ。
「ポンコツはいつから起きてたんだ?」
「珍しく飯ヶ谷さんより早く起きられて上機嫌な私ですが、実は起きたのは十五分ぐらい前です」
「その割にはやけに元気そうじゃないか」
「んー、お腹が減っているので本調子ではないです」
それはつまり昼食を作れと言っているのだろうか。きっとそうなのだろう。でなければ右手にフライパンなんて持っているはずがない。フライパンとお玉を持って起こしに来る奴って本当にいるんだな。人間が作り出した空想の中だけに登場するのだと思っていたよ。
「……で、天使様は何を御所望で?」
「そうですねぇ。もう良い時間ですしガッツリ系じゃないのでお願いします。有り体に言えばハニトーですっ! むしろ私はハニトーが食べたいですっ!」
そう言われてここ最近の食生活を振り返ると、疑いなくハニートーストは食べていなかった。多分、すっごい食べたかったんだろうなポンコツ。ここに来た当初は毎朝食べていたし、他のレパートリーを進めても結局ハチミツに戻ってきたからな。それほど好きな物がここいらで全く口にしていないとなると、まぁ禁断症状的なのが現れても仕方がない。
「分かったわかった。今作るから座って待ってろ」
「わーい!」
「だから子供かて」
両手を天高く上げ、物凄い勢いでリビングへと天使様は駆けていく。あんまり走り回られると他の住人から苦情が来るからやめろと訴える間もなく、ポンコツの姿は消えていた。頼む天使様。もう少しだけ威厳のある感じになりませんかね。なんてことを考えながらキッチンへと向かう。視界の隅に行儀よく座って目当ての物を待っている姿は無視しよう。
未だ冴えない頭をゆっくりと展開して、食パンをオーブンに突っ込む。焼いている間に欠伸を噛み殺しながら野菜を炒めていく。もう夢の話は細かく砕かれ風化してしまった。今の頭の中にあるのは食のことだけ。さて食欲があまり湧かないとは言え、ハニートーストだけではバランスが悪い。昨日で魔力も大量に消費しているし栄養は取りたい。そうこうしていると甲高い音が鳴った。熱気が顔を襲う。アツアツの食パンを取り出し、蜂蜜をたらす。一枚は適量。もう一枚は表面から溢れるように。ポンコツはかなりたっぷりとかけないと苦情を入れてくる困ったクレーマーと化すのだ。
「こんなもんか」
あとは珈琲を淹れれば完璧である。ようやく目覚めだした意識を手繰り寄せて豆を引いていく。がりがりと手に伝わる感覚と、微かに香り出す香ばしさが目を開かせる。生きている中でこの時間が一番好きだ。本格的に淹れ出したのは二年前。一種のルーティンとして成立するのには十分すぎる時間を注いできただろう。
「出来たぞー。自分の分は取りにこーい」
「もうきてますっ!」
お腹の減った天使様はすぐ隣にいた。この香りに吸い寄せられたんだな。無理もない。
「ミルクとシロップどっちだ?」
「んー、今日はミルクで」
「あいよ」
炭酸は飲めるし辛いのも問題なく食べられるポンコツだが、苦味だけはまだ無理らしい。いつか死ぬほど疲れた時にでもこの良さが分かってくれた嬉しい。疲れた身体には自然と染み込んでいく。それを感じた時、珈琲に取り込まれ虜になるのだ。
「よし、じゃ食べるか」
「いただきます!」
感謝の言葉と同時にポンコツは物凄い勢いで食べ始まる。久し振りの蜂蜜がよっぽど浸透するのか恍惚の表情を浮かべ、一口をやたら丁寧に食べていくポンコツ。品がある食べ方をするやつはもっと他にいるが、ポンコツ以上に美味しそうに食べるやつはいないだろう。おまけにこれでもかと沢山食べるのだから作った側も冥利に尽きるってもんだ。
「んんんぅ〜〜〜! 糖分が頭と身体に行き渡る!」
「美味しそうでなによりだ」
「やっぱり蜂蜜はたっぷりかけないと美味しくないですよねぇ。 飯ヶ谷さん追加でいります?」
「……いや、やめておく」
「えぇー、美味しいですよー?」
見ているだけで胸焼けしそうな量だと言うのにまだ追加するのかこいつは。魔力の回復というのは基本、自然的に回復する。中でも睡眠時には回復量が増え、全快近くまで持ち直す。他にも呼吸をしているだけで酸素と一緒に微かに取り込めるが本当に雀の涙程度でしかなく、睡眠以外で本格的に取り込もうとするなら食事が一番だ。どんな料理でも程よく取り込めるが、自分がとりわけ美味しいと感じる物だとより一層取り込める。当然何が一番美味しいかはそれぞれ違うわけで、俺にとっては珈琲であるしポンコツにとっては蜂蜜が恐らくそうなのだろう。それでも掛けすぎだとは思うが。
「さてさて飯ヶ谷さん、残り少ない今日はどう過しますか?」
「そうだな。さっき冷蔵庫の中を確認したがまともな物がない。だから買い出しには行きたいな」
「ふむふむ。確かにここ最近は忙しくて買い出しにも行けてませんでしからね。ついでに今日の夕飯も決めちゃいましょう!」
「遅めの昼を食べている最中だが、夕飯何が食べたい?」
「その言葉そのままお返ししますよ。飯ヶ谷さんこそ何か食べたいのないんですか?」
「そうだなぁ……」
パンくずが散らばったアルミホイルを見ながら考える。胃が動き出したからか少し食欲が湧いてきた。なんならガッツリ食べられてしまいそうなほどに。中途半端な時間に中途半端なお昼を取ったからだろう。そうなるとステーキなんかもいいな。昨日ポンコツが言っていたように対抗戦も終わったのだし、奮発して高めのお肉を買っても良いだろう。問題は昨夜も肉だったことだ。厳密に言えば肉うどんであるから単体ではないが、牛肉が連続になってしまう。
「なぁポンコツ。牛肉が二日も続くのは抵抗あるか?」
「全然」
即答。むしろ上等とでも言いそうな勢いだった。
「よし、そうと決まればさっさと行くか」
「お、決まったんですね。今から何を買いに行くんですか?」
「ちょっとお高めのお肉だ」
「ふわぁ!?」
「な、なんだよ」
「え、え、良いんですか?」
「昨日言ってただろ。対抗戦も終わったんだし、良いの食べようぜ」
「……たぁ」
ポンコツがフリーズした。いかん。急激な価格の変化についていけなかったのか。
「ポンコツ?」
「やったぁぁぁぁぁ!!」
「ごふッ!」
恐る恐る声をかけると物凄いスピードの拳を顎に喰らった。高いお肉はここまで天使の感情を昂らせるのか。意図的に本気になるよりも無意識の昂りの方が上だと言うのか。対抗戦の時よりも早かったぞ。
「ん、飯ヶ谷さんどうして仰向けで寝転がってるんですか? 早く買いに行きましょうよ!」
「そ、そうだな」
お前の鉄拳のせいだとは言えず、少し赤みがかった顎をさすりながらよろよろと起き上がる。
「ささっ、行きましょうか!」
その後、鼻歌交じりにスキップするポンコツの後を追い、いつもの古城のようなスーパーに向かった。予定通りいい牛肉を買った帰りの交差点でふと思った。ポンコツが来る前と今ではどちらが良かっただろうかと。それは意外にもあっさり答えが出て、どうにも目の前の小さな天使様に益されているなと思う反面、やっぱり毒されているなと頭を抱えるのだった。




